Symphony or Damn≫Act 1: Symphony or Damn?≫ChapterII≫2


        4

「ちっ」
 ヴァルは舌打ちと同時に、がら空きの腹部に拳を叩き込んだ。
 相手はヴァルの拳に乗りかかるように体を折り曲げると、吐瀉物を甲板に吐き出す。
後を船員に任せてヴァルは舳先の方へと足を進めた。周囲は既に乱戦状態となってい
た。
 ディリスの港を出港して、三日目の早朝のことである。一行の乗る船は海賊の襲撃
を受けていた。
 二日前より雲が厚く垂れ込め、波が高くなった天候の下にあって、夜闇に乗じて接
近してきた海賊船に対して迅速な対応ができたのは、早朝鍛練を欠かさないヴァルと
ヨギが甲板に出ていた為であった。
 近づいてきた海賊船は交渉も脅しも無く、鉤爪付きのロープや渡し板を設置すると
二人に襲い掛かってきたのである。その数、二十名弱。敵は通常の海賊とは様相が異
なり、カトラスと呼ばれる反り身の片手剣と小型の盾で武装し、厚い皮鎧を着込んで
いた。船に乗る者達は盾など持たないし、動きやすさを重視して皮鎧といえども着た
りはしない。戦力としてはヴァル達の乗る船も同数の船員が乗っていたが、それら武
具の扱いの面で海賊に一日の長があり苦戦していた。
 そんな最中、ヴァルは海賊の一人を目指して一直線に向かっていた。
 ヴァルの視線の先には、浅黒い肌をした筋肉質の男がいた。男は無造作に、しかし
的確に船員の急所に拳を入れる。その足さばき、拳の振るい方はヴァルと同じ、そし
て頭に巻いている布に描かれた『龍』までもがヴァルと同じ物であった。身長こそ異
なるものの、それはドワーフと呼ばれる種族であり、ヴァルの良く知る人物でもあっ
た。
『手前が、なんでここにいる!』
 ヴァルの足元が大きく揺れる。海上戦闘をはじめて経験するヴァルは、波の揺れに
対してバランスを取るのに苦労させられていた。だがしかし、その足は確実に目指す
 ドワーフへと進んでいた。

 刀が一閃するたびに、ヨギの周囲では血煙が上がる。その足さばきには一片の淀み
も無い。
 飛燕胡蝶流。
 飛ぶ燕の素早さと舞うような蝶の優雅さを求めるこの流派の達人であり、幾多の戦
乱を潜り抜けて来た彼にとって、初めての海上戦闘であろうとも何の苦にもならなか
った。
 しかし、その彼を持ってしてもその場を維持するので精一杯であった。彼の背後に
は蒼ざめた顔で『影刃』を振るうミヤと、同じく口元を押さえたファルがいたからで
ある。
 海賊襲撃の知らせを聞いたルディは、ファルの制止も聞かずに船室から甲板へと飛
び出して行った。ルディを追ったファルであったが、その姿を乱戦の中で見失ってい
た。唯一の気休めは、飛び出すルディにかろうじてかけることが出来た『盾』の呪文
であった。
「全く、何しに出てきたんでしょうねぇ」
 ヨギに近づいてきながら、この状況下でも陰気な溜め息と共に台詞を吐くツェット。
ヨギと海賊の剣戟の合間を縫うようにして、手にした剣で確実に相手を仕留めていく。
「この船にはお宝なんか積んじゃあいないってのに。セドウさん、何人かは生かして
おいて下さいよ。後でじっくりと聞き出しますから」
「理由、か…」
 ヨギが呟く。確かにこの船は大商人が所有するような商船でもなければ、裕福な人
間が乗るような客船でもない。何人かの商人が金を出し合って運営している、ただの
輸送船である。これまでの経緯から見れば、この船が襲われねばならない理由が全く
見つからなかった。
 だがその理由は、ベヴェルが船室のドアを開けて甲板に姿を現した時に、相手が教
えてくれた。

