戦時の混乱の最中、夜の裏通りなど、まともな人間はまず通るわけがなく、少女    タリアは弩をすぐに発射できる状態にして周りを警戒していた。
 この場で会った者は、間違いなく自身に危害を加える者であることが明らかであるから。

 何かの薬をやっていたであろう目の据わった若者。隙あらば命ごと所持品を奪おうとする少年。絶望的な努力だと分かっていて警備をしていたガヤン神官の青年・・・・・
 滅多に無い事とは言え、逃げ切れないと判断した時には容赦なく一撃で急所を射抜いてきたタリアは、今日も『無用の殺生』を厭う気などなかった。
 殺せば殺した分だけ足が付きやすくなる事は理解している。しかし、存在自体が非合法である闇タマットの組織に属する彼女にとって、自らの姿を目に止めたものはすべからく敵であることもまた、事実と言える。

 結局、自分に選択肢など無い。

・・・・・『死にたくはない』と考える限りにおいて、事実、彼女に選択の必要がある場面など、文字通り存在しなかった。それは、ただ『生きる』ということに流されているだけの毎日。
 何故そこまでして生きる必要があるのだろうか? もしかすると生じたかもしれないそんな疑問は、深く思考することを放棄してしまった彼女には終に生じる事が無かったのだ。

 雲の無い夜空から、青の月が変わらず下界を照らす。人工の光の絶えた裏通りは『秩序』を司るというこの月によって冷たい群青色に染められていた。

 タリアは、黙々と歩き続ける。
 幾度となくこうして夜の街を徘徊しているうちに、この街の構造はかなり熟知するに至った彼女であるが、『下見』を欠かした事は無かった。狙撃ポイントとそこからの逃走経路は、その都度確認しておかなければ、どんな変化があるとも知れない。「生き抜くため」、「無様な死体をさらさぬため」、これもまた『組織』に教えられた、なすべき行動である。

     そうして、三刻余の時が流れ・・・・・狙撃ポイントまでの道を往復した彼女は、特に問題なし、という結論を下し帰ってきた。
 裏通りに面した、見た目は何の変哲もない民家の門を潜り、自分の姿が見られていないことを注意深く確認しながら庭の植え込みに巧妙に隠されている地下のアジトへの入り口に向かう。
 全く隙のない一連の行動の後、まるで突然消えてしまったかのような錯覚すら抱かせる素早さで地下に身を躍らせたタリアは、そのまま石段を降りてゆく。
 石段のふもとには出るときにサングラスを受け取った見張りの男の部屋がある。見張り、と言っても四六時中いる訳でもなく、何を見張っているのかも実際定かではない。
 この地下室がもともと何のために作られ、何に使われていたのか、タリアには知る由も、知る気もなかった。しかし、少なくとも今は彼女が唯一の「住人」となっている建造物である。
 「見張り」の男はまるで気が向いたときにだけその任務を行っているかのような頻度でしかこの部屋には現れない。そもそも外敵に襲われたときにここの「見張り」がどれだけの意味を持つのか、はなはだ疑問であるし、中に住む少女が脱走したところで「組織」がそれを追う事は造作も無い事であるし,そもそも彼女には他に行く所などありはしない。彼には、実際仕事らしい仕事など存在しないのだ。

 そうして、今夜もタリアが戻るころには無人となっている部屋の前を彼女はサングラスをかけたまま通り過ぎた。出るときにはここで受け取ったサングラスであり、基本的にはここに返すべき物とされているが、全く守られている様子はない。そもそも『上』がなぜそんな規則を課したのかも全く分からない。
 意味不明の規則は、それを守らせる側もルーズになり、タリアにしてみればそれに進んで従う義理もないわけで、自然、サングラスが彼女の部屋にある頻度も増えていた。

 ともあれ、そのまま石畳の廊下を進んだ彼女は、サングラスを掛けたまま廊下の最奥部、右側にある部屋のドアを開け中に入る。 
 部屋のテーブルの上を一瞥して夕食が用意されているのを確認した彼女は、ひとまず普段着に着替えてから食卓につく。支給された黒衣は彼女であってもあまり気分のよくない物であり、長時間着ている気にはなれないようだ。

