冬の贈り物

5.それぞれのインヴェスティゲイション(調査)

 ――午後1時、武蔵蓮沼診療所前の公園にて。
「……なるほど、その黒塗りの車にFHが関係している可能性が濃厚ですよね」
 うんうんと頷く央樹。
 といったわけで。
 央樹の買ってきたミルクコッペパンをオレンジジュースで飲み下す瑠璃から、ことのあらましを聞き、状況を把握した一行である。
「で、これからどうするんですか?」
 その央樹の指示を促すように、光は自分より年下の先輩を見た。
「そうですね……ええっと……」
 ふうむ、と顎に手をあてて央樹は考え込む。エージェントとして、イリーガルを取りまとめて任に当たるのには慣れているが、作戦立案をし指示を出すのはそんなに得意としているわけではない。どちらかと言えば、他のメンバーでそういったことに秀でているものが大抵ひとりはいるので、いつもはそういった者に委ねているのが普段のやり方だ。だから改めて指示を仰がれると言葉に詰まってしまう。
「“田中健夫”いかにも偽名っぽいですけれど……けほっ、そうじゃあないんですよねぇ……ちゃんと大学卒業の際に書いた論文もあるみた……けほけほけほっっ」
 痛む頭を抱えながら、マスク装着の遥歌がむくりとベンチから体を起こした。手元にはここに移動してくるまでに仕入れた、“武蔵蓮沼診療所院長・田中健夫”の情報がある。瑠璃の情報とは違う、学会関係を辿ったため深く狭い情報だが、所詮それは“田中健夫”の実在を裏付けたに過ぎないものであった。
「うー、へっくしっ……うぅ……」
「ダメですよぉ、遥歌さんっ。ちゃんと寝てないとぉっ」
 げしっ、ごぉんっ。
 半身を起こした遥歌を再びベンチに押し付けるのは京華である。心配をしての行為であるが、その押し倒し方はがさつで……遥歌はしこたま頭をぶつける羽目になる。
「踏み込もうにも、証拠が足りないですよね……」
 意気込みがちの光をけん制しつつも、状況を動かす言葉を求めて、央樹は傍らの瑠璃に視線を投げた。
「じゃあ、その病人連れて、診察うけてきたら?」
 瑠璃は相変わらず面倒くさそうにそうとだけ答えると、紙パックのオレンジジュースを飲み干した。
「さらりと病人をこきつかうんですね……けほっ……うー、また悪化したくさいですね、どーやら」
 額に手のひらをあてながら、遥歌がだるそうにうめく。
 もちろん、ただ診察を受けてこいというわけではない、潜入して探りを入れてこいということだ。そんな意図を読み取って、彼からはぶつぶつと文句がもれるわけだ。
「あら、帰って寝ててもいいのよ? 叶歌の待ってる久遠寺家へ、ね」
 隣から冷めた声で瑠璃に言われて、遥歌は小さく肩をすくめる。そして何か言い返そうとしたら、それを遮るように元気な声が隣からあがる。
「大丈夫ですっ、遥歌さんっ。わたしがついていきますからっ」
 ガッツポーズの京華だ。
「……けほ」
 ……あなたがついてくると、余計不安なのですが。
 と、口にだす前に、遥歌は京華に半ば抱えられるようにして、診療所の門をくぐった。

 清潔そうな白のリノリウムの床、咳き込む患者でごったがえす待合室、薄いピンクの看護着の看護士さん……。
 武蔵蓮沼診療所の中は、どこでも見られるようなありきたりな小規模診療所と言って良かった。
「初診の方ですね。ではこちらのアンケートにご記入いただいて、保険証と一緒に出していただけますか?」
 受付で看護士に渡された用紙の内容も、今日の症状から既往歴までをアンケート形式で記入させる、特に怪しい部分はないものであった。
「どうやら、普通の病院みたいですねっ、遥歌さん」
「……声が大きいですよ、橘さん……けほ」
 きょろきょろと、あきらかに挙動不審な勢いで周囲を監察する京華に、アンケートに適当な答えを記入しながら遥歌が小さな声で注意する。
 これだけ不注意にも関わらず探偵だと名乗っているのだから、出鱈目な話もいいとこである。
「…………と」
 一番下の名前と住所の記載欄で遥歌の手が止まる。本名を名乗るわけにも行かないから偽名を使うとして、“鈴木”だの“佐藤”だの、適当な名前でとっさに反応が出来ないとまずい。
 熱も上がり咳も止まらず、悪化の一途を辿っているこのボケた頭では、そんなポカを平気で犯してしまいそうだ。
 しばし考えた後で、遥歌はこんな名前を書き付けた――“御子神 遥”
 御子神は、過去10年近く遥歌の面倒を見たUGN東北支部の女性だ。馴染みのある苗字なので反応可能だと彼は踏んだのだ。ちなみに5年以上名乗っていた“歌片 遥”という名前を名乗ることも可能であったが、足がつくとまずいと踏んで彼は避けた。
 UGNそれなりの地位についている御子神の姓を名乗ったところで、危険度は同じなのだが、今の彼にはそんな判断能力は無かった。
 適当に住所を書き、更には保険証を忘れたと嘘をついて、遥歌は受付にアンケート用紙を出すと京華の隣にすわり順番を待つ。
「遥歌さん、本当に具合悪そうですね」
 ぐったりと壁に頭をもたせかけて、ずずっと鼻を啜る遥歌に対して、京華は気遣わしげに声をかける。
「……あなたは元気そうですね、橘さん」
 いつでも健康優良でふっちぎっている京華に対して、皮肉な色を込めて言えば、彼女はそんな嫌味にはトンと気づかずに、にっこり笑顔で答えた。
「はいっ、風邪なんてひいてられませんからっ! だって、正人さんが風邪引いた時に、わたしが寝込んでたら看病できないじゃないですかっ」
“わたしは風邪などひきません”
 ……昨日、風邪をうつしたくないから家に帰らないと言ったら、妹にそう言われたことを思い出して、遥歌は苦笑いを浮かべる。
「まったく、あなたも叶歌さんも、無茶を言いますよねぇ」
「へ? 叶歌さんになにか言われたんですか?」
「少し寝ます。名前が呼ばれたら起こしてくださいね」
 答えは眠りにごまかして、遥歌はふっと目を閉じる。
 ……その5分後には名前を呼ばれて、夢見る時間すらもらえないのであるが。

