病気が悪くなって良かった……ボクは本気でそう思っている。だって、この生き地獄か
らの解放が早まるんだから。
―――…………
壱.
首筋を包むマフラーを撫でた。
うん、大丈夫、ちゃんとしてる。
て、
こんなもの一枚で、守れるわけないんだけどね。
春も、
夏も、
秋も、
……冬も。
それでもボクは、いつでもマフラーを手放さない。
「――真澄、真澄」
ボクは傍らのベルを振り、唯一人この療養所についてきているメイド(と、ボクは認識
したくはないけどね)を呼んだ。
「はい、坊ちゃま」
かちゃ。
茶色いドアが開くと、すぐに真澄が顔を出す。
漆黒のメイド服が白い肌に映える、彼女はボクより三歳年上の十五歳。中学校を卒業す
るずっと前からボクについてくれてた。
「坊ちゃまはやめてって、言ってるよね?」
「あ、すみません……ご主人様」
「それもやだ」
真澄は困ったように首を傾げてボクを見る。
化粧してないから派手さはないけど、実はかなり美人で……そう、多分母親似。
「……はぁ」
「呼び捨てで呼んでよ。なにしろボクは真澄にとって弟なんだから、さ」
困ったようにもじもじとこちらを見る真澄に、ボクは何十回と繰り返した台詞を吐いた。
母親似の美人。そ、彼女の母親はボクの父親が手を出したぐらいだしね、もう二人とも
いないけど。
「違います。わたしは九条寺家にはご奉公にきている身なんですから、それは無理です」
きゅっ。
形のよい眉を困ったようにしかめて、真澄の答えはいつも一緒。
ボクはため息をついて真澄に下がれと指示を出した。
「あの……御用は……」
「もういいよ、忘れたから」
本当は忘れていない。蜜柑を食べたくて呼んだんだ、けど……なんかいいや。
「それでは、いつでもお呼びくださいませ」
申し訳無さそうに真澄が下がる。呼び方の話を持ち出すと、いつもこうだ。
ボクはベッドに横たわると、所帯なさげに目を閉じた。
ボクは九条寺夏成(くじょうじかなる)。
ボクの家は九条寺財閥といって、日本でちっとは名の知れた企業グループだ。
一次大戦の時に、武器商人で身を起こしたのがボクの祖父。で、少し前に日本が負けて
終った戦争の後のドサクサで、更にのし上がったのがその人の末息子でボクの父親。
ボクには、真澄を含めて計八人の兄と姉がいる。ある程度腹は違えど、真澄を除いて皆、
正妻の子だ。でもって……兄弟仲はすこぶる悪い。というか、彼らはいつも年の離れた弟
(すなわちボク)の命を狙っている。致し方ないかな、とも思うよ。だってさボクには九
条寺の最高権限が与えられてて(子供だし、行使の仕方なんて知らないけど)更には……
首筋に、九条寺の隠し財産の『鍵』が埋められてるって寸法だ。
この企画を立てたのが誰かというと、七年前に死んだ前総帥、つまりボクの父親だ。
彼は、若干十三歳で九条寺の総帥の座についたんだけど、それには理由があった。彼に
も年が離れた兄姉が八人いたんだけど、昔、そのヒトたちが総帥の座を争って殺し合い、
結局誰も残らなかったという『ヒゲキ』があったのだ。だから同じような立場のボクに、
権限を与え宝の鍵を隠して……そうすれば他の兄姉がボクを守り、財閥が繁栄するだろう
と考えたらしい。
まったく、本当にキチガイじみた企画だとつくづく思うよ。悪意があるとしか思えない。
結局、兄姉の中に人死にこそまだでてないもののいがみ合い、隙あらば寝首をかこうす
る奴らばかり。
ボクに対しては、懐柔しようとおべっか使ってくるか、ストレートに殺しに来るか……
どちらかだもんな。
……そんな中で、真澄だけはマトモだ。