 黒パンが一つに、申し訳程度によそわれた豆のスープ    この混乱した世において、少なくとも食事が確保されていることには感謝すべきであるのだが‥‥彼女の働きと、成長期の少女がとる食事であることを考えると、いかにも少なすぎる感のあるそれを胃に流し込む。
 ‥‥既に空は白んでいる時刻。食事を終えたタリアは、陽の光を避けるようにして眠りについた    


 次の日の夜も更けてきたころ、町外れの廃屋の屋根の上には既に一人の少女の姿があった。彼女は時々空を見上げては、月の位置で時刻を計っているようであった。
 彼女の知る情報によれば、もうすぐ、待ち人はこの前の道を通りがかるはずである。おそらく、二頭立ての馬車に乗って。
 タリアは、既に弩に矢をつがえている。これまでに幾度となく仕事をこなしてきた彼女は、当然、馬車中の人物をターゲットとした事もある。そして、彼女は一度として任務を失敗した事がない。

 弩は当った時の威力こそ強烈であるが、矢をつがえて引き絞るためにどうしても数瞬の間が必要になる。不意打ちであれば一射目こそ必殺の一撃を打ち込む事もできるが、その次の数瞬の間は訓練された兵に対応させるのに十分の時間である。
 タリアの弩の才能は狙ったポイントを過たず射抜く狙いの正確さにあり、弩という武器の構造上の限界である連射能力に関しては何の対策も加えられていない。そして、馬車中の人物を確実に射殺するためには通常ならば最低でも二射必要であると考えられる    馬車を止める為の物と、ターゲットを射抜く物。
 一射目で例えば御者を射抜き、馬車を止める。それからあらゆる相手の反応に対応して第二射でターゲットを射抜く‥‥理想的に事が運べばこんなシナリオも描けなくはないが、実際はそうもいかない。ターゲットが見える所に出て来てくれるかもわからないし、時間を掛ければ掛けるほど自身を発見される可能性も増える。スナイパーにとって潜伏している場所に踏み込まれることは間違いなく敗北を意味するのだ。

 常人ではまず不可能といえる弩による馬車中の人物の暗殺を可能にしているタリアの才能とは、つまり、常人離れした視力にある。闇の中、彼女の青い右目は馬車の中にいる人物を小さな馬車の窓からでも確認できる。生まれつきの特徴と訓練の結果得たこの能力で、ターゲットを確認した後はこれまた訓練によって得た正確な狙いによって一射目にターゲットを射抜く事を可能にしているのだ。

     馬車の走る音が風に乗って聞こえてくる。タリアは、弩を構えて一直線の道の向こう側に見えてきた馬車を見つめる。・・・・その中に居るターゲットと目が合う。
 初老の男性。
 確認した瞬間、彼女は無造作にも思える素早さで弩の引き金を引く。発射された矢は、瞬間、馬車の前方に外れたかと思えるような軌道を描き・・・・・走る馬車は、その軌道に向って走り続けていた。
 短く一呼吸をする間もあったであろうか。ゆっくりと、しかし、あっと言う間に矢は馬車の窓に飛び込み、ターゲットの眉間に深々と突き刺さった。驚愕と恐怖の顔のまま凍りついた彼の瞳が最後に見たものは、迫る矢であったのか・・・・それとも、悪魔の授け物とまで言われた少女の青い右目であったのか。 
 何が起こったのか気付きもせず、脳まで貫かれて即死した客を乗せて、御者は馬車を走らせ続ける。
走り去る馬車を確認し、タリアは撤収を始めた。良過ぎる視覚がはっきりと捕らえたターゲットの恐怖の表情は、そう簡単に記憶から拭い去る事は出来ない。

(私の右目には、本当に悪魔が棲んでいるのかもしれない・・・)

 同じような表情を幾度も記憶に刻み付けているうちに、彼女は自然にそう思うようになってきていた。だからどうする、というわけでもない淡々とした感想。実際、今の彼女はそれでも何ら困りはしないのだ。
 少しずつ白んでいく空の下、タリアは心もち足早にアジトへの道を進んだ。

 アジトには、今夜も、見張りの姿は無い。
 タリアは、気にも留めず、サングラスのまま部屋に戻った。


 ・・・夜明けと共に始められたタリアの眠りは、しかし、昼前に打ち切られる事になる。
 廊下越しに、尋常でない喧騒が階上から聞こえてくる。もともと寝起きの良い方とは言えない彼女でも目を覚ますほどの喧騒。
 剣戟の音。
 断末魔の叫び。
 怒号と靴音が少しずつ大きく聞こえてくる。聞こえてくるかすかな会話が、状況を伝えてくる。

