冬の贈り物

7.それぞれのエンディング(後日談)

『ご苦労だった“ブライト・エンジェル”君。また次の仕事でも期待しているよ』
 ぷつん。
 黒だけだった画面はそんな電気音を立てて完全に沈黙した。
 UGN武蔵蓮沼支部の会議室にて事件の報告を済ました央樹は、ひとりしかいない部屋の中でため息をつく。
 後味が悪い事件だった…自分の命を意識せず無心に全力で戦ってくる白金と、自分の命を投げ捨てるようにあえて敵対行動をとり続けた由布。前者はまだしも後者は説得で救えたのではないか、と、やりきれない気持ちが頭をぐるぐると回る。

 ――“V.M.”こと由布達夫は、1度FHを抜けようとして処刑され、それをきっかけにオーヴァードとして目覚めてしまったそうです。死に場所を探していたのかもしれませんね。

 薬王寺支部長からそんな話を聞かされたところで、央樹の心の黒いしこりは溶けるはずもなかった。むしろ益々救えなかったという後悔の念が渦巻くだけで。
 こんな風に、仕事の後は多かれ少なかれささくれ立った気分に陥ってしまう。そんな時に頭に浮かぶのは屈託なく笑うシュージの顔だ。そんな笑顔と向かい合って会話を交わせば、心に刺さった棘も雪が融けるようにして消えていく。
 そんなシュージも今はインフルエンザで寝込んでいる。具合が悪いのに1人で不安だろう……そう思うと自分のやりきれなさも“シュージ君を看病してあげなくちゃ”という気持ちにとってかわられた。
「……うん、帰ろ」
 だから残りの事後処理を手早く済まし、央樹は帰途についた。

「あー、おかえりぃー、央樹君。はやかったんだね」
 寝ているだろうからと静かにドアをあければ、そんな弾むような声で出迎えられて、央樹は玄関先でまんまるに目を見開き固まってしまった。
「シュ、シュージ君、寝てなくて大丈夫なのっ?!」
「うん、随分、良くなったみたいー」
 寝癖のついたくしゃくしゃの猫毛頭で、シュージはにへへと笑った。確かに朝方に比べて顔色は随分と良くなっている。
 そんな彼の背後では、くぱくぱと鍋の蓋が蒸気で小刻みに踊り、食欲をそそる香りを辺りに振りまく。中で温められているのは具だくさんのお味噌汁だろうか。
「ダメだよ、寝てなきゃっ。薬で少し良くなってるだけなんだから」
 靴を脱ぐのももどかしく台所に上がりこむと、央樹はシュージが着ているだぶだぶトレーナーの袖を引っ張った。治りかけで無理をして結局こじらせてしまうことは良くある話だが、シュージが風邪をひくのはこれが初めてだからそんなことは知らないはずだ。
「あうう……待ってよぉ、央樹君。もうちょっとでご飯の用意できるんだからぁ」
 袖口を握った央樹の手を取りシュージは軽く引っぱり返した。そう、本当に軽く……なのに……。
 ぺったし。
 央樹の体はあっさりと前のめりに傾ぎ、膝をついてしまった。
「ほぇ?」
「あ……あれ?」
 シュージの飴色の瞳と央樹のダークブルーの瞳が、ほぼ同時にぱちくり、と瞬きをする。
 央樹は慌てて立ち上がろうとして、自分の体にまったく力が入らないことに気づき、更に愕然とする。そう言えば頭も痛いし背中をぞくぞくと嫌な悪寒が走っている。
 これはもしかして……央樹の中を嫌な予感が駆け抜ける。
「央樹君、ほっぺた赤いよぉ?」
 くいっ……こつん。
 シュージにかるく顔を引き上げられておでことおでこが触れ合えば、シュージからはひんやりと心地よい冷たさが、央樹からは火照っているというには熱すぎる熱が、互いに伝わっていく。
「もしかして、今度は央樹君が風邪ひいちゃった?」
「………………かも……くしゅん」
 そのくしゃみが決定打だった……央樹は風邪っぴき。
 考えてみれば当然の結果だろう。元々、そんなに体が丈夫な性質ではない央樹が、インフルエンザの元凶のような状態の遥歌と一緒にいて、更には患者でごった返す病院内に長らくいたのだ。仕事が終わるまでは気が張っていて症状が出なかったのだろうが、任務完了と共に気が緩んで発症してしまったのだろう。
「たいへんっ。央樹君寝ててねっ。僕、暖まるもの作るからっ」
「え、あ、シュージ君の方だって、今朝まで辛そうだったじゃ……」
「僕はー、大丈夫!」
 ずるずると央樹の体を引っ張りベッドに寝かせると、シュージはパジャマに汗拭きタオルに氷枕……と、手際よく準備をしていく。昨日の央樹の慌てぶりとは大違いだ。実はシュージは、お昼のドラマなどを良く見ているわけだが、その中で“恋人の看病をする”というシチュエーションがあり、そこで学習していたのだ。
「シュージ君……すご……」
 けほけほと咳き込みながら、そんな同居人の動きにはもはや感心することしかできない央樹である。
「あ、あのね、待っててねっ。雑炊、すぐできるからっ……よかった、お味噌汁つくっといて……」
 てきぱきと台所で立ち回るシュージの声を聞きながら、央樹はふっと目を閉じる。
 頭も痛いし、体もだるいし……シュージや遥歌の症状を見ている限りでは、この後も辛い症状に襲われるのだろう。
 だけど。
 自分には心配をしてくれて看病してくれる人がいる――なんて幸せなことだろう。ひとりぼっちの頃にはありえなかった。
“ひとりじゃないって……本当に嬉しいコトなんだ、なぁ”
 そんなことを思いながら“ブライトエンジェル・光華の天使”は柔らかなベッドの中、まどろみに落ちていった。

