**てんにゆき、ちにはひと 後** |
四. それから毎日、雪の少女はボクの所に遊びに来るようになった。 『なまえー、かなるってのが、かなるのなまえー』 「そうだよ」 昼下がり。 雪の少女はいつも窓際からボクに話し掛ける。家の中に招待しても入ろうとしないのだ。 『あたしのなまえはー?』 自分を指さし、女の子は言う。 名前、そっか。ついてるわけないんだよね。元が雪だるまだから。 「うーんと……そうだねぇ…………じゃ、ね『るなか』なんてのはどう?」 ボクは長く考えもせず、あっさりと答える。なんとなく、この子に会ってからすぐ、決 めてたことだから。 『るなか? るなか? にゅーなんで、るなか?』 首を傾げて胸のところで手を合わせ、ボクに問い掛けてくる。 「かなる――を逆さに読んでごらんよ」 そう、それは本当に単純な言葉遊びだった。 『かなるー、るーるーるー……るか……な?』 「違うよ、それだと『なかる』になっちゃうでしょ?」 『にゅー、るなか、るなか、るなか……』 少女はまだ良く判っていないようだ。一所懸命口の中で『るなか、るなか』と繰り返し ている。 「るなかって……きにいらない?」 それが中々納得出来ないように見えて、ボクは恐る恐る聞いてみた。 名前は人の人生(彼女の場合は人じゃないけど)を司るもの。ボクの『夏成』ってのも ……夏に生まれたから付けられた。 だけど、死んじゃうのは、冬。 そしてとうとう最後まで、なにかを『成す』事もなかった、名前負けしてる、な。 『る・な・か……にゅー、きにいったのー♪』 くるり、くるくる。 橙・蜜柑の肩掛けを翻し、二回廻って少女、るなかは笑う。 「――そう、良かった」 るなかの笑顔で、ボクの抱えた情けない拘りがどうでもいいものになっていく。そか、 こうゆうものなんだね、友達と話すっていう事は。 「じゃあ、漢字も考えちゃおうか」 『にゅー、漢字ってなに?』 う、概念まで説明するのは面倒くさいなぁ。 ボクは手近にあったノートを引っ張り出すと、さらさらと自分の名前を書きながら話す。 「漢字には全部意味があってね、ボクの名前かなるの漢字は……」 夏、と書き出してすぐ、それをぐしゃぐしゃとぬりつぶした。 「…………」 『にゅー?』 しばらく黙りこくって動かないボクに、るなかがきょとんとして顔を覗き込む。 「あ、ごめんね。ボクの漢字はこう書くんだよ……か、な、る」 神、無、流。 ボクが綴った文字は『夏成』じゃなかった。『神無流』――神無く流れる。 ボクの存在そのものを如実に現していて、笑みが零れる。急に考えた割にはよく出来て ると思ったから。 『かなるーかなるってこれで読むの? 難しくて変なの、わかんない』 「るなかの文字はね……そーだなぁ……んと……」 少しだけ考えて、ボクはノートに書き付けた。 留、那、可。 『那』由多の時を『留』まる事が『可』能なように。那由多はたくさんの数を示す言葉。 真澄がこの間教えてれた。 『にゅー?』 「こう書いて、留那可って読むんだよ、留那可」 『……えと、難しくてよくわかんないけど』 留那可は橙の肩掛けの前を合わせると、 『かなるがつけてくれたのなら、どれでもいいよー』 そう、嬉しそうに言ってくれた。 「そう、よかった」 『留那可』――それはボクの願い、望み。 雪がとける頃、ボクはこの世から亡くなる。そして、雪だるまからできた留那可も……。 それでも……それでも、ねぇ、ボクは願わずに居られない。 ――那由多の時を留まる事が可能なように、せめて……きみだけでも。 「でね……留那可がさ、白いもの以外で蜜柑じゃないのに食べれるの? ってさ」 「まぁ、そうなんですか?」 ぽんぽんぽんぽん。 まっさらのシーツを整えるように叩く音。真澄は穏やかに微笑み、相槌を返してきた。 「あいつ、そういうのやっぱわかんないんだって、不思議だよね」 その横で、長椅子に横たわりながらボクは言った。最近は体を起こしてるのも辛くて、 でも、留那可とはなるべく顔を見て話したいから、その時以外は横になって体を休める癖 がついた。 「そうですねぇ……やはり、元が雪だるまさんだからでしょうか」 真澄には、留那可のことはよく話している。どんな子か、どういういわれの子かまで、 全部。 「かもしれないね。だから色々と教えてあげないと」 「そうですねぇ」 だけど真澄には留那可は見えない。それでもボクの話を一笑に付さず、ちゃんと聞いて くれていた。留那可に会ってみたいとも、言ってくれていた。 それがとても嬉しかった。 「はい、どうぞ夏成様。ベッドのお支度ができましたよ」 「ありがと」 真澄に手を貸してもらって、ボクはベッドに横たわった。洗い立てのシーツはサラサラ してて気持ちいい。埃も少なくてむせ返る事もない。 「……坊ちゃま」 「なに?」 かなる、と呼んでくれる存在が出来たせいか、ボクは前ほど真澄の呼びかけにこだわら なくなっていた。 「留那可さんとのお話、楽しそうで……わたしも聞いていて嬉しいですよ」 優しく笑う真澄の瞳は、今日はなんだか……もっと別の事を言いたげにも見えた。 「留那可は、初めて出来た友達だからね」 だけどボクは、留那可の前ですらマフラーを外せないでいる。 まだ、恐いのだ。 「友達……ですか」 古いシーツをたたんで両手で抱えると、彼女は小さな声で呟く。 