「ルディ、後ろ!」
 ベヴェルの叫び声に反応したルディは、背後からの海賊の一撃を身を捻って躱そう
とする。海賊の剣はルディのマントを滑る様にして横に逸れた。シャストアのマント
のみに出来る芸当である。翻って再び襲ってくるそれをレイピアで受け流すと、ルデ
ィはそのまま相手の勢いを利用するかのようにレイピアを突き刺した。腹部を突き刺
された海賊は、そのまま仰向けに倒れこんでいった。レイピアが腹部から抜け出る。
『あんた達には、ここで死んでもらっちゃ困るのよ』
 安堵の溜め息と共にそんな呟きをもらすベヴェル。その姿を認めたルディがレイピ
アを一振りして残った血を飛ばすと、駆け寄ってこようとしたその時。
 目の前に現れた大きな背中が、ルディからベヴェルを隠した。
「お探し致しました」
 恭しくその場に片膝をついてみせる男。
「あなたは、あの時の!」
 その声に顔を上げた男は、確かに「紫の煙」亭で出会った『船長』だった。
「申し遅れました、私の名はランドゥルフ・ゲイツ。ランディとお呼び下さい」
  再び大袈裟な仕草で一礼するランディ。
「で、これはあんたの指図だって言うの? 一体何が目的なのよ」
  ベヴェルの問いにランディは顔を上げ、
「どうかこの海賊めに」
 そこで言葉を切ると微笑み、
「盗まれてやって下さい」
 言うと同時にベヴェルへと飛び掛かった。
 ルディはそのやり取りを、妙にゆっくりと感じていた。
 男の手がベヴェルへと伸びる。
 その腕を、普段の様子からは予想も付かない反応速度で躱すベヴェル。
 だがそれは彼女を追いつめる為の罠。反射的に男の腕をかいくぐったベヴェルは、
目の前に剣を構えた海賊が待ち構えていたことでそれを知る。
 ランディは動きの止まったベヴェルの背後から右手を掴むと、そのまま捻じり上げ
て壁を背にする。その左手にはいつ抜き放ったのか、怜悧な光を放つ短剣が握られて
いた。

「しまった!」
 ツェットが珍しく声を荒げた。それまで切り合っていた海賊に背を向けると、風を
巻く速さでベヴェルの方へと駆け出した。
 その無防備な背中に向けて海賊が一撃を加えようとするが、ミヤが割って入る。そ
の隙に同じくルディの姿を見つけたファルが、よろけながらもツェットの後を追った。
「お嬢!」
「駄目です!」
 そのままの勢いで男に捕まえられたベヴェルに走り寄ろうとするツェットを、ルデ
ィが慌てて制止する。
「そっちのシャストアの坊やの言う通り、近づかないで大人しくしていた方がお互い
の為ですよ、旦那」
 ランディが言い放つ。その左手に構えられた短剣は、ベヴェルの首筋に押し当てら
れたまま微動だにしない。
「そんな物騒なモンは捨てて下さいな。こっちはこのお嬢さんに用があるだけなんで
すから」
「くっ」
 歯噛みするツェット。その表情からは先程までの余裕が拭い去られていた。

 満身の力を乗せた拳が空を切る。
 上半身が左に流れたところを狙う下方からの拳を、ヴァルは一歩後退することで何
とか躱した。鼻先を通り過ぎた拳の巻き上げる風が、ヴァルに戦慄と確信をもたらす。
(間違いねぇ)
 ヴァルは左の連打を繰り出すが、これもあっさりと受けられ、横殴りの拳がこめか
みを襲う。拳は身を沈めたヴァルの頭上を通りすぎた。頭に巻いた布が引き千切られ
そうになるほどの、重い拳である。
「ジバゴ」
 呟いた名前に反応を見せること無く、目の前のドワーフは拳を振るう。
 ジバゴ。それが目の前のドワーフの名前であった。ヴァル同様、ソドム師範に教え
を受けていた弟子の一人であった。人間のガヤン神殿とは異なり、素手での取り押さ
えにその重点を置くドワーフのガヤン神殿では、その術を教えてくれる。その源流は
『龍』に憧れるドワーフが創始した『龍闘技』とされる。
 二十名を超す弟子の中でも、ジバゴとヴァルは年齢も入門の時期も近く、必然と共
に過ごす時間が長かった。「こいつも切っ掛けさえあればなあ。素質はあるんだが」
道場に入門して間も無い頃、組み手で倒れて気絶したジバゴを介抱する際に、兄弟子
がよく口にした台詞である。
 実際、ジバゴは型や戦術、技の理解においては群を抜いて上達が早かった。だが実
戦となると体が思うように動かないのか、見ているヴァルが歯噛みするほどに防戦一
方であり続けた。「優しすぎるんだよ、あいつは」これも兄弟子がよく口にした台詞
である。犯罪者を取り押さえる、武器を持つ相手に向かっていくといった闘争心の面
で、何かしら欠けるものがジバゴにはあった。
 だが、幾度叩きのめされようと、ジバゴは道場に通い続けた。そして数年経った頃
にはよほどの事が無い限り、ジバゴは拳を受けることが無くなった。こと防御の面に
おいては弟子の中でもトップレベルに達したのである。そして…
「しまった!」
 ヴァルの不用意に出した拳は、ジバゴの右腕にがっちりと抱え込まれていた。ジバ
ゴはそのまま腕を巻きこむ様に体を前転させる。腕が捻られる感覚に、ヴァルも堪ら
ず体を回転させて腕が折られるのを防ぐ。船上に二人の体が投げ出される。ジバゴは
完全にヴァルの腕を『極めて』いた。
「自ら攻撃する必要はない。相手の攻撃を防御することを、そのまま自分の攻撃に繋
げれば良いのだ」
 ジバゴは師範にこの技   『龍巻極』と呼ばれる    を授けられてから、この技
の修得のみに打ち込むようになっていた。
「くそっ」
 慙愧の念がヴァルの胸中を満たす。何とか腕を引き剥がそうとするが、もがけばも
がくほど腕はがっちりと極められていく。
 ゴキリ。
 鈍い音と共にヴァルの右腕が破壊される。
「やってくれるじゃねぇか」
 力の入らない右腕を脇に垂らしたまま、立ち上がるヴァル。残った左腕のみで構え
を取る。その燃えるような視線の先のジバゴは、無表情のままゆっくりと立ち上がる
と両の掌をヴァルに向けて構えた。
(なりふり構っちゃらんねぇか)
 折られた右腕が、熱と痛みを発する前に片を付けなければ、死ぬ。
「行くぜ」
 ヴァルはそう宣言し、突っ込んだ。

