(・・・・まだ、死んでない) 

 目を覚ましたタリアが最初に思った事は言ってみれば実も蓋も無い現状の確認であった。
 この世界において一般に信じられている「死後の世界」とは、信じる月の元へと旅立つ、ないし、また再びこの地に生まれ変わって現れる、といったものだが、タリアはあまりそれを信じていなかった。
 第一、今まであれだけ殺してきたのだ。死んだのならば、こんなに穏やかな目覚めを迎えられる場所にいられるなど、あまりにも虫が良すぎるというものだ。
 死んだら、自分は消えてしまう。むしろ、そう考えていないと死の恐怖に押しつぶされてしまうだろう。死んだ後もまだ苦しみに満ちた世界が続くなど・・・・考えたくも無い。

 ともかく、彼女が目を覚ました部屋・・・そう、いつの間に屋根の下に移動したのか、まったく記憶が無いのだが・・・そこは、なぜか懐かしい空気を感じる空間であった。
 意識を失う直前に考えていた事が思い出される。環境の変化など久しく無かった身に唐突に降りかかってきた変化の中で、なぜか新しく見るはずの景色に既視感を覚えてしまう。
 今度の懐かしさは、意識を失う前の深い絶望を与えるそれと違い、もっと昔の・・・・

「・・・・お母さん」

 思わず、呟きが漏れ、その声に自分で驚きを覚える。内容にも、声色にも。何故、こんなに震えているのか。声の震えは、恐怖の表れなのか、何故、ここで恐怖を感じるのか?・・・漏れた呟きは母親を呼ぶもの、これは、恐怖ではない。
 タリアの頬を、涙が一筋流れた。

「・・・・・?」

 その涙に、最初に感じたのは疑問であった。彼女は、自分が泣くという事をほとんど忘れかけていたのだから。しかし、自分が零れ落ちるほどの涙を生んでいた事も事実であり、それを自覚し始めた時、部屋のドアが開いた。

「あら・・・起きていたのね。具合はどうかしら?」

 言いながら、タリアの寝ているベッドに近づいてくる。タリアにとって始めて見る顔。昨晩、タリアを連れて行かせた女性である。状況から考えれば、警戒心を抱いてもいい場面であり、普段のタリアであれば間違いなく警戒していたであろう。
 事実、声を聞いたタリアは瞬間的に身を強張らせて声の主のほうに振り向いた。武装は無く、全くの無防備である事は自覚しているので、反射的な行動ではあるのだが・・・

「御免なさい、驚かせてしまったわね。・・・・大丈夫、ここにはあなたに危害を加えるような者はいないわ。そんなに怯える事は無いのよ。ほら、涙を拭いて・・・・

 ゆったりとした・・・優雅ともいえる仕草でタリアに近づき、ごく自然にハンカチをタリアに差し出す。部屋の中の調度品といい、この、今自らが寝ているベッドといい、決して高級とは言えない・・・むしろ、粗末とさえ言ってもよい物であるのに、彼女の立ち居振舞いはまるで、そこだけ王城か宮殿の中にでもなったかのようだ。
 だが、それだけでは無い気がする。何か、得体の知れないものを感じる。
 タリアは、この女性から受ける感覚を何とか分析しようと試みた。まず、そもそも彼女からは敵意や害意というものが全く感じられない・・・サングラスをかけていない瞳を見られているにもかかわらず。
 なにしろ、村を出てからこの方、この瞳を目にして敬遠の感情を見せなかった者など全く皆無といってよいほどであった。実際には、敵意を感じないという事そのものが「得体の知れない」事であるのかもしれない。しかし、まだ、それでも足りない。この女性から受ける感覚は・・・
 思考がループを形成してしまい、ハンカチを見つめたまま動かなくなったタリアの様子を見て、女性はほんの少し微笑みの質を変えてタリアに顔を近づけた。

「本当に、大丈夫なのよ・・・泣くときは、思いっきり泣いていいと思うけれども、涙は拭いたほうがいいわ。しっかり前を見るためにも、ね」

 言いながら、髪を手で撫で付けつつ頬の涙をぬぐいとる。ふわりと、温かい香りがタリアの鼻腔をくすぐった・・・・・・記憶にある、感覚。部屋の中に満ちていた感覚。この女性から受ける感覚。全てが、タリアの中で繋がっていった。そういえば、過去、自分の瞳を見て全く敬遠の色を見せなかった者がいたではないか。

「お母さん・・・・・・・・」

 呟いてしまうと、もう、止まらなかった。部屋の様子も、目の前の女性も、遠い昔に失った暖かな世界の断片に見えてきてしまう。両親が死んだときにも流さなかった涙が、勝手にあふれ出てくる。
 しばらくの間、タリアは声を殺して泣き続けた     

    落ち着いたかしら?」

 頭をなでられ続けていた事に気付いたタリアが泣き止んだのを見て、女性が発した声に対し彼女はほんの少しばつの悪い思いを抱く。思えば、この女性の名前すらも知らないのだ。