「こんな事を聞くのは、おこがましいとおもいます……おじい様には、告げ口しないでく ださいね」 しゅ。 布の擦れる音を立てて、真澄は真っ直ぐボクの方へと向き直った。 ちょっと射るようにボクを見る視線。思いつめている空気を感じて、ボクも彼女を凝視 した。 「わたしは……月下真澄は、坊ちゃまにとってはどんな存在にあたるのでしょうか?」 しばらくの間の後、多分彼女的には練り上げた問いかけ。 「姉でしょ」 それに、即答。 「それに真澄は、九条寺真澄だよ」 いつだって考えていたことだから。 ボクが、唯一心をゆだねる事ができる肉親、それが真澄。 「姉…………ですか」 ふう。 下を向いてため息をつくと、真澄は不意にみつあみに束ねていた髪を解いた。白い頬を、 少しだけ栗色ががったウェーブの髪が、包む。 髪をおろした真澄、きちんとメイド服着てこの髪型は、そうそう見れるものではなくて。 ただ改めて、真澄は美人だなと実感させられた。気を付けないと、好色な兄どもの手がつ いてしまうかもしれない、兄妹だってのに……見境無しだ。 「真澄は美人だよね。お化粧とかしないの?」 「……お化粧した方が、いいですか?」 照れたように白い頬に赤味が差す。 それを見てるとやっぱり、留那可は人間じゃないんだなって思い出さされる。あの子の 頬はいつも白いまま。 走っても、はしゃいでも、照れても、笑っても――血の通わぬ白い頬と冷たい肌。 「だけどあまり着飾りすぎると、兄様達に気を付けないといけなくなるよね。めんどうだ から、そのままでいいかもね」 彼女が、奴らの餌食になるのもなんだか腹が立つ。真澄が子供の頃は見向きもせずに、 非人道的にこき使った癖にさ。 「――」 さぁっ、と。 音がしたように真澄の頬から赤味が抜けた。 少し、驚いた。 けど、そんなボクに構わずに、彼女は手早く髪をまとめなおすと、いつもより遥かに事 務的に……まるで凡百のメイドの如く頭を下げた。 「なにかございましたら、いつでもそのベルでお呼びくださいませ」 怒らせてしまった、どうやらそういうことらしい。だけど理由がわからないよ? 姉と 思っているて、いつだって言ってたつもりだし。それはいけない事? 「う、うん。わかったよ」 歯切れの悪い返事。余計な事言って、このシーンが長引いていくのが嫌だった。 きっと一旦ひっこんで、またベルで呼びつけたら――真澄はいつもの真澄の筈。 「それでは、失礼致します」 会釈して、閉じかけるドア。そして何故か安堵するボク。だけどすぐ、安堵は破られる。 「わたしは……」 真澄は振り返ると、ドアを背にして立つ。 いつもの穏やかな笑みの真澄、頬を染めた真澄、ついさっきまでの事務的な真澄。その、 どれでもない彼女が目の前にいた。 「わたしは……夏成様の友達にもなれないのですね」 「え?」 頬を涙が伝う。それを拭いもせずに、彼女は掠れる声を絞るように呟いた。 「どうして夏成様とわたしには――血の繋がりがあるのでしょうね」 ボクに対する問いかけでも確認でもない。多分一番近いのは『あきらめ』の感情。 「………………」 ボクは何も答えずに目を逸らすだけ。それしか出来ないのだ。 「失礼、しました」 彼女が頭を下げると後ろ手でドアが開き、それが閉まる時にはボクはひとりぼっちにな っていた。 ともだち。 ボクは友達が欲しかった。 だけど真澄には『姉』でいて欲しかった、だってそれが本当だから。ちゃんと彼女は九 条寺の人間としての権利を手にして生きいけるはずなのだ。 出来ればボクが生きていうちにちゃんとしたい。それが、彼女の今後の人生にとって一 番だと信じてるから。 ともだち。 あね。 ……どっちも、ボクにとっては大事なのに。 「血の繋がり……か」 彼女は本当はなにを望んでいて……それはボクに叶えてあげられる事なのかな。 「きっとこれは、きみに聞いてもわかんないよね、留那可」 雪だるま……今日はまだ留那可は現れてなくて、ただ窓枠のそばに鎮座している。 考えすぎてちょっと疲れた、な。寝よ。 留那可が来たら起こしてくれる……かな……。 「すーー」 寝息。 そう認識する間もなく、ボクはあっさりと眠りに落ちた。 「そろそろ、こちらにいらして一ヶ月になりますな」 聴診器を置いて、守乃介がふと漏らした。 年が明けてすぐここに来て、今日は二月の九日。 ごうごう、と。 すごい勢いの音、今日は吹雪だ。 「よく……もってるなって、正直思って……るでしょ?」 ボクは服の前を閉じると、すぐに体を横たえる。もはや体は、誰かに支えててもらわな いと、身を起こしてるのが辛いぐらいにまで壊れていた。 「いまの坊ちゃまを支えているのは『気力』ですかな」 「さあね、わかんないよ……けふっけふふ……はぁ…………」 老医はボクの袖をめくると、枯れ木のように細い腕に消毒を施す。毎日の痛み止め注入 のせいで、注射針のささる部分は紫に変色している。不健康な色だよねぇ、ホント。 「いつもの痛み止めより、今日から強くしますので……」 老医は躊躇せずに、ボクの腕に針を突き立てる。 「そう」 「今まで以上に、幻覚が見えるようになるやもしれませんが、薬の副作用ですのでご了承 ください」 「今まで以上……て?」 幻覚――きっと『留那可』の事を指しているのだろう。 