 ルディはタイミングを計っていた。
 意識を集中して魔法の源である月の波動を捕まえる。
 使う呪文も、その内容も考えてあった。これまで何度も使ってきた呪文であり、今
では指先の動きと僅かな呪文を唱えるだけで発動させることが出来る。失敗すること
は、まず、無い。要はそれを解放するタイミングのみであった。
 ルディがそうしている間にも、ベヴェルを取り押さえたランディは壁を背にしたま
まじりじりと海賊船の方に近づきつつあった。その前に立つ海賊の一人も、ツェット
に向けて剣を構えている。
(まだか)
 ルディの額に汗が滲んだ。

(なんとかしなきゃ)
 焦る意識を何とか押え込み、ベヴェルは必死に頭を働かせていた。だが捕らえられ
た右腕は万力で締め付けられたようにビクともせず、自由になる左腕が何らかの動き
を示そうとする度に、鈍い痛みを伝えてきた。
(このままじゃ…)
 自分が囚われている以上、ツェットとルディが男に手が出せないのは明らかであっ
た。武装解除などに応じれば、彼等も含めて、助かる道は消える。彼等の為、そして
何より自分自身の夢の為にも、ここで諦めるわけには行かない。
(お婆ちゃんなら、こんな時)
 ベヴェルは自分の尊敬する祖母を思い浮かべた。
 そして、覚悟を決めたその時。

「完璧幻覚!」
 大声を挙げたルディが指で虚空を指し示す。それと同時に、男と海賊船を結ぶ直線
上に一人の弓兵が現れた。弓兵によって引き絞られた弓は、男に向けて不動の直線を
引いていた。
 が、ルディは驚愕の表情と共に掌で口元を覆った。
「何だぁ?わざわざ教えてくれたんですか。さすがはシャストアの信者さんだ、こち
らの予想も付かないことをやってくれますね」
 嘲笑のニュアンスを含みながら、男が言う。
「ルディ…」
 呆然とした表情のルディを見つめ、ファルが呟く。
 ルディは若くして高司祭位を授けられるほど、呪文の扱いを能くした。しかし彼に
は大きな欠点があった。それは、『呪文は大きな動作と大きな声で唱えられるべきだ』
との考えが根強いことであった。
 熟練した魔法の使い手は、呪文を紡ぐことも動作をすることも無く、呪文を発動さ
せることが可能である。ルディはその域には達してはいないものの、指先の動きと一
言二言の呪文のみで発動させることができた。
 しかし、幼い頃から英雄譚に描かれる英雄達に憧れ、劇場にそれらがかかる度に足
繁く通っていたルディの中には、そういった半ば戯曲化された『英雄像』が形成され
ていたのだ。ルディが仮面を好むようになったのも、そういった『英雄』達の影響が
強かったのかもしれない。さすがに年齢を重ねた現在では、以前ほどその欲求に負け
ることはなかったのだが…。
 そんなルディの性癖がこの場面で出てしまった、ファルはそう理解した。
(でも、ルディは悪くない。ルディは一生懸命、自分の出来ることをしようとしたん
だ)
 ファルはルディを見やった。ルディは唇を噛み締め、ランディを睨んでいた。
「いや、充分に楽しまさせて頂きました。ですが、そろそろお暇させて頂きます」
ランディはベヴェルを抱えたまま、海賊の一人と共に海賊船へと近づいて行く。ル
ディの幻覚を気にも留めない。
「待て、サンディ!」
 ルディの叫び声と共に、ランディの足が止まる。
「ランディですよ、坊や」
  冷たい瞳でルディを見据えながら、『坊や』の部分を強調して言い放つ。
「で、そのナンディさんはうちのお嬢をどうするつもりなんですかね」
 ツェットの言葉にランディは怒りを抑えながら、
「ラ・ン・ディですよ、旦那。以後は口の利き方に注意してもらいましょうか」
 言い放つと、掴んでいるベヴェルの腕を更に捻じり上げた。苦鳴を漏らすベヴェル。
「止めろ!」
 ルディの叫びと同時に、弓兵が更に弓を限界まで引き絞る。
「無駄ですね。坊やの作り出した幻覚の弓では私を射抜くことはかないません」
 ランディはそう言い放つと、ルディの作り出した弓兵を睨んだ。
 ルディの、ベヴェルの、そしてクローバーの待っていたのはこの瞬間であった。