現状、彼女には財産の継承権がない。他の兄姉達は、私生児と蔑み下働きとしてこき使
う。真澄を生んですぐ死んでしまった母親も、元々九条寺家のメイドだったそうだ。
だけどボクは、彼女しか姉弟だと認めちゃいない。
もうすぐ死んじゃうんだろうから、最後に一度だけでも弟扱いして欲しい、それは無理
な願いなのかな。
目をあけて真横を向けば窓。
窓は白い、外は雪。
そして窓際には、小さな雪だるま。
ここは雪国、真澄の母の故郷。
この療養所も、ボクの父が医者である真澄の祖父のために建てたもの。で、ボクはとい
うと、数年来患っていた肺病が、いよいよ悪くなってきたので空気の良いこの地に療養に
来たのだ。
本当は、自分が信じられる真澄だけを連れて、死にに来ただけだよ。兄さんも姉さんも
九条寺も――みんなみんな嫌いだから、あんたらの前では死んであげない。
……ボクが死んだ後は、鍵を取り出すなりなんなり、好きにすればいいさ。とはいえ、
鍵が使える場所はボクしか知らない――これまた、さいっこうの冗談だけどね。
「蜜柑、食べたいなぁ……」
ボクは窓枠にいる小さな雪だるまにぼやいてみた。
「……」
雪だるまは当然無言で、赤い瞳にベッドのシーツの白を映しこむ。
三日前に真澄と作った雪だるま、赤い瞳は紅玉石(ルビー)で、橙色の肩掛けは蜜柑の
皮。妙に気にいっていて、とけかけると雪を付け足してやってるのだ。
また、とけかかってる、な。
だけど真澄とはちょっと気まずくなってるし、ベルを振って呼ぶのも憚られた。
こんこんこん。
ノックの音。ここにはボクの他に真澄しかいない。タイミング、いいな。
「……あの、ご主人様」
ドアが開き、おずおずとした声。
「ご主人様は、やだ」
来てくれて嬉しいのに、ボクはやっぱりそんな口をきく。
「困りましたね……けどお名前の呼び捨てなんて、無理ですよ」
真澄は雪が山盛りのバケツを置くと、その頂上にのっかっていた蜜柑を差し出す。
「いいじゃんか、ここにはボクと真澄しかいないしさ」
ボクはそれを受け取り、剥き始める。綺麗に剥いて、また雪だるまの肩掛けにするのだ。
雪だるまに肩掛け、だって寒そうだから。
「おじい様もいますよ」
ボクの現在の主治医は真澄の祖父、月下守乃介(つきしたもりのすけ)。この療養所の主
でもある。
「今は往診中でしょ?」
「くれぐれも粗相のないように、そうきつく言われてます。おじい様は怒ると怖いんです」
「知ってるよ」
ボクは苦笑いをして、蜜柑一房を口に入れた。
真澄には純粋に『怒ると恐い』だけなんだろうけどね。ボクに対してはまた違った感情
があるらしい、あの老人は。それでも兄姉の息がかかってない分、一番信頼できる医者で
はある。
「……残り僅かな命の少年のお願い、きいてくれてもいいのになぁ」
「ご主人様っっ!!」
「はいはい」
真澄の剣幕を見て、ボクはやれやれと肩をすくめた。
――ボクの体、やっぱし相当まずいんだね。一瞬で溜まった瞳の涙見たら、わかるよ。
「……雪、ここに置きますから。あまり長時間は駄目ですよ。体にさわりますからね」
鈍い灰色になった場の空気を、仕切りなおすように、真澄。
「さすが、医者の孫だね。真澄ちゃん」
だからボクも軽口。
「ちゃかさないでくださいっ……夏成様」
最後はボクに背を向けての声。けどちゃんと名前で呼んでくれていた。
驚いた、不意打ちだ。
「これが……いっぱいいっぱいです。呼び捨ては堪忍してください」
ボクがなにかを言う前に、真澄は口早に部屋を出て行ってしまった。
「……姉って感覚には、程遠いよね」
それでもボクはご機嫌で、最後の一房を口にほおりこむと、ベッドを降りた。