 はぐっ。
 まあるいきつね色の物体に、とがりがちの八重歯を刺せば、甘く暖かいクリームが零れた。それだけで任務とインフルエンザで疲れた体も休まる錯覚に陥る……と、とにかく、そのぐらい大判焼きのクリームが好きなのだ……久遠寺遥歌という青年は。
 UGNの研究所所長に仕事の報告書を提出した帰り道、流しの屋台の中では比較的まともな味を出す大判焼き屋で5つほど買いこんで、彼の足はまっすぐ自宅へと向いていた。
 さすがに1人で食べきるわけではない。2つは叶歌へのお土産だ。彼女もまた大判焼きのクリームがそれなりに好きで、互いにおいしい店を教えあったりしている。情報収集のお礼はまた新ためてするとして、取り急ぎの感謝の気持ち……そんなこと以前の遥歌なら考えもしなかったのだが。
 無感情にして無関心――自分を含む全ての人間に対して存在意味を見出すことを放棄して生きていた彼は、妹の手によって確実に“人”へと還り続けて、いる。
 ちなみに30分で仕上げた報告書の出来は、室長を満足させるには充分な内容であった。それもそうだ、彼の睨んだ通りにFHが影にいて首謀者も始末済みなのだから。

「ただいま帰りました」
「…………」
 がちゃりとドアを開けて玄関に入れば、100万トンのプレッシャーを持つ無言にて出迎えられた。
 コートと靴を脱いでスリッパに履き替えて、内心の焦りを隠してかまわず通り過ぎようとした遥歌に対して、ぼそりと低い呪詛のような響きが投げられた。
「御子神、遥」
「……え?」
 足を止めてしまった時点で遥歌の負けだ。背後にどよどよとした黒い渦を背負う叶歌は、肩にかけたショールを手繰り羽織りなおすと、もう一度同じ言葉を呟いた。
「御子神、遥」
 今度はより明確に、兄に対しての怒りを込めて。
「…………もう報告書にまで手を回されたんですか? すばやいことで」
 自分の身の回りを絶えず見張られている、そんな妹の行動にあからさまな不快感を示し、遥歌は冷たく瞳を細めた。
「別に、普通のお仕事であれば、詮索したりはしませんわ。けれど具合の悪い状態を押してまでお仕事にお出かけになったから、どんな重要な仕事なのかと思いましたの」
 が。
 そこで出てきたのは“御子神遥”という偽名を兄が使ったという事実だった。
 叶歌にとっての“御子神命加”という女性は、遥歌を自分から遠ざけて、なおかつ遥歌の“心”を壊した張本人である。いい感情をもてるわけがない。
「いつも通りのFHがらみのお仕事でしたよ」
 叶歌が自分を気遣ってくれたことに微弱な幸福感を感じながら、それでいて目の前の妹がどうして怒っているのかが理解できず、彼は肩をすくめるといつも通りの冷淡さで続ける。
「詳しく知りたいのであれば明日お話しますよ、それでは僕は…………」
「御子神、遥」
 ぷっつりと。
 遥歌の台詞は叶歌の強い語調で断ち切られた。理由がわからない妹の本気の怒りに、遥歌は戸惑いを隠せなくなっていく。
「……仕方ないでしょう? 本名を使う訳にもいかないですし」
「それで一番に浮かんだのが、御子神さんの苗字ですのね」
 素通りさせないといわんばかりに、体の角度を変えて真っ直ぐ睨みつける叶歌。
「本当にお分かりにならないんですか? 熱にすっかりやられてるみたいですわね」
 困惑しかできない兄に対して心底呆れたようで、叶歌は痛烈な皮肉をぶつけた後で再びその唇を閉ざす。
「えと、叶歌さん……」
「叶歌、さんぅ?」
 ぴくり。
 叶歌の片眉が釣りあがり、いつもの10倍増しの怒りにて訂正を促した。
「……………………」
「……………………叶歌、ごめんなさい」
 重くも痛々しい沈黙に、耐え切れずに折れたのは遥歌の方だった。
 視線を逸らしたふくれっつらで、自分の名の呼び捨てと詫びの言葉を吐く兄を見て、叶歌は打って変わって花が咲くようににこやかに微笑むと、そんな兄の手をとった。
「まぁ、お土産を買ってきてくださいましたのね。そうそう、良い香りの焙じ茶が入りましたの。お茶にいたしましょう、お兄様♪」
「……はいはい」
 理由もわからず謝らされた不本意さには納得がいかないながらも、叶歌がやっと機嫌を直して笑顔を見せてくれたことについては、小さな幸せを感じている遥歌であった。


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