ボクは幻覚なんて見えた憶え、ないんだけどな……そう続けようとして止めた。憐れむ ような守乃介の瞳が腹立たしいからだ。 「……最近、食欲も落ちていらっしゃると、真澄から聞いとります。あの子も大層心配し ておりましたよ」 「そう」 喋るのも負担になってきてるから、それ以上の言葉は吐くのも億劫だ。 注射針が外れて、ボクの腕は自由になる。 「なにか御座いましたら、承りますが?」 「特にないよ」 守乃介から目を逸らして窓の方を見れば、雪だるまはいない……留那可、もうすぐ来る な。守乃介にはとっとと下がってもらおう。 「かしこまりました。なにか御座いましたら、真澄なり私なりにお申し付けくだされ」 診察道具を片付ける守乃介、ボクはなにも答えず目を閉じ……たら。 こんこんこん。 窓が軽く叩かれる音。 あ、留那可が来た時の合図だ。なんとか腕だけを伸ばすと窓を開けた。 「坊ちゃま?」 怪訝そうな守乃介の声、だけどそれは、ごう、という吹雪の音にかき消された。 『にゅー、かなるーおねむ?』 窓枠に指をかけて背伸びの雪の少女が、首を傾げておずおずと言った。 「ううん、大丈夫だよ。留那可」 守乃介がいても気にしない。 残り少ない命は、好きなことに使うと決めたんだから。 『あのおじぃさん、だぁれ?』 留那可が指差す老人が、つかつかとこちらに近寄って来る足音。そしてなにも言わず窓 を閉めようとするから、ボクは低い声で制止した。 「……閉めたらボクの権限、真澄に移すって、残すよ?」 それが一番、この老人が望まぬ事だと僕は知っている。 「薬を、変えたほうが良いようですな。多少利目が弱くても、幻覚が出ないものに。これ ではお体に触りますな」 「下がって、もらえるかな?」 懸命に怒りを押さえた。留那可にはこんな表情、見せたくないから。 「…………かしこまりました」 老医は肩をすくめると、すぐにボクの部屋を後にした。 「ごめん、留那可。もう邪魔する人はいないよ。今日はなにお話しよっか?」 『にゅー、えっとねーえー……』 ―――――――――――――――――――― 主人であり患者でもある少年の部屋。そのドアを彼は閉ざす。 老医師にも、孫と同じく雪妖の姿は見えない。そして孫とは違い、信じていないので、 彼は部屋の中にも聞こえんばかりのため息をつき、首を振る。 医者として、もうあの体をこれ以上生かすことは限界に近い。 「そろそろ……家族のものを呼び寄せておくべきかも知れぬな」 少年が力尽きた後、予想されるのは血で血を洗う災いであろう。想像するだけで反吐が 出る。 老医師が望む事はただひとつ。 そこに自分と大事な孫娘が巻き込まれないという――ただ、それだけ。 ただ……それだけなのだ、が。 ―――――――――――――――――――― 五. 『ねえねえ、死ぬってどんなのー?』 まったく……留那可の質問はいつも唐突で返答に困るな。それにしても今回のは重い。 どこでそんな言葉を覚えたんだか。 「…………死ぬ……か」 ボクは言葉を詰まらせた。 『いつもかなるが、おじぃさんにいってるの』 あ、そっか。 留那可は雪だるまだから、ボクの日常を見て聞いてるんだよね。ダメだ、もう頭がかな り廻りにくくなってきてる。 この大事な時間まで、侵食されたくないっていうのに、さ。 「んと……とけちゃう事と一緒かな」 雪だるまの留那可が一番理解できる事象に置き換えて話してみる。 『にゅー、とけるのはいやだよー。こわいもんこわいもん』 きちんと伝わったようで、留那可は自分の体を抱きしめると、かたかたと震えるふりを した。 雪妖で、寒いという事は感じないのだろうに、恐怖で震えるのはありなんだな。 「そうだねぇ――恐いねぇ」 死。 死の影はいつでもボクと一緒。日に日にそれは黒い存在を増していく。ボクはそれを諦 めとともに許容してきた。 足掻いてもしょうがない事は、世の中にはたくさんあるし。 『かなる、とけちゃうの?』 「――――」 留那可の声は純粋で。だからこそボクの心に真っ直ぐ突き刺さる。 許容は……してきたさ。 けどね、 「死にたく、ないな」 留那可に聞こえないくらい、小さな声。 ボクの心は体の衰えに逆らうように、日に日に生への渇望を強くしていく。 それはきっと、留那可と出会ってしまったから。 欲しかったもの……それはともだち。 ボクの首筋を狙わない、ともだち。 一緒にいたら、心が楽しくなるような、ともだち。 留那可はボクの願いに応えて生まれた存在だから……特別の、ともだち。 『かなる…………』 哀しげな声。 出会いは笑顔。なのにこの雪妖はボクとの時間を重ねるごとに、マイナスの感情を憶え ていく。それはボクにとっても哀しい事。 「…………る…………な………………」 悔しい事に――最近は、留那可が来ている時でも、意識が途絶えてしまう。 だから今日、ボクの頬を撫でた冷たさは、幻覚だったのかもしれない、ね。 ―――――――――――――――――――― この眠りから少年は目覚めなくなる。 老医師は手を尽くすも、回復は不可能と悟り、少年に仕えし孫娘に命ず――。 「真澄、東京の九条寺の者全てに連絡をまわしなさい……来るべき時が来たと、な」 「おじい様……」 孫娘はその大きな瞳を見開き固まる。 震える肩。 降る涙の雫。 