ぺたり……ずむむむむむ…………。
バケツいっぱいの雪は、あっさりとボクの手を飲み込んでいく。
冷たい。
こうやって汲み取られてくると、外に積もっているのとは違って、ホント『モノ』って
感じがするな。
雪ってなんだか憧れだった。生まれ育った東京は、雪なんてそうそう降らないしさ。
ホント、
すべてをまっさらにしてくれるみたいで、妙な期待と共に――憧れてた。
だけど雪は、ただ冷たいだけ。
触れたからといって、なにが変わるわけでもない。
「さ、て、と」
雪を手のひらに掬うと、雪だるまのそばに置き、ボクは丹念に付け足し始める。
ぺたぺたぺたぺたぺたぺた。
元のカタチを崩したら元も子もないから丁寧に、だけど力を込めないと雪はつかないし。
案外難しい。
冷たさで赤くなる指を、時に毛布に入れて暖めつつ約十分、蜜柑の皮を新しいのにかけ
かえて、なんとか終了。
どうしてこんな事を続けるのか――。
だって、とけてほしくないじゃないか、折角この世に存在してるのに、なくなるなんて
哀しい事。
きっと自分と重ねてしまう事を、無意識に避けてるんだね。て、こんな事が客観的に見
えて、だからなんだってゆうんだろうね、まったくさ。
「……ボクが死んだら、きっと真澄がきみを生かしてくれるよ」
頬杖をついて、赤目の雪だるまに呟く。
『赤目なら、雪兎にすればよかったですね』そう真澄が言ったけど、ボクは雪だるまで
よかったと思う。
――だってほら、蜜柑の肩掛け似合うしさ。
「けふっっ、けふけふっっ……はぁぁぁ……」
不意に咳き込んで、手のひらが赤くなった。ああやだやだ。雪に手を沈めて血を吸わせ
ると、ベッドに横たわる。
寝よ。どうせ主治医の守乃介が戻るのは、夕方以降だし。
「ん、おやすみ……」
雪だるまは、返事しない。
ボクも期待なんてしてないよ。
弐.
ともだち。
ともだちになろう。
タカラさがししてあそぼう。
そう言って手を伸ばす、きみは誰?
『あいつは兄さんの息子だから、駄目だよ夏成。ほら、この子なら大丈夫。僕の学校の生
徒だからね』
『あの子、兄さんからお金貰ってたわよ。夏成、信じちゃ駄目。寂しいなら今度、可愛い
女の子紹介してあげるから』
『子供とはいえ、あんな淫売を連れてくるとはな。奴らは金があれば人殺しでもなんでも
する。気をつけるんだ、夏成』
『……………………』
そんな台詞が七人分。
ともだち。
ボクの首筋を狙わないヒトがいいな。
『そんなやついるわけないじゃん』
誰かの手が伸びて、ボクの首を掴む。
『さぁ、タカラのありか、はいちゃいな――お前の喉がつぶれる前に、ね』
力、くわわる。
指が、ボクに埋められた鍵に触れる。
ぐ……しゃっ……っ!!
「――ッッ」
身を起こせば、深夜の冷涼な空気がボクを取り巻いていた。だけどマフラーの巻かれた
首筋はじっとりと汗ばんでて、まだ締め上げられてる感触が残ってた。
「ゆ……め…………えふっ……けふっけふふっっ……はあぁぁぁ……げふぅっ……」
ひとしきり大きく咳き込めば、寝巻きが血で染まった、ヤバ……。
ばたばたばたばたばたばた、がちゃっっ。
「夏成様?!」
降ろした髪で寝巻き姿の真澄が、泣きそうな声で顔を出し電気をつける。ボクは吐血が
バレないように、毛布を口元まで寄せてボソボソと言い訳をはじめる。
「あぁ、ゴメンね。うるさかったよね。ちょっと……やな夢見ただけ」
「おじい様をお呼びします」
「いいってば。老人おこしちゃ体に触るよ」
「でもでも…………」
朝に毛布の汚れを見られたら、気づかれてしまうのだろうけど、深夜まで真澄をわずら