「・・・・・はい」
「ふふ。気にしなくてもいいのよ。言ったでしょう? 泣きたいときは思いっきり泣くべきだ、て」
「はい」

 もう少ししっかりとした・・・失礼の無い応対をしたいと思うのだが、どうしても思うように言葉が出てこない。相手もどうやら気にしている様子が無いので、とりあえずぶっきらぼうな言葉づかいになってしまう事はあきらめる事にした。出来ないものは出来ないのである。

「私の名は、ラフィリア=ブルクスト。よかったら、あなたの名前を聞かせてくれるかしら?」
「・・・タリア=ティアリン」
「タリア・・・良い、名前ね・・・・少し、話したい事があるのだけれど、いいかしら?」
「かまいません」

 そうして、ラフィリアはゆっくりと語り始めた。争いに満ち満ちたこの世界で、これ以上悲しみを増やさぬよう、平和を目指して立ち上がった事。少しずつ賛同者も集まって来てもう少しで組織としての体を成すまでになってきている事。・・・もしも、差し支えが無いのであれば、組織の一員になってほしい、という事。

「・・・私は・・・」
 言いかけて、タリアは言葉を飲み込んだ。この人は、自分の素性を知っているのだろうか? 殺す事しかできない自分のことを。

「・・・私は・・・」
 しかし、だからといって申し出を拒否する事など思いもよらなかった。まさに、渡りに船というべき幸運なのだ。

 なかなか言葉の出て来ないタリアの様子を見て、戸惑いだと感じたのだろうか。ラフィリアは焦って結論を出す必要が無い旨を伝えると、部屋から出て行った。しばらくしたら食事を持ってくることを言い残して。
 タリアは、逡巡していた。申し出を拒否するべきなのか、それとも、素性を打ち明けるべきなのか・・・・彼女の思考の中で「素性を偽る」という選択肢は、論外になっていた。とても、あの女性を相手に偽る事など出来そうに無い。だが、素性を打ち明けても彼女はまだ「組織の一員に」などと誘ってくれるのだろうか?
 どれだけの時間、逡巡を続けただろうか。タリアはドアをノックする音を聞いて我にかえった。

「・・・どうぞ」

 もう来てしまったのだろうか? まだ、何一つ結論を出していない。ここ数年の生活の中でついぞ無かった「選択の必要がある局面」に、タリアはひどい混乱に陥ってしまっていた。部屋の中に招き入れる台詞を口にしたものの、心の準備は全く出来ていなかった。

「失礼する」

 タリアの予想に反して、入ってきたのは壮年の男性であった。腰に下げているのはガヤンの聖印。無礼ではない程度に油断も隙も無い動作でタリアの方をうかがいながら近づいてくる。言葉にすれば簡単であるが、よほどの訓練を受けていないと出来ない行動。十分警戒に値する相手である。

「先ほど、ラフィリア様から話は聞いていたと思うが・・・・・」

 タリアが瞬間的に手を延ばせる間合いの半歩外に立ち止まり、男は話し始めた。まだ、名を名乗ってもいない。ラフィリアと関係がある人物のようだが、タリアは警戒の色を解くことが出来なかった。
 男は、かまわず話を続ける。

「君の答えを聞く前に、私から伝えておくべきことがある」
「・・・・」
「私は、君の名前を知らないが、君の顔は、手配書で見た事がある。闇タマットの一員として、手配されている君を、だ」
「!」

 男の口がゆっくりと言葉をつむぎ始め、終わる前にタリアは身を強張らせた。逃げるべきなのかもしれないが、この男の隙を突く事など出来そうに無い。だが、素性を知っているという事は、今すぐにでも自分に危害を加える可能性があるという事でもある。ただ手をこまねいているわけにもいかない。
 素早く、部屋の中を見渡す。出口のドアにたどり着くためにはどう考えてもこの男の間合いの中を通り抜けなければならない。不可能だ。ドアの反対側には窓がある。果たして、そこにたどり着く前にこの男の手の伸ばせる範囲から逃れられるだろうか・・・?

「・・・先に言っておくが、今のところ、私は君を捕縛しようとは思っていない。落ち着いて話を聞いてくれ」

 男の言葉を聞き、タリアはおとなしく従う事を決めた。言っている事が本当なのかどうかは分からないが、少なくとも今動く事は得策ではない。
 男は、おとなしくなったタリアを確認すると再び言葉をつむぎ始めた。

「まず、認識してほしい事だが・・・我々は、ラフィリア様に共鳴してその理想のために集ったものだが、その出自は、実際、あまり問うていない。ラフィリア様の方針・・・というより、あの方の特性なのだろうが・・・・ともかく、君が過去にどのような事をしていても、我々はそれを理由にして仲間にする事を拒みはしない」
「・・・・・!」
「念のために言っておくが、ラフィリア様も、既に君の手配の話は知っている・・・私個人としては、非常に危険な行動のように思えるが、ラフィリア様も、あれで、頑なな方だ。ならば、我々があの方をお守りするのが道理だろう」
「・・・・」
「もちろん・・・・・君が、ラフィリア様に害をなすことになった場合は・・・・相応の事は、覚悟してもらいたい」

