冬の贈り物 |
――久遠寺家の朝は意外とはやい。
兄の看病で夜更かししていても、いつも通り午前7時前に目覚めた叶歌は、制服に身を包むと兄の部屋をノックした。反対の手には昨夜頼まれた情報のファイルがある。腕のいい交渉屋な彼女は、瑠璃が知っている情報と同等の内容を調べ上げていた。
「お兄様――お加減は如何ですの?」
がちゃ。
返事の前に開けて中に入れば、制服のタイをしめている遥歌に遭遇した。
彼のインフルエンザだが……不健康そうな目の下のくまと、げっほんごほほんっと更に嫌な音に変化した咳が、昨日よりの悪化を確実に物語っていた。
「叶歌さん、こほこほ……人が開ける前に勝手に部屋に入るのは……」
「ていっ」
ぺちっ。
不機嫌に抗議をする遥歌の額を叶歌が軽く押せば、兄の体はいとも容易く尻餅をついた。
「な、何するんですか……あなた……げっほんっ」
「お兄様? そんなフラフラの足でどちらにお出かけのおつもりですの?」
にこにこにっこり。
表情だけは笑顔で、額にはたくさんの青筋を装備して、叶歌は兄に対して問い掛けた。そこには言葉で怒るより遥かに高いプレッシャーがある。
が。
「どこにって、学校に決まっているじゃないですか。僕はあなたと違って徒歩なんですから、はやく用意しないと……」
鈍感な兄には、素晴らしいぐらいに通用しないのである――それが更なる悲劇を呼ぶのであるが。
「お兄様ぁ?」
もう一度呼びかけながら、叶歌の瞳は抜け目なく兄の部屋を観察していた。
……ベッドサイドのテーブルにのったノートパソコンと研究書。間違いない、深夜に叶歌の目を盗んで起きだしては、仕事を進めていたのだ。
「あれほどゆっくりお休みくださいね、と申しましたのに、そうせずに、あまつさえ病状を悪化させてどうするおつもりなんですの?!」
「悪化なんてしていませんよ? かなり具合は良くなりま……」
ぷすっ。
嘘くさい抗議を並べ立てる遥歌の唇に、叶歌は手にしていた電子体温計を突き刺した。1分の沈黙の後……ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、ぴ、と、ひよこが鳴く様に、妙に能天気な電
子音が遥歌の部屋に響く。
「38度5分……昨日より随分と熱が上がっていますわね、お兄様」
抜き取った体温計に目を走らせて、叶歌は未だ床から立ち上がれない遥歌をじとっと睨みつける。
「そうですか? けほけほ……自分では割と熱が引いたように感じたのですが……」
まだ抵抗を試みるらしい。いい加減無駄だと気づけないのは、熱で頭の働きが鈍っているせいであろうか? いや、彼が久遠寺遥歌であるからに違いない。
「お兄様ぁ?」
にこにこにっこり。
聖母マリアのように慈悲深い笑みで、叶歌は正反対の恐ろしい言葉を紡いだ。
「なんでしたら、ゆっくりとお休みできるように≪縛鎖≫で、ベッドにお縛りいたしましょうか?」
……2分後。
叶歌は1階のダイニングにて、執事の瀬能の用意した朝食を優雅な仕草で食していた。
遥歌は2階の自室にて、諦めた顔で布団をかぶり、ため息混じりの咳を繰り返していた。
「天羽君にメールをしておかな……げふげふげふげふげふんっ……」
制服のポケットから携帯電話を取りだすと、央樹に対して自分の状況を知らせる内容を震える指でうち始めた。
「あぅ、うち間違えた……うあっ、全文消えたッッ……頭が……痛い……げほほげほんっっげほっっ……うぅ……こぽっ、こぽぽぽ……」
携帯電話が本来色の“メタルブラック”から“クリムゾンレッド”に染まった。けれど防水加工なので、大丈夫だ。
ちなみに叶歌は、執事の瀬能に情報データのファイルを預けるとこう言付けてから、学校へと出かけた。
“どうせお兄様はおでかけになるはずですから、その際にはこちらを渡してくださいませ”
浅はかな兄の行動なぞ、すっかり妹様はお見通しなのだ。
――現在の久遠寺遥歌の症状:悪寒、喉の痛み、咳、頭痛、熱上昇。あと吐血がわりと。
※
“風邪をひいたみたいなので午前中は自宅にいますが、必要であれば呼び出してください。”
久遠寺遥歌から、上記の内容のメールが携帯電話に届いた天羽央樹であるが――そんなものを確認している余裕などなかった。
昨晩はシュージのことが気がかりで余り眠れなかった彼は、朝一番でシュージを医者に連れていった。その甲斐あってか、午前9時半をまわる頃にはシュージの診察は終わっていた。診察結果は今流行りのインフルエンザということで、症状に合わせた薬が処方されることになった。
もちろんシュージを診せることが出来たのは、ここがUGN関連の病院であるからだ。ちなみに一般人立ち入り禁止のセクションには、レネゲイトがらみの事件の被害者が入院していたりもする。
ぐったりと会計前のソファに身を沈めるシュージに対して、央樹は気遣わしげに聞いてみる。
「あと、薬もらうだけだから、もう少し我慢できる? シュージ君」
こくん。
シュージは力なくうなずいたあと、へくちっとくしゃみを1つした。
ちなみに人に顔を見られないためにと、シュージはマスクを着用し大きな毛糸の帽子を目深にかぶっている。暖房が効いて暑い室内でのこの格好は苦痛なのだが、央樹が自分を守るために用意してくれたものだ、文句を言わずにシュージは我慢をしていた。
『天羽さん、天羽央樹さん』
「あ、はい……待っててね、シュージ君」
ちなみに診察は央樹の保険証で受けていた。戸籍すらないシュージは当然保険証など持っていない。
シュージを置いたままで会計まで行きかけて、央樹はぴたりと足を止める。
――ぞわ、り。
彼の研ぎ澄まされた感覚――闘争本能と言うものが、心に警笛を鳴らした。待合室を見回してみる……怪しいやつは、いない。
――ここじゃ、ない? じゃあ、どこだ?!
「!!」
「央樹く……ぐすっ……どーしたの?」
急に険しい顔をして周囲を睨みだした央樹を、シュージは怪訝そうに見やる。
(……“水晶の目”)
そんなシュージにはなにも答えずに、央樹は自分のレネゲイトの力をわずかに解放する。集中のため閉じた瞳、けれどその裏側には彼にしか見えない光景が映し出される。病院の回り、感じた危険な気配をサーチ、それがシュージに向けられていないか、重要なのはその一点。