わせたくなかった。もう遅いか。
「……あったかいもの、飲みたいな。生姜湯がいい」
このままだと、深夜の診察に発展しそうなので、ボクは甘えるように真澄にねだった。
暖かいものが飲みたいのは事実だし。
「かしこまりました。すぐにお持ちします」
真澄はボクに頭を下げると、キビキビと下がる。
「甘くしてね」
くすっ。
微かな笑み声。
「はい、かしこまりました」
ドアを閉める前に向き直った真澄は、少しだけ明るい顔だった。
ボクはほっとして、横になる。
雪国の深夜は、東京より明るい。白い雪が光を放つから。その雪から生まれた雪だるま
は、ずっとボクを見ていた。
「……きみも、眠ったりするのかな?」
赤い紅玉石の瞳で、苦しむボクをきっと見てた、雪だるま(きみ)。
「……けふっ…………ふぅ……」
咳をなんとか押さえ込めば、
こんこんこん。
ノックの音。
「夏成様、失礼致します」
部屋に溢れる生姜の香り、真澄が生姜湯を持って来てくれた。
「ありがとう」
もう一度毛布で口元をしっかり拭い、ボクは手を差し出す。
暖かいもの。きみはきっと飲めないんだろうね、美味しいのに。
物言わぬ雪だるまに肩をすくめる。我ながら一人上手だと思いつつも、ボクは生姜湯を
すすった。
ぬくもりは……ほんのわずかだけでも、ボクの不快な夢を消してくれた。
月下守乃介の往診が無い日は、昼下がりがボクの診察の時間になる。
「……相当に吐かれましたな」
部屋に入ってすぐ、まずこの老人はそうのたまった。
「スゴイね。聴診器すら当ててないのに」
「真澄が、泣きながらシーツを洗っていましたので……」
さらりと。
孫娘の涙を語る、老人。
「そっか」
ボクも渇いた振りして俯き笑う。
「それでは、拝見いたしましょうか」
丸眼鏡をあげると老医は、診察道具をがさがさと広げながらボクの傍らに座った。
「はいはい」
ボクもそれにあわせて服を開く、マフラーは巻いたままで。
ぺたり。
聴診器が肌に触れた。
「つめたっ」
ボクはちらりと雪だるまを見る、お前を創る雪より、多分冷たいよ。
「……ふむ……ふむふむふむ?」
医者の独り言、いつもの事。
「あのね、遺言状を書こうと思ってるんだよ」
だけどボクは、自分の体の事を語る言葉が聞きたくなくて、たわいないおしゃべりを始
める、それもいつもの事。
「ほう……そのお年で……おやおや……」
だから老医も、あまりまともな返事はしない。ただ動かす手は止めないから、聴診器は
ボクの胸を這い回る。気持ち、悪い。
「一応、九条寺の権力を握る形になってるからさ、その後をはっきりさせといた方がいい
と思って」
「なにかと大変ですな……はい、後ろ向いてください」
そろそろ寒くなってきた、鳥肌がたってる。
「この部屋は少し寒いですな。真澄に言って少し暖かくさせましょうな」
「いいよ」
「体に触りますよ」
聴診器を置くと、次は触診。
「雪だるま、とけちゃうからね……そんなのやだしさ」
「雪だるま……ですか。そんな物に感傷を抱かれるとは、坊ちゃまもまだまだ子供ですな」
「子供だよ、なのにお友達もつくれなくって大変さ」
老医の腕が離れたのを見て、ボクは上着を羽織り毛布を引き寄せる。
診察は終り、老医は部屋を後にする……はずなのだが、今日は立ち止まりこちらを見て
いた。
「……お話の続きを、どうぞ」
「ふうん、気になるんだ」
この人は、ボクにたかるつもりなど無いと思ってたんだけどな。
「……」
黙ったまま促す老人に、ボクは再び口を開いた。
「とりあえず、真澄を正式な九条寺の一員として認めること」
それとも、自分の孫の話と予測していたのかな?