「あー、そうとう扁桃腺がはれてますねぇ……つらいでしょう、これだと」
 白衣に白い帽子に白手袋にマスクに、止めは度の強い眼鏡……誰が誰やら認識できない外見の男が、遥歌の下に金属板を当てながら奥を覗き込みもっともらしいことを言った。
「……けほけほけほっ、やっぱりインフルエンザ……です、か?」
 ふらつく背中を京華に支えてもらいながら、遥歌もまた素で患者をやっていた。潜入調査もなにもあったもんではない。
「そうですねー、今流行ってますから……」
 さらさらとカルテになにやらかきつけつつ、目の前の院長を名乗る男は返す。
「先生もすごい格好ですよねー」
「あ、あー……これですか?」
 京華の無邪気な好奇心には、マスクを引っ張る院長から照れたような笑いが返る。
「さすがに風邪を引いてしまって。患者さんにうつすわけにもいきませんからねぇ……けほけほ……」
「医者の不養生……ですか?」
「まったくですよ、はっはっはっはっはーー」
 くだらない遥歌の突っ込みに妙に朗らかに笑う院長である。遥歌もとりあえずあわせて笑っておく。そして京華はというと……。
「???」
 風邪だという割に朗々とした笑い声に対して違和感を持っていた。
「とりあえず、3日分のお薬出しておきますから。あ、あとですねー」
 小指の先ほどのガラスケースから1つの錠剤を出すと、院長は遥歌に差し出した。
「このお薬なんですが、今回のインフルエンザに合わせて開発されたものでして、辛い症状を和らげる効果があるんですよ。今、こちらで飲んでください」
 まるでせかすように、看護士の女性が遥歌の傍らに水の入ったコップを置いた。
「……っ」
 錠剤を受け取ったとたん、遥歌は僅かに身を竦めてしまう。不審さを隠すために派手に咳き込んで風邪からの悪寒であるとごまかした。けれど抜け目なく視線は目の前の男へ。 
 つまんだ指先から“ちりちり”と焼けるような感触を、一瞬だが確かに感じた、から。
 ――レネゲイトウイルス、活性、化?
 それは遥歌の研究者としての蓄積された経験が感じ取ったものだ。何度かそんな薬を研究で扱ったことがあり、その際もこんな感じを受けた記憶がある。
「……なるほど、ね」
 遥歌は、ふっと冷たく唇を歪めた後で、それを愛想の良い笑みに濁らせる。
「そんなに急激に症状を緩和できるなんて……最近は便利な薬が出ているんですねぇ」
 ぴくっ。
 医師の右頬が僅か引きつったのを、遥歌は見逃さなかった。
「………………は、はははは。そうですね」
「ふふふふふふふふふふ」
 遥歌と院長2人の妙にテンションの高い笑い声が診察室にこだました。もちろん、2人の間には微妙な緊迫感を孕んで。
「???」
 ……そんな彼らに対して、傍らで京華は首を傾げるだけだった。

 結局、遥歌はその後会計を済ませて武蔵蓮沼診療所を後にした。
 そう、院長に嫌味をぶつけて、確実な反応があったという点にすっかり満悦してしまったのである――ここに踏み込むための確証を得るための調査はなにもせずに。
 まったくもって、阿呆な話である。

 ――現在の久遠寺遥歌の症状:悪寒、喉の痛み、咳、頭痛、鼻水、くしゃみ、更に熱上昇……でもって、思考力の芳しい低下。


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