 瞬間、心臓を掴み取られるような殺気を感じ、タリアは見開いたままだった目を瞬かせた。この男は、間違いなく、本気だ。そして、ここまでの男を心酔させるラフィリアという女性・・・・
 先ほど彼女に会った時の感覚を思い出しつつ、タリアは自分もこの男と同じ側に回っているのを感じていた。あの、何もかも包み込むような語り方、物腰・・・何よりも、自分のような存在でさえも、受け入れてしまう心。

「もしも、君がこの組織に参加する気が無いのなら、それでもかまわない。この後、どのような生き方をするも、君の自由だろう。恐らく、今の世の中なら逃げ切る事も簡単なはずだ。幸か不幸か・・・君のような末端の悪を取り締まれるほどの余裕も無いのだからな」

 ガヤン信者らしいこの男が吐くには、身を切るような台詞だったのだろう。表情にそれほどの変化は見られないものの、常にタリアに向けられていた目を瞑っている。

「だが、これから我々が建設しようとしている村・・・・共同体内では、無法を許しはしない。それは、すなわち、我々の組織に参加するならば、君が本来持っていた自由がある程度減る、ということになる。その点は、理解してもらいたい」

 再び目を開いてつむぎだした台詞は、彼の精一杯の正義感の現れだったのだろう。言ってみれば彼の台詞は「平和をもたらす」という理想から見ればあまりに偏狭な「自分の身の回りさえ良ければよい」という発想からのものに見える。しかし、幾つもの辛酸を舐めてきたであろう彼の口から発せられると、少なくとも最低限、そこだけは忘れないという重みを持ったものに感じられる。
 ただ、今のタリアにとっては、どちらであってもあまり関係が無かった。既にもう、身の振り方は決めている。他に選択肢などありえない。

「しばらくしたら、ラフィリア様が戻ってくる。回答は、そのときラフィリア様に直接言うのが良いだろう・・・・私の話は、以上だ」

 男は、結局名乗ることなく、話を終えて部屋から出て行った。残されたタリアは、その事について何の感情も抱かず、ただ、ラフィリアの到着を待った。


 ほどなくして、再びラフィリアがやってきた。手には、暖かそうな湯気の立つ食事が乗った盆を持っている。

「しばらく、食べてなかったでしょうから、食事は軽いものにしたわ。ゆっくりと、慌てないように食べて。火傷しないようにね」

 ベッドの上に簡単な食卓を作り、盆を乗せる。どうやら、ラフィリアはタリアが食事を終えるまで話をする気は無いようだ。
 その柔らかい笑顔にせきたてられるようにして、タリアは食事を口に運ぶ。実際、急かされている訳ではないのだろうが・・・受ける感覚は・・・そう、まるで、母親に「冷めないうちに食べなさい」と言われているかのような・・・そういえば、温かい食事など、一体何年ぶりになるのだろうか?
 タリアは、とにかく無心で食べ続けた。あまりものを考えながらだと、また、無様に泣きはらしてしまうかもしれない。

 食べ終わった後、しばらくラフィリアの方を見つめる。まだ、話は始めないのだろうか?・・・

「・・・お口には、合ったかしら?」

 その台詞を掛けられて、初めてタリアは、食事後の挨拶をしていない事に気付いた。これもまた、数年の間していなかった事なのだ。

「・・・美味しかった、です。・・・・・ごちそうさま」

 その言葉に、にっこりと微笑み、ラフィリアはタリアに語りかけた。
 先ほどの誘いに対する返事を、決めあぐねているのならば、それでもかまわない事。
 だが、タリアはもう、答えを決めていた。ただ、一つだけ聞きたい事があっただけで。

「・・・・何故、私を助けたのですか?」

 タリアは、答えを求めているわけではなかった。ただ、自分の素性を知ったうえで、それでもこうして助けの手を差し伸べ、仲間に誘うと言う・・・・今までの生活からは全く想像もつかない発想に対して、純粋に疑問を抱いており・・・・気がつくと、素直にその疑問をぶつけていた。
 ラフィリアは、ほんの少しびっくりしたような顔をして、その後軽く微笑みがらこう言った。

「道端に倒れている人がいたら、それが誰であっても助ける・・・私は、当然の事だと思うわ」

 その微笑に、タリアは胸に秘めた決心を再確認する。口を、動かし、言葉をつむぐ。

「ラフィリア様」

 自然に、敬称が口をついて出る。気がつくと、ここ数年に喋った言葉分をはるかに超える勢いで言葉がつむぎだされていた。
 それは、すなわち・・・・

 ラフィリアという存在を守りたいという事、自らに出来る事を全てラフィリアに捧げたいという事・・・・

 途切れ途切れながら、やっとの思いで言い切ったタリアに、ラフィリアが微笑みを返す。タリアは、安堵の息をつき、ほんの少し表情を和らげる。
 ・・・それは、もしかしたら笑顔、といって差し支えないものだったのかもしれない。

     こうして、後に『風色の翼』と呼ばれる事になる組織の初期メンバーの一人としてタリア=ティアリンは名を連ねる事になった     


<BACKCONTENTSNEXT>