「それがお前の役割だ――」 けれど祖父の声は、冷淡なまでに決定的。 それはもう決定事項。 「夏成様は、もう目覚めないのですか? おじい様の腕ならばっ、おじい様は名医なんで すからっっ」 だから祖父の言葉を、拒絶。 自分が認めてしまえば、主人である少年の『死』が近い未来の現実になってしまう。 血のつながりを知る前に恋して、知った後は叶えようもない感情に、身もだえするしか ない……それでも仕えながら、守りたいと願った、少年の――死が。 「…………」 祖父の沈黙。 それがこの世の流れと、老人は無言で告げる。 「おじい様……」 拒絶は揺らぐ。この数日に死が少年に舞い降りるのだと、少女の心も染めていく、認識。 「真澄。九条寺に仕える者として、しっかり最後まで仕えなさい」 厳しいはずの祖父の声も、何故か今日は優しかった。 だから、唇を噛み締めて、前を向き。 「――かしこまり……ました」 メイドの少女は――全てを受け入れる。 ―――――――――――――――――――― 『かなる、かなる、かなるーー』 ――声。 生きてきた中で、ほんの短い間だったけど、ボクを彩ってくれた少女の声がする。 だけどボクは応えることが出来ない。 もう、体がいうことをきいてくれないんだ。 『かなる、おきてー、かーなーるー』 ぺしぺしぺしぺしぺしぺし。 頬を叩く指。 冷たい、冷たいってばぁ。 そう言って手を取り、またいつものように話し始めたいのに、な。 『かなる……おきない?』 留那可ごめん、ボク、もう何日肩掛け変えてあげてないのかな? それ以前に……ちゃんと真澄は雪を付け足してくれてる? 言っておけばよかったなぁ。だけどまさか、こんなに唐突に、目覚めなくなるとは思っ てもみなかったんだよ。 『かなる……死んじゃう……の?』 そうだね。多分そうだよ。 神無流くんはね、死んじゃうんだよ。 『かな……るぅーー…………』 ぺたぺた……ぺた……ぺ……た…………。 頬に触れる指が、ゆっくりになる。 それは、ボクの感覚が無くなりつつあるからなのか、留那可が叩くのを止めたからなの か――わかんないや。 『かなる……おめめ開けて……おはなししよ? あそぼ? ねぇ……かなる…………』 ごめん。 もう無理なんだ、きっと…………。 もう……死んじゃう……から…………。 『――……』 ぺ………………た……………………。 叩く指が完全に止まる。冷たさが消えて、そしたらボクは、例えようもない不安に襲わ れた。 だって、最後の感覚も無くしてしまったってことなんだから。 もしかして、ボクが死んだら留那可も消滅してしまうんだろうか? 折角、名前に想いを込めたのに、さ。 『……か……な……る…………死…………』 今度は頬に暖かいものが触れた。 ぽつぽつと……雨粒のように。いっぱい、いっぱい。 留那可、泣いてるの? 『かなる……泣かないで…………死なないで……るなか、かなしーよ……るなかも……泣 いちゃうよぉ……』 不定期な雨粒。 ボクの涙。 留那可の涙。 ボクの涙。 留那可の涙。 留那可の涙。 留那可、留那可、ボク、ボク、ボク、ボク、ボク、ボク、留那可、ボク、ボク…………。 ボク、 死にたくなんか、 ない。 留那可ともっと、お話したい。 ――やっと、他人で好きになれた人、みつかったのに。 る、な、か――――。 雪に憧れてた。 すべてをまっさらにしてくれるみたいで、妙な期待と共に――憧れてた。 憧れてたのは、命。 きみはボクが創り出した、命。 死にたく――ないよぉ……。 『かなるがとけるのは、いやっっ』 触れた手のひら、冷たくて。ボクの指を凍りつかすように、強く握り締めて。 きみが無生物から生まれたように、ボクもまた――生まれ返せるのなら……。 『ぜったいぜったいぜったい――かなるは、とけないように、るなか、ぜったいするから っっ。何とかできる場所に、つれてってあげるからっっ』 じゃあ、そこにつれてって、よ。 きっと……ここよりずっといい場所に、決まってるんだから、さ。 ―――――――――――――――――――― 昏睡状態の九条寺夏成の姿が病室から消えうせたのは、九条寺の家の者に連絡が行った 次の日の朝であった――。 決して歩ける状態でも無く、また外は猛吹雪で……それはこんな時だというのに、家族 の者が到着を遅らせたぐらいの。 ……だが、少年の姿は、忽然と消えうせた、それが、真実。 紛え様も無く、真実。 ―――――――――――――――――――― 『かなるっ、ここまでくればだいじょーぶだよっ』 「………………」 『ここはねっ、るなかがはじめてゆきだるまから『るなか』になったとこだからっ』 「………………」 『かなる?』 雪の少女は首を傾げ振り返る。 自分が手を引き連れてきたはずの、大事な少年を。 『かなるぅ……どーして……どーしていなくなってるのぉ?!』 自分の白い手は、霞みを掴むだけ。 ……この場所にいるのは、雪妖の少女、ただ一人だけ。 『かーなーーるーーーーっっっ』 切なく名を呼ぶ叫びだけが、洞窟を伝い雪の野山に木霊した。 終. 少年と老医師とメイドの少女とだけが暮らしていた雪国の診療所に、いまは多数の人間 が居た……それぞれの浅ましい金銭欲を胸に。 「夏成はどこに行ったっていうの?」 年配の女がメイドに金切り声を上げた。 「申し訳御座いません」 メイドは俯き詫びる。 