「地下への・・・・・準備完了しました」
「他に・・・・が・・・・確認」
「損害は・・・逮捕者・・・」

 どう考えても、穏やかな状況ではない。おそらく、ガヤン神殿による強制捜査と掃討。この規模から考えて、何か決定的な証拠を掴まれたのか、内通者がいたのか・・・何か、自分にミスはあっただろうか・・・瞬間、駆け巡る思考の中、彼女はすぐにその無意味さを悟り、脱出の準備を始めた。いつのまにか身についていたどんな状況でも失わない冷静さ。それが彼女から年相応の少女らしさを失わせてもいるのだが、この場では彼女の身を助けていた。
 装備として『黒い服』は意味が無い。既に日は十分に高くなっている。弩を打つ機会は何回あるだろうか。サングラスは・・・・手放せない。この瞳を陽の元にさらすのはもう嫌だった。
 タリアはさらに思考を巡らせる。外に出てしまっては、無為に囲まれてしまうだけだろう。万が一にも、状況を突破できる可能性があるとしたら、廊下を走ってくるであろう寄せ手を一人ずつ射抜くこと。弩の連射性能を考えるとそれも無理のある作戦だが、地上で走りながら矢の装填を行うくらいならば、まだましなほうである。

 ・・・・状況としては、絶望的と言うに近いものである。闇タマットに所属して幾人も人を殺めている彼女は、捕縛された場合まず死刑を免れないであろう。そもそも、脱出のためにはまた幾人か手に掛けなければならない。そこまでして生き延びる価値があるのだろうか。

 ・・・・生じるかもしれなかった疑問は、今回も、やはり彼女の思考に上る事が無かった。実際、そんな暇などなかったわけだが・・・・
 ドアノブに手を掛けて、一気に開けて外に出る。押し開けられたたドアは、いっぱいに開ききって壁に当たる。タリアはすぐに階段の方に向って弩を構えた・・・・

(・・・・?)

 構えた方向には、何者もいなかった。が、その事以上に或る事に違和感を感じたタリアは、用心深く、ゆっくりと後ろを振り向く。・・・・何故、ドアが「いっぱいに開ききる」のか?

 そこには、あるはずの壁が存在していなかった。この部屋は廊下の最奥部にあるはずであったのに、行き止まりの壁は存在せず、通路が延びている。

 タリアは目を瞑り、聞こえてくる音に集中した。物音は、いつもの出入り口のほうから聞こえてくるように感じる。彼女はこの組織のアジトの全容を把握してはいなかった。ただ、廊下の伸びる方向から考えて、新しい通路は、外に向っている・・・・抜け道であると考えるのが妥当だろうか。 
 既に、この通路を使って組織の主要メンバーは脱出しているのだろうか? それとも、この道を進んだら、ガヤンの神官戦士に取り囲まれる事になるのだろうか?・・・・・・
 瞬間、迷いを見せたタリアは、しかし、すぐに新しい通路の奥に向かって駆け出した。このままここで来る敵を迎え撃つよりも、ずっと割が良い賭けであると判断したのである。

 思ったよりも短い通路を駆け抜け、突き当たりにある梯子を登っていく。登っていく過程で、それが古井戸である事に気付き、タリアは少し安堵する。屋敷の敷地の中に井戸のような物があった事を思い出し、確か、裏口がすぐそばにあった事に思い至る。人の気配が感じられない上の状態であれば、案外簡単に脱出できそうだ。

 梯子を登りきり、井戸の縁から顔を覗かせ、外の様子を探る。裏口は、記憶にあるよりも遠くではあるが、確認できた。あたりに人のいる様子は無い。タリアは背中に背負っていた弩を手にして、矢を装着すると、一気に裏口に向って駆け出した。瞬間、誰何の声がかかる。

「何者だ! そこで何をしている!」

 後ろから掛けられた声に振り向くと、武装したガヤンの戦士の姿。建物の陰から姿をあらわしたところのようであった。

「組織の者か? そのクロスボウは・・・!!」

 近寄ってくる男に向かって、無言で弩を発射する。いきなりの行動に対応の遅れた男は、よけきれずに太腿を貫かれ、たまらずに倒れこんだ。

「くっ!!!・・・捕りのがしだ! 裏口から逃げるぞ!」

 発射と同時に裏口に向かって駆け出したタリアの後姿を憎々しげに睨みながら、男が声を上げた。靴音と鎧の擦れ合う音が数人分近づいてくる。タリアは、裏口を開けて外に出ると、弩を捨てて全速力で走り出した。おそらく、これを持っていては目立ちすぎる。