「…………」
「ボクの権限は真澄に移管して、鍵の使える場所も教えるよ」
マフラーの奥、鍵がうめられているであろう場所をボクは指差す。
ぴくり、と……老医の白い眉が上がった。
「やめていただけませんかねぇ、それは……」
「どうして?」
ボクは老人にわざと背を向けると、雪だるまの肩掛けをいじりながら続ける。
「あんただって、孫の真澄の立場が不当に低いのは納得いかないでしょ? 大体、正妻つ
ったって、妾あがりは何人いると思う? ボクだって知ってるよ。確か、四つ上とか五つ
上の母親は…………」
「関係ありませんな」
ボクを主と扱わぬ、太い声が話を遮った。
「真澄は九条寺には奉公に出ている身、あの子の母親もそうでした」
「そして、ご主人様のお手がついた――と」
「いい迷惑でしたよ、お陰でアレは命を縮めた」
ボクの皮肉に、老医の礼儀はますます落ちていく。
「それは気の毒に……ボクの生まれる前の話だけどね」
「心がこもっておりませんな」
ガチャリ。
ドアを開けて、背中で老人は吐き捨てた。
「アレの死は、お前の母親のせいだというのにな」
「……それは初耳だね」
本当は知っている。
ボクの父親が、末の子供に権限を与えると宣言していた事にからみ――真澄とその母親
が殺されかけた(でもって病死とされている真澄の母が、既にそのとき死んでだ)という
噂だ。状況的にも、同じくメイドで当時玉の輿に乗ろうとしてた、ボクの母親が犯人って
事になってる。
「証拠などありませぬ。もう皆が墓の中ですからな……この老体を置いて」
唇を歪めて、老医はボクを睨む。
ボクにとってだって、そんなことはどうでもいいことだ。
「そして、もうすぐボクもお墓行き――ってわけだ」
「そうですな」
あっさり肯定。
嫌われている、ボクが背負っているものが、彼は憎いのだ。それでもちゃんと診察する
あたり、たいした医者根性だ……恐れ入る。
「ですから、真澄は巻き込まんで欲しい。あの子はそのまま平和に生きればよい」
「――それはお願いかな?」
しなびた雪だるまの蜜柑の皮を外し、ボクは問う。
すぐに返る答え。
「いや、命令ですな」
更に、続きの台詞はドアごしで。
「医者のいいつけを守らぬと、長生きできませぬぞ、坊ちゃま」
バタン。
そうしてドアは完全に閉まる。
「長生きもなにも……もう、無理だよ」
そんなボクの声は、自分でも驚くほど震えていた。
参.
くるくる。
――橙色の蝶が舞う。
くるくるくるくる。
――白い雪の中、橙が映えて。
くるくるくるくるくるくるくる。
――綺麗だね。
くるくるくるくるくるくるくるくくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくるくる。
――幻、多分幻。
『あ、かなる?』
――蝶が振り返る。こちらに手招き。
『こっちこっちー、こっちきてあーそぼっ』
満面の笑顔。
蝶は少女。
雪のせいで、白い髪と白い着物に見える、少女。
だけど目の前は雪で、ボクは行けない。
――遊びたいのに。
そんな素敵な笑顔で笑ってくれる。、きみのそばに行きたいのにっ。
「夏成様っ駄目ですっっ! 夏成様っっお体に触りますからっっ」
窓枠に足をかけ、吹雪の中に出ようとするボクを、真澄の金切り声と腕が止める。
悔しい事に、細くて弱いボクの体は、女である真澄すら振り払えないのだ。
「はなせっ、はなしてよっっ。あの子と遊びたいんだってばっっ」
「外は吹雪ですっ。誰もいやしませんっっ。お願いですから、無茶は止めてくださいっっ」
ずるずると、ボクの足は窓枠から外れ、ベッドに引きずられていく。
「嘘だっ。いるじゃないか――橙の肩掛けの女の子が。真澄も見てよっっ、ねえっっ」
開け放った窓で吹雪を指差す。その先では、あの子が踊るのをやめて、怪訝そうにこっ
ちを見てた。
「誰も……誰もいませんよ? 夏成様」
軽く覗いた後で、真澄は不可思議さで語尾を和らげて言う。
「嘘だっ、嘘だ嘘だ嘘だっっ。ちゃんと見てよっ……かふっ……うぅっ……げふげふげふ
んっっ……はぁはぁ……けふっ」
こんな時に……。
胸が焼けて――発作が訪れる。
咳が止まらない…………なんか…………でてる……か……も…………。
「きゃああああああああっっ、夏成様っっっ」