「早く探させなさい、でないとあの体で大事があったらどうするつもりだ?」 イライラを表に出す三十半ばの男性は、学校教師だという。 「申し訳御座いません」 顔だけを彼に向けてメイドは詫びる。 「兄さんはそれを望むくせに……」 皮肉な口ぶりの青年は、やっと二十歳を過ぎたばかりか。 「申し訳御座いません」 謝る理由も無いのに、メイドは呟く。 「遺書は残っていないのか? どう考えても自殺じゃないか」 自分の弟が死んだ事自体は、さほど苦ではなく、その後のことだけが気がかりな背広の 男は、一番早く九条寺の仕事を継いだ次兄。 「申し訳御座いません」 それにも、メイドの感情がこもらない詫び文句が返る。 「けど、月下先生は動ける状態じゃないって言ってたわ」 「申し訳御座いません」 メイドの祖父が主治医。主人の九条寺夏成が動けなかったのは、決して祖父のせいでは ない、それでも詫びるメイド。 「体が無いと、鍵は無いままね。困ったわ」 「申し訳御座いません」 平坦なメイドの声。 「いい加減、別の事も喋ったらどうだ?! お前の失態だというのにっ!」 一番年配の男が、怒り任せにメイドの首筋に掴みかかる。 「申し訳、御座いません」 だが怯むことなく、メイドは同じ台詞を繰り返す――自らの兄姉七人を、真っ直ぐに見 据えて。 「………………」 場が、たった一人の少女の深い瞳に飲まれて静まる。 「ふんっ」 年配の男もばつが悪そうに舌打ちをして、メイドを解放した。 「現状を報告いたします」 メイドは胸元を整えると、事務的に話し始める。 「皆様がご到着される前の捜索では、夏成様の行方はつかめませんでした。現在この吹雪 ですので捜索隊は出せません。天候が良くなり次第、捜索隊を出します……費用は後で請 求がくるとのことです。よろしくお願いいたします」 頷き、我先に費用の支払いを申し出る男女七人。メイドはそんな彼等に会釈をすると、 静かにその場を去った。 どうせ言い争ってるから、しばらく茶を出さなくても大丈夫であろう。ならば彼らの顔 など、一秒と長く見ていたくはなかった。 そう、真澄の胸に満ちるは嫌悪、と。 「どこへ……行かれたの……ですか……」 拭い切れない哀しみと後悔。 二四時間寝ずについていれば、主人は外に行かなかったかもしれないのに。祖父は『消 えたこと自体がおかしい、兄姉の誰かが密かに持ち去ったのだ』と言ってくれたが。 もしそうだとしても――夏成の体は既に解体されてしまっているはず。 「夏成……様ぁ…………」 ドアにもたれて小さく名を呼べば、彼らの前ではこらえていた涙が、留まることなく溢 れた。 「わたし……なにも……できなかった。夏成様の願い、わたしの願い……なにも……なに も叶えられなかった…………」 出会いの時に、虐げられていた所を庇ってくれた、ただ一人、人として扱ってくれたの が嬉しくて……恩が返したかった。心安らかに過ごせるよう、守りたかった。 『愛している』という想いを叶える事が罪ならば――せめて最後を静かに看取りたかった。 「…………」 だがすぐに涙を拭い、彼女は夏成の病室へと足を向ける。 もしかしたら戻っているかもしれない、そう思いながら――一日に何度となく足を運ん でいる。 こんこんこん。 ノックは癖。 「……夏成様、失礼いたします」 この台詞も癖。 こたえる存在は、もういない。 「……かなる…………ひっく、かなる……ひっくひぐぅ…………」 「――誰?!」 真澄は確かに聞こえた声に、心を引き締めまわりを見回す。 「かなる……かなるぅ……どこいっちゃったの? ……ひっくひっく……」 子供とも言える女の子の泣き声は、ベッドそばの窓際からだった。真澄は窓に駆け寄る と吹雪に構わず開け放つ。 ごうっ。 吹きつける白い粉雪をまともに浴びて、思わず目を閉じた。 「かなる……るなか……おいて、ひっく……ふぅええええええええっっ」 吹雪の音を掻き消すぐらい明確に、窓の下で少女の泣き声がした。真澄が見下ろすと、 白い着物に薄藍の髪の少女が、ボロボロの橙の肩掛けにくるまり、泣きじゃくっていた。 「あなたは……」 真澄の知らない子だが、こんな格好をしている少女の事は、夏成からよく聞いていた。 留那可、と、彼は楽しげに話していて、その少女を羨ましく思いながら、真澄はいつもい つも話を聞いていた。 「かなる……かなるどこぉ?! ひうっひぅぅ……どこにいるのぉ? かなるかなるぅぅ ……ふぇ……ふぇぇ」 少女は夏成がいないと涙を流す。そう、自分の主の為に涙を流せる数少ない存在。 ――やっと、会えた。 「あなたは……留那可、さん?」 真澄は確信を胸に問い掛けてみる。 「……ふぇ?」 少女は手で覆った瞳を解放し、メイド姿の女性をきょとんと見つめかえす。 状況が、理解できない。 自分の姿は、作った夏成以外は見えないはずなのに……その夏成がいないこと、また思 い出して大声で泣き出してしまう。 「ふぅええええええええっっっ、かなるー、かなるぅぅぅぅぅぅ」 「こ……困りました…………」 大声で泣かれてしまい、真澄は持て余してしまった。家に入れた方が良いのか、そして この少女は夏成の居場所を知っているのか――なにより、この少女の正体は? 聞きたい事は、本当にたくさんある。たとえ、この子が答える事が不可能だとしても。 