「あっちだ! 逃がすな!」

 後ろから声が聞こえてくる。重い鎧を着けていても、訓練を積んだ戦士の足はほとんどそれを感じさせない。しかし、まったく装備らしい物を着けていないタリアは、何とかそれを振り切って町外れまで逃げ切る事に成功した。

 ・・・・ずっと走り詰めだった脚を休め、街道の木陰にしゃがみ込んだタリアは、これからのことを考えていた。
 この街には、間違いなくいられない。自分の容貌では、あっと言う間にガヤン神殿の者たちに発見されてしまうだろう。潜伏して暮らそうと思うほど愛着があるわけでもない。かと言って、故郷の村に帰るなど、論外である。考えるまでも無く、そこでも、彼女はお尋ね者だ。

「・・・・無様、ね」

 思わず口をついて出てきた言葉が、奇妙なまでに自分を言い表しているような気がして、タリアはほんの少し口をゆがめた・・・・・もしかしたら、笑ったのかもしれない程度に。

 疲れた脚に鞭打ってタリアは立ち上がり、歩き出した。どこに行く当ても無いが、このままここにいてもいずれガヤンの者に発見されて捕縛されるだけである。とにかく、完全に街の外に出なければならない。街道を通って隣の街まで行けば、少なくとも追っ手は来ないであろう。
 戦乱の世の、治安維持に割ける労力はせいぜい街単位である。たかが組織の末端の少女一人、別の街にまで追っ手を仕掛けるほどガヤン神殿は暇ではなかった。・・・今のタリアにとっては、幸いな事に。
 歩き出したタリアは、今まで考えもしなかった事をぼんやりと考え始めていた。

 何故、生きているのだろう、と     


 数日後、街同士を結ぶ街道の道端に、サングラスをずらしたまま木に寄りかかり気を失ったタリアの姿があった。考えれば考えるほど、感じる事の出来ない「生きる意味」。
 彼女は、食事を求める努力を放棄してしまっていた。その気になれば、街道筋という場所を考えるに、違法な手段ででもある程度の糧を得る事が出来た可能性はある。  
 しかし、最早そこまでして生きる事に、彼女は意味を見出せなかったのだ。
 街道には、まばらではあるもののそれなりに人通りがある。しかし、タリアに目をくれる者は、ほぼ、皆無であった。あったとして、不法投棄された生ゴミを見るような視線。余裕の無い世の中、行き倒れた少女の存在など、その程度のものである。

 そんな人々の往来も、日没が近づくにつれて全く無くなっていった。街であってもあれだけ悪い治安が、このような街道の中程で確保されている訳もなく、このあたりにも盗賊、野犬の群れなど、普通のように出没していた。
 それらに奪われるのが先か、飢えによって失われるのが先か。タリアの命がまさに風前の灯火といえる状態になっていたその時、一台の馬車が彼女の前を通り過ぎ・・・・・少し行き過ぎたところで停車した。
 馬車から降りてタリアに小走りに駆け寄るのは、妙齢の女性。銀色の長い髪に縁取られた小さな顔は優しさと気品を漂わせ、何よりも意思に満ちている。すぐにタリアの前にひざまずき、手馴れた様子で彼女の様子を調べ始めた。下げている聖印はサリカの半円。おそらく、医療の心得もあるのだろう。
 そこに、慌てた様子で壮年の男性が馬車から駆けてくる。表情には焦燥感があるものの、動作には隙が見当たらない。細身ではあるものの、がっしりとした体格から想像するに、軍人であるのかもしれない。彼は、タリアの脈を取る女性に近づくと一言二言声をかけた。
 それに対して、たしなめるような女性の声。男は少し息を飲んで、彼女を見つめる。女性は、当然のようにタリアへの処置を続け・・・・・・男に一言、声をかける。
 男は、ほんの少し逡巡を見せ、やがて、タリアを抱きかかえて馬車に向かった。女性もそれに続き、馬車に乗り込む。
 沈みかける夕日の光の中、馬車は、そのまま何処かに走り去っていった     


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