 ランディの強い視線に耐えかねたかのように、弓兵の姿が揺らいだかと思うと、跡
形も無く消え失せた。『幻覚』系の呪文は、『そこにあるはずがない』という強い意
志に対してはその姿を消さざるを得ない。
 しかし同時に混戦を避けていたクローバーがランディの背後、海賊船と反対側から
現われて弓を放つ。この時の為に引き絞られていた矢は狙いを外すこと無く、ランデ
ィの左肩に突き刺さった。
 痛みに手が弛み、ベヴェルが離れる。それを見て取ったルディとツェットが海賊に
向けて突っ込む。ルディのレイピアを盾で止めたところを、ツェットの剣によって喉
を切り裂かれ、男は即死した。
 ランディの体から離れながら、ベヴェルは左手で胸元のリボンを引き抜いた。体に
纏わりついていたお嬢様然とした衣装が割れ落ち、中から体にぴったりと密着した皮
鎧が姿を現す。
 そのまま背後のランディに脱ぎ捨てた衣装を投げつけると同時に、左の太股に括り
付けられた鞘から短剣を抜き、振り向きざまランディに突き刺す。ここまでをベヴェ
ルは一呼吸でやってのけた。海賊を倒した二人が息を呑むほどの手際だった。
 薄紅色の衣装が、ランディの傷から流れ出る鮮血によって真紅に染まっていく。布
越しの苦鳴がベヴェルの耳朶を打つ。
「さようなら」
 感情を窺わせない呟きと同時に、ベヴェルは突き刺した短剣を抉りながら引き抜い
た。
 衣装が滑り落ち、傷口から噴水のように吹き出した鮮血が、甲板に落ちた薔薇を朱
に染めた。

「船長がやられた!」
 海賊の一人が挙げた声は、剣戟の響く船上であってもその場の全員の鼓膜に飛び込
んだ。精神的な柱を失った海賊達は浮き足立ち、自分達の船へ後退していく者が相次
いだ。戦局の大勢は決したも同然であった。
「ミヤ、大丈夫か」
 逃走する海賊達を追わず、ヨギは傍らで屈みこんでしまったミヤに声をかけた。座
ったままだが頷くのを確認して、ヨギは軽く安堵の溜め息を吐いた。どうやら大きな
怪我も無く、船酔いと疲労が限界に達しただけであろう。
 二人の周りには数名の海賊達が転がっていた。だがその内の何名かは、手加減した
為にかろうじて息をしていた。ツェットの要請に応えた結果である。
「ここを、頼む」
 そう言い残すとヨギは、異種族の友人の下へと向かった。