「真澄、騒々しいぞ。なにかあったのか?!」 バタンッ。 閉めておいたドアが派手に開き、真澄の背中で男の声がした。九条寺の兄姉のどれかだ。 「――あっ」 真澄はなんとか少女を隠すため、窓を閉めようとするが……、 「夏成が戻ったのなら、ちゃんと知らせて貰わないと……て、あら? この子は?」 間に合わなかった。 わらわらと後から後から続いて、病室にはたちまち七人の兄姉が溢れかえる。 「実は真澄が夏成をどっかに隠してるんだったりしてな。その子、連絡係?」 一番真澄に年が近い青年の台詞で、攻撃的な悪意の視線がメイドに突き刺さりはじめる。 「やっぱり、ね。とんだ女狐だわ」 「生まれが生まれだからな。父様をたぶらかしたメイド風情が母親の」 「九条寺に仕えさせてやってる恩も忘れて」 「夏成を誘惑していたようだが。私達の目が黒い内は好き勝手はさせないぞ」 浴びせられる罵声に、真澄は屈辱に震えながらそれでも固く口を閉ざし、雪の少女を隠 すように立つ。 この子は、夏成様が唯一心を開いた存在だから、この者達の醜い争いに巻き込んではい けない。夏成様だってそんなことは、絶対望んでないっっ。そう、強く思い。 「今すぐにでも、ここを出て行ってもらいましょう。たとえ夏成が生きていたとしても、 もうこんな女狐に任せられないわ」 突拍子も無い提案でも、この場の雰囲気はそれを肯定する。 「荷物の持ち出しも許可しない。泥棒猫、とっとと立ち去れ」 背広の男が真澄の腕をつかみ、窓から引き離そうとする。 「くぅ、いたぃ…………」 苦痛から漏れる悲鳴、それでも瞳は父親だけが同じ兄姉達を睨みつける。 祖父が捜索隊の交渉に出向いている今、この屋敷には九条寺の七人と自分しかいない。 このままの流れだと、身一つで吹雪の中に放り出されかねない。 「まぁまぁ兄さん」 一番若い青年が割って入る。だが真澄は安堵の息などつかない。こいつの考える事は判 っている……。 「放りだす前に楽しもうよ。こいつそこらの売女よりよっぽど美人だしさ。どうせまだ生 娘だろ? 死ぬ前に頂いちゃおうよ」 下品な舌なめずり。 予想通りの展開に、真澄の体が強い嫌悪でで凍りつく。だけどもう、庇ってくれる人は いない。 夏成は、ここには、いない。 「…………」 目を閉じて、いざとなれば舌を噛み切ろうと覚悟したその刹那――。 「――なに? 兄姉集まって悪巧みの話し合い?」 橙の肩掛けを首に巻き、 ――『彼』は目覚めた。 ――――――― 久しぶりに目が覚めた感じがした。 まったく、何日眠っちゃったのやら。きっと相当長かったんだろう? 兄様姉様が大挙 として押しかけてるよ……ボクの死から得られるものを得るためにね。 得たいモノ、首に埋められた、鍵。 あ、首もと、すーすーする。 いつもは、マフラーで隠されているはずの首筋が露になっていた。勝手に外さないで欲 しい。ボクは肩に羽織っていたものを、極自然に首に巻いた。それでやっと安心して、周 りにちゃんと目がいく。 「…………」 そしたら、すぐ目の前には真澄がいて、その肩は小さく震えていた。なんだかまるで、 あいつらに追い詰められた小鳥みたいに見えた。また、性懲りも無く真澄をいびってるん だろうか、大人気ない。 だからボクは、静かに、だけどはっきりと言い放ったんだ。 「――なに? 兄姉集まって悪巧みの話し合い?」 と。 ざわついた場が一気に凍り、視線はボクに集中する。 その効果に満足していたボクは、だけど彼らの怪訝そうな表情が気にかかりはじめた。 場はもしかしたら、収まったわけではないのかもしれない、けどなんで? 「――……るなか……さん?」 そんな中、一瞬で持ち直し振り返ったのは真澄だった。囁くような小声でそう呼びかけ てくる。 「え? 夏成だけど?」 つられて小声で返せば、真澄はまた兄姉たちに振り返り、ボクには後ろ手に小さな手鏡 を渡す。 真澄の行動の意味がわからなくて、鏡を覗き込むと――。 そこには、留那可が……ボクにしか見えないはずの雪妖の少女が、映っていた。 「失礼致しました、夏成様のお友達の子です。夏成様がいないということで、少し驚かれ ているようです」 からからからから。 真澄の手によって窓が閉ざされ、ボクは診療所から遮断された。真澄と兄姉たちの言い 争いが、窓越しに微かに伝わってくる。 だけど、ボクはそれどころじゃなかった。 「留那可じゃんか……ボク…………え?」 ぽたり。 手鏡が白い指から落ちて、雪に埋まる。声も聞き慣れた自分のものよりは高くて、雪の 上にしゃがみこんでも……不快な冷たさを感じなかった。寧ろ心地いい。 「どういうこと……だよぉ……」 『何とかできる場所に、つれてってあげるからっっ』 「……それが、ここってこと?」 白い着物を抱きしめて、それはもはやボクの体。ボクが乗っ取り彼女を追い出した?! 「じゃあ留那可……きみは……どこいっちゃったんだよぉ……」 一緒じゃなきゃ、意味なんてないじゃないか。こんな事で命ながらえたって……嬉しく なんか、無いっ。 「……ばか…………留那可…………」 からからからから。 へたり込んでたら頭上で窓が開き、声がかかった。 「夏成様、泣いてらっしゃるんですか?」 顔をあげると、憑き物が落ちたような爽やかな笑顔の真澄。