真澄の悲鳴で、ボクは自分が相当とんでもない事になっていると、やっと自覚できる。
なんか、自分じゃ……わかんない……や…………。
あの日、大きな発作を起こしてから、ボクは丸二日間眠り続けた。
後一日目覚めなければ、親族への連絡が行くトコだったらしい、危ない危ない。
『かなる、かーなるっ』
昼下がり。守乃介の診察も終り、ボクはぼんやりと外を見ていた、ら……。
「へ?」
『かなる、あそぼ。きょうはあそぼ』
あどけない微笑。
二日前雪の中で舞っていた蝶が、ボクの目の前にひょっこりと現れた。
鮮やかな橙の肩掛け、見たことも無いような赤い瞳、白い着物と淡い藍の髪は……雪の
せいじゃなかったんだね。
蝶は、ボクとさほど年の変わらない女の子だった。近所の子なのかな? だけど……。
「きみ、どうしてボクの名前を知ってるの?」
ボクは、一番に聞いてみたかった疑問を口にした。ここには今年まできた事ないから、
知り合いなんていないはずなのに。
『かなるがつくってくれたからだよ』
女の子はさも当然のように答えた。
「つくるって……なにをさ?」
『ゆきだるま』
少女は雪のように白い指で、雪だるまのラインをしめすお団子二つを描くと、くすくす
と楽しげに笑った。
「雪だるまって……そりゃあ、つくったけどさあ」
窓枠のそばに鎮座している小さな雪だるまを見れば――。
「うそ……ない?!」
まさか真澄が片付けた……わけないよな、大事にしてたのは知ってたはずだし。逆に守
乃介なら、こんな一週間近くたってから処分する理由も無い。いくら僕が嫌いといっても、
断わりもしないほど意地が悪い老人でもあるまい。じゃあ……雪だるまはどこへ?
『にゅー、ないのあたりまえ。あたしここにいるから』
こんこんこん。
女の子の存在をしばし忘れて、きょろきょろと部屋中雪だるまを探していたら、ノック
の音がして真澄が入ってきた。
「失礼します。あら、夏成様、どうされましたか? お探し物でしたらわたしが……」
「雪だるまだよ、雪だるま。真澄は捨ててないよね?」
「はぁ……夏成様がお眠りの間も、雪はつけたしておきましたが、ありません……か?」
真澄も首をかしげていぶかしがった後、僕に合わせてきょろきょろと部屋中を見回し探
してくれる。
て、招き入れていないとはいえ客を前にして、主人とメイドがなにかを探し回っている
という図も、マヌケだよね。真澄も気づいてないのかなぁ? ちょっと鈍いトコあるしな。
「……こほん。真澄、お客様に暖かい飲み物でも出して。て、ゆうか玄関に廻ってもらっ
た方がいいな、案内してよ、真澄」
ボクはわざとらしく咳払いをすると、女の子を示して真澄に言いつけた。
「お客様……ですか? 失礼いたしましたっ、すぐにご案内いたしますっ」
真澄は慌てて頭を下げた後で、ボクの指差す方を見て……あら、と首を傾げた。
「どうしたの?」
『にゅー?』
女の子も真澄を真似して首を傾げた。さらさらと、肩につもった粉雪が落ちる。ホント、
寒そうだ。
「あの……失礼ですが……」
真澄はごしごしと目を擦ると、ボクの傍らへと近づいてくる。
「お客様は、どちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「どちらって……ここだよ、ここ? そこからだと見えない?」
そんなことは無いはずだ。つもった雪が台になって、女の子の顔は窓からもしっかりと
見えるはず。
「はぁ。わたしには見えませんが……お帰りになられたわけでは……」
「んなわけないだろっ?! ほらっ」
「きゃっ」
いらいらとボクは、乱暴に真澄の腕を引っ張り、窓の外が見える位置に引き込指差した。
「ここにちゃんと、女の子がいるでしょ?!」
「え…………えっと…………」
窓の外に身を乗り出して確認をはじめる。
『にゅー、にゅー、にゅー?』
女の子が真澄の至近距離で、彼女の顔の動きに合わせて首を動かす。
こっけいな光景。
真澄が気づかないわけがない、のに。
「あ……あの…………えっと…………」
ボクの顔と外を見比べて、メイドはおろおろとするのみだ。
どう考えても――真澄には女の子が見えていない、そう結論付けるしかない。
「見えない……の?」
「えと……えっと…………お客様……どんな方ですか? あの……あのあの……わたし、