 ヴァルの顔は紫色に染められていた。拳を顔面で受けた為に、内出血を起こしたら
しい。右の瞼は普段の倍以上に膨れ上がり、視界を狭くしていた。右腕から感じる痛
みと熱は、既に限界を超えて耐え難いものとなっており、全身を悪寒が駆け巡ってい
る。防御を捨てた攻撃も、ジバゴの防御を崩すことは出来なかった。
(こりゃ、本格的にやべぇかもな)
 強靭な肉体を持つヴァルであったが、既にその限界を超えていた。ここまで持った
のは、人並みはずれたヴァルの精神力と道場での修業の成果のお陰であったろうが、
 それも今や尽きつつあった。
 しかしヴァルの心は穏やかであった。今の状況を冷静に、そして正確に受け入れて
いた。
(もってあと一撃。こいつに、今残っている俺の力の全てを乗せる)
 繰り出すのは防御を捨てた、だが、生き延びる為の最善の拳。道場で初めてソドム
師範から直々に教わった技。
 感情の消えた瞳でヴァルを見つめるジバゴに向かって、足を踏み出す。
 ジバゴが反応したその時。
「船長がやられた!」
 誰かの叫び声が耳に入った。
 ジバゴの歩が僅かに乱れる。ヴァルはその隙を逃さなかった。
 左腕が横殴りの軌跡を描き、ジバゴがそれに反応する。が、それは囮。ヴァルはそ
の動作を無理矢理止める。全身の筋肉が悲鳴を上げるが、瞬時に左腕を引き戻すと大
きく腰を捻り、下方から一気に上へと突き上げる。
  『龍昇拳』と名づけられたその技は、ジバゴの顎に突き刺さった。ヴァルの左腕を
鈍い衝撃が突き抜ける。
 ジバゴはヴァルの拳の軌跡をなぞるように吹っ飛び、仰向けに甲板に倒れこんだ。
 そのまま起き上がる気配はない。
 それを確認したヴァルもまた、膝から崩れ落ちかける。だがその体を、背後から支
えた者がいた。
「よう、色男」
「…ヨギ。頼むから真顔で冗談を言うのは勘弁してくれ」

        5

「ルディ、さっきのあれは、また悪い癖が出たんじゃ…」
 甲板に仰向けに寝転んでしまったルディにファルが話し掛ける。既に周囲から剣戟
の音は消え去り、傷ついた船員達の手当てと海賊によって破壊された船の修理が行わ
れていた。海賊船の姿も、今は遥か海上の小さな点となりつつあった。
「…え?ああ、違うよ」
 身を起こしながらルディが応える。
「クローバーが見えたからさ、奴の注意を引きつけることが出来れば、何とかなるか
なって思ったんだ」
 負傷者達の手当てに忙しいクローバーを視線で追いながら、ルディは続けた。
「自信過剰で慇懃無礼なタイプに見えたからさ、きっと乗ってくると思ったんだ。ツ
ェットさんも気付いていたのか、挑発するようなことを言ってくれたし。それに、ク
ローバーはレスティリって言ってたじゃない。なら、弓、上手いよなって思ってさ」
 あの時、ランディがベヴェルを引き摺って行く方向と反対側に、ルディはクローバ
ーの姿を見つけた。クローバーは氏族に伝わる特殊な弓矢を構えてはいたが、乱戦の
中ではなかなか使えるものではなく、身を潜めていた。それがたまたま、船室へと続
く扉のすぐ傍だったのである。後はクローバーにこちらの状況が伝わるのを待ち、動
きやすい状況を作り出すだけだった。
「自分の癖をだしにするくらいしか思い付かなかったけど、我ながら良くあんな事が
出来たと思うよ」
「でも、あなたの機転のお陰であたしは助かったのよ」
 声に顔を上げると、皮鎧の姿のままのベヴェルが立っていた。ふわりとルディの隣
に座りこむ。さっきまで心配気な顔で付き添っていたツェットの姿はない。おそらく、
今後の処置について船長と相談でもしているのであろう。
「ありがとう、感謝しているわ」
 今まで見せていたものとは全く異なった表情と声でベヴェルが呟く。十五歳とは思
えない大人びた様子に、ルディは自分の心臓の鼓動が早まるのを感じた。赤面した表
情を隠すように、戦いの最中も手放さなかった仮面を被ると、ややぶっきらぼうに、
「僕は自分の出来ることをしたいと思っただけです。上手く行ったのは偶然に過ぎま
せん。それに、助けて頂いたのは、僕も同じですから」
 と言った。ベヴェルはその台詞を聞くと優しい微笑を浮かべ、そっと手を伸ばして
ルディの仮面を外すと、その顔を自分に向けさせる。
「ありがと」
  そして、そっと唇を重ねた。
「あ、あの…」
 混乱するルディを悪戯っぽい表情で見つめ、
「あたしからの報酬」
 そう囁くと立ち上がり、船室へと続く扉の向こうに姿を消した。
 それを見送り、ふと仮面を取り上げて見つめる。左右が異なる色に塗られた『道化
師』の仮面。その泣き笑いのような表情を見ながらルディは思った。
(僕の物語が今、始まったのかもしれない)
「ルディ?」
 動かない弟を、ファルが心配して覗き込む。
 そんな兄に向けて、ルディは破顔した。

                          To be continued

BACK][CONTENTS][POSTSCRIPT