こんな表情見るの初めて… …ううん、久しぶりなのかな? えと、いつだったかな、こうゆう笑顔は見たのは……。 「……留那可、見えるんだね。真澄にも」 対するは、呆けたようなボクの声、だけど音色は少女のもの。 「はい。やっとお会いする事が出来ました」 真澄はハンカチを取り出すと、ボクの……留那可の涙を優しく拭いながら続ける。 「同じ人物でも、泣き方は全然違うんですね。不思議です」 「同じ……人物?」 「はい。先程、留那可さんにお会いしましたよ。泣きながらずっとずっと、夏成様のこと をお呼びになっていました」 ハンカチを離すと、今度は複雑な顔で真澄は微笑んで見せた。 「留那可、どこにいたのっ?! 教えてっ、真澄っっ」 ボクは窓から身を乗り出して、真澄の胸元に掴みかかる。 留那可は消えていない? じゃあもしかしてボクの体に留那可が入ってるとか……。 「ダメですよ、夏成様。そんな事をしたらバランスを崩して……あ、ほらぁっ」 ボクは顔からベッドに突っ込んでしまった。けど柔らかくて手入れの行き届いたそこは、 ふかふかとボクの体を受け止めただけだった。 「女の子なのに、お行儀が悪いですよ」 「ボクは男なのっ」 「けどこれからは、体は女の子なんですから……あ、はい」 ひとしきり笑った後、真澄はボクにノートを差しだした。 「なにか残して差し上げれば如何ですか? 留那可さんも安心されると思います」 「残すって……」 「留那可さんの居場所は……こちらです」 すっ。 真澄は真っ直ぐにボクの胸元を指差した。 「え?」 「先程まで確かにあなたは――留那可さんでした」 「…………」 真澄の言葉を理解しようと、ボクは黙りこくって考える。 「かなる様がいない、と大声でお泣きになっていました。けれどいまは『夏成様』ですよ ね」 「つまり……一つの体を二人で使っているって、こと?」 こくり。 真澄は頷き、逆にボクに問い掛けてきた。 「夏成様ご自身のお体は、どこにあるのでしょうか? こちらの状況としましては、二日 前に夏成様のお姿が病室から忽然と消えて……現在捜索中でございますが……」 「そ、そうなん……だ」 憶えているのは、差し出された留那可の手を取り、雪の中に飛び出した事だけ……その 後は、全然知らない。 壊れた体をなくして、ボクは留那可の中に入った、という事らしい。 なにをどうやったかは、ボクには判らないし……留那可にきいても……泣いてたんじゃ あ、わからないのかな。 けどなんか、余り困っていないボクがここにいる。ただ気がかりなのは……留那可には もう面と向かって逢えないんだろうかって、事だけ。 「夏成様、この地方にはこんなお話が伝わっています」 俯くボクの隣に腰掛けると、真澄は老人の声色を真似て話し始める。 「雪の魔物、雪女。気にいった人間の男を見つけると、誘惑して氷漬けにして手元に置く。 それはそれは……恐ろしい魔物じゃ」 真澄の声は高くて綺麗だから、しわがれた老人からはかけ離れていて、なんだか全然恐 い話に思えなかった。 「へぇ、ボク、雪女にかどわかされちゃったのかねぇ」 だからつい、こんな軽口が出てくる。 「夏成様の体も、どこかで氷漬けにされて、大切にしまわれているのかもしれませんね」 真澄もトンでもないことを明るく返す。 「その方がきっといいね。うん」 ボクの笑顔も止まらない。 だってさ、兄姉の手に渡って、グチャグチャに扱われるよりよっぽどいいよ。 ボクはとんっと、ベッドから降りて立ち上がると、伸びをした。腕に当るサラサラの髪。 留那可の髪は長くて、ボクにはちょっとうっとおしいかも、束ねたいかな。 「……つまり、現状でボクは行方不明状態ってわけだよね」 「そうなりますね。雪女にかどわかされて、部屋を出られた……んですよね」 今更確認するように言ってくる真澄が、殊更おかしくて、ボクは妙に高いテンションで 机に向かう。 「じゃーあ、遺書でも書こうか? 世を儚んで自殺した少年の遺書。その方が手っ取り早 いし、もめる材料が減らせるでしょ?」 「そうです……ね。それをお掃除していたわたしが発見いたしますね」 真澄もイタズラっぽく笑った。 あ、そうだ……この笑顔、思い出した。ボクの体がまだ壊れてない頃、真澄を誘い出し て遊んだ時の笑顔だ。 そか……ボクは真澄が『姉』だって知らされてたけど、彼女はそうじゃなくて、だけど 別に良かったんだよね。 『あね』が『ともだち』でもさ。 もしかしたら、彼女の望んでた事は――こんなに簡単な事だった、のかな。 「……さて、と。なんて書こうかなぁ」 「わたし、お茶を淹れて来ますね。あ、冷たいほうがよろしいのでしょうか?」 真澄も立ち上がると、部屋を出ようとする。 「うん、多分。あとね、蜜柑欲しい」 留那可は蜜柑が大好きなんだよね。 「かしこまりました」 ばたん。 ドアが開く音。 「あ、ちょっと待って」 真澄が出ていく前に、一応聞いておきたいことがあったのを思い出して、ボクは慌てて 呼び止める。 「はい、なんでしょうか?」 「……ボクの権利・権限、さ。真澄はいらないよね。今まで通り、ちゃんと生活が保障で きれば、いいんだよね」 彼女の祖父には、強く拒否されていた。、ボクの遺産を彼女が継ぐということ。 ボクも今となっては、彼女が巻き込まれて欲しくないとも思う。