目が悪くなったのかも知れませんし」
必死になって取り繕う真澄が、なんだか憐れに思えてきたボクは、静かに言った
「もういいよ、真澄。本当に帰っちゃったのかもしれないし」
目に見えて、真澄が安堵した。
「温かい飲み物二つと――蜜柑、二個持ってきて。また来るかもしれないから……」
「はい、かしこまりました。すぐにお持ちいたしますね」
きごちなく微笑み、真澄は退出していった。
『ふにゅ、いっちゃったー』
「……ゴメン。なんか……なんだか失礼な事しちゃって、ほんと……ゴメン」
ボクにはそれ以外言えなかった。真澄には悪気は無かったはずだし、だけどこの子はち
ゃんとここにいる。
『にゅーいいよー。たぁぶん、かなる以外にはみえないからー』
だけど女の子はさほど気にした風も無く、窓枠の雪を集めて雪だまをつくっている。
「え?」
現実にありえない事を、あっさりと言う。
そういえば、この子にボクの名前を知ってる理由を聞いてる最中だった、な。
『かなるにつくってもらったから――かなるにしかみえないよ』
ざぁっ。
風が渡り舞い上がる雪。止んでいるはずなのに、まるで一瞬吹雪に見えた。
女の子の薄蒼の髪も、ひらひらと舞い踊る。
無邪気な笑みが、深みに誘うように――ボクに手を差し出す少女。
「…………」
ふらふらと、魅入られたようにボクは手を伸ばす。
「――っ!」
そして触れた指は、あまりに冷たい。
まるで、ゆきの、ように。
『……はい、かなる、あげるー』
ぽて。
雪だまをボクの手のひらに落とすと、少女は橙の肩掛けを羽織りなおした。
「あ、ありが……と」
この子の手が冷たかったのは、たった今まで雪だまを丸めてたからだ、そうに決まって
る。
『にゅー、肩掛け、ちょっとボロボロになっちゃったの』
言った通りに、ほつれた裾の肩掛け。女の子はくるりと廻り、ボクの間近に視線を合わ
し、止まった。
真っ白な頬、赤い瞳が本当に綺麗で……。
どきどき、する。
『だからいつもみたいに、新しいのにかえてね』
「いつも……みたいに?」
雪だるまの肩掛け、蜜柑の皮の肩掛けは毎日変えていた、けど……。
『にゅー、じゃあまたねー』
女の子は、とんっとステップを踏んで窓枠から遠のく。
「え、ちょっと待って、まだ遊んでないよ。名前も聞いてないし……待ってってば」
急に訪れたバイバイに、ボクは焦ってひきとめようとする。
だってボクは、きみのことなにもわかってないよ、いま来たばっかりじゃないか。
ともだちに……なってよ。
『だいじょーぶ。またあそぼ、いつもいっしょだから、またあそぼ』
だけど女の子は微笑んで、またボクから離れていく。
「まってよ、あったかい飲み物とか用意してるから……ねぇっ」
こんこんこん。
丁度ノックの音がする、真澄だ。
「夏成様、お飲み物をお持ちいたしました」
真澄に思わず振り返えり、また窓際に視線を戻したら……。
「…………いない」
少女は忽然と消えてしまっていた。目を凝らしても晴れてい見通しがいいはずなのに、
どこにも姿が見えないのだ。
「夏成様?」
サイドテーブルでお茶の用意をする真澄、ちゃんとティーカップは二つ分。だけど少女
はもういない。
ボクはため息をつくと、派手にベッドにねっころがった。
ふて腐れている、きっとそんな顔してるはず。
「あら、雪だるま見つかったんですね」
「へ?」
真澄の声に勢いをつけて身を起こせば、窓際の一番寒い場所、指定席には赤い瞳の雪だ
るまが、ちょこんと鎮座していた。
さっきまで……無かったはずなのに。
「よかったですね、夏成様」
心のそこから、そう思ってくれている声。真澄はボクが雪だるまを大事にしているのを
知っていて……だからボクが眠り続けている間も、ちゃんととけないように雪を付け足し
てくれていた。
だけど、蜜柑の皮の肩掛けまでは替えてなかったんだ。だって真澄は蜜柑が苦手だもん
な。そう、雪だるまの肩掛けは、かなりしおれてくたびれていた。
そっか……。
「真澄、飲み物より蜜柑がいいな」
ボクは自分で蜜柑を手に取ると、いつもみたいに丁寧に剥き始める。
うん。
いまボクは、すっごく上機嫌だよ。
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