先程の兄姉の形相を見 て、ね。 「そうですねぇ……いただけるのでしたら、いただけますか?」 だけど真澄は、あっけらかん、とそう答えた。 「へ?」 だからボクの声が驚きで裏返った。まるで事の重大さが判ってないようだよ? 真澄。 「夏成様、ええと……留那可さん」 ドアを一旦閉じ、真澄は真っ直ぐボクを見つめる。 「あなたにはこの世界で生きていくための『身分』とか、全然ないんですよね」 それは考えてもいないことだった。そうだ、ボクは留那可になって。けど、ここからど うやって生きていけばいいんだ? 「戸籍を作りお守りする為には、きっとお金はたくさんあったほうが良いんだと思います。 だから……夏成様の遺産、あなたの為に使わせてください」 真澄は静かに頭を下げた。 いつもオドオドビクビクしていた真澄。だけどここにいるのは全然違う。 ――ボクを守ろうとしてる、とっても心が強い、女(ひと)。 これから巻き込まれていくであろう、様々な利権争いにも、立ち向かう覚悟が出来た者 の瞳。彼女は、こんなに強い女(ひと)だったんだろうか? 驚いた。けど、ボクにとっては願ってもない申し出だ。 「わかった。じゃあ……ボクの権利は全部、きみにあげるよ、真澄」 こうしてたった今、さらりと、とんでもない額の金品の授与が約束された。 「ありがとうございます。これからも、お役に立ちとうございます」 彼女は薔薇のように鮮やかに微笑むと、部屋を退出していった。 「……ん……と…………」 だけど、ノートを開いてしばらく、ボクはほけっとしてるだけ。 「えと、やるべきことは……」 万年筆でこめかみを叩き、頭を整理する。 九条時夏成は自殺した事にして、その遺書を書く事、内容は……真澄に遺産権利の全て を引き継ぐ。 遺書っていうか、遺言状だねこれは。 「その前……に」 重大な内容の遺言、ちょっと書き出せないでいるボクは、一息つくとページをめくった。 留那可に先に、ちゃんと残しておこう。 ボクがいないって、泣いてたっていうから……。 「留那可……へ……と」 そうノートに書き綴り、しばらくじっとしてたら、文字が滲んだ。 涙。 ボクは留那可の姿で泣いているのだ。 逢えなくて、哀しいという事、きっと伝えなくてもお互いにわかりきってる。 同じ体に住まう以上、もう、二度と声を交わす事は出来ないし、手と手で触れ合う事も 無理なんだよ、ね。 「だけどね、留那可……」 ボクは滲まない文字を綴り始める。 こんな風に、これからきみにだけ言葉を残すよ。今日一日、見た事感じた事――きみに、 一番に話すように、ここに綴るから。 きみが眠る間、周りに映った『ボク』を、たくさんの人から拾い上げてよ。 ボクも眠りから目覚めた時は、そうするから。 きみの姿を探す事を楽しみに、きみの中で眠り続けるから。 もう、文字だけでしか話が出来ないのだとしても――それはとても哀しい事なのかもし れないけれど――でも、泣かないで。 ボクは、ここに、いるよ。 きみにだけ、言葉を残すよ。 約束、する。 ―――――――――――――――――――― 「にゅーにゅーにゅー」 いつのまにやら診療所に住み着いた少女は、ノートを広げて首を傾げている。 「どうしましたか? 留那可さん」 何かと忙しい中、それでも時間をつくり、メイドの少女は彼女に向き合おうとする。 「にゅー、ますみー、これなんてよむの?」 「どれですか?」 真澄と呼ばれたメイドは留那可と呼んだ雪妖の少女のそばにしゃがみこむと、指差す文 字を読み上げる。 「それは漢字で『真澄』と書いてあります。わたしの名前ですよ」 「にゅ、ま・す・み?」 確認するように、留那可はノートと真澄を見比べる。 「はい、真澄です……まぁ、夏成様もひらがなで書いて差し上げればよろしいのに……」 「んと……ますみ……ますみは……いいひ……と……」 つっかえつっかえ、留那可はその一文を読み上げる。その声に真澄は穏やかに微笑んだ。 「にゅー、ますみはいいひと。かなるがそういってる」 「とっても嬉しいです」 真澄は少女の好きな蜜柑を用意すると、ちょこん、と隣に置く。 「るなか……はともだ……ち。ますみ……も……ともだ……ち……」 「友達?」 「にゅー、みかんーー」 留那可は蜜柑を見つけると、それに飛びつき不器用な手つきで剥き始める。 真澄はその間にふとノートの文字を確認する。 ‘留那可はともだち’ ‘真澄もともだち’ それは夏成の文字に他ならない。 「夏成様ったら……」 真澄は照れたように頬を赤らめると、留那可の蜜柑を手に取り、丁寧に剥いてやる。 「ますみは、ともだちなの。ともだちがそばにいると、たのしいってかなるはいってた。 だから、るなかもますみがそばにいると、たのしいの」 「蜜柑くれるから、ですか?」 「うんっ」 留那可の元気の良い返事に、真澄は頭を撫でてやりながら、剥いた蜜柑を差し出す。 「まぁ、留那可さんったら、はい、どうぞ」 「にゅーー。みかんーみかんーーー」 昼下がり、 もう大好きな少年はいないけれど、守るべき人は二人、メイドの少女の手元に残された から。 それは、もしかしたら――とても幸福なことなのかもしれない……と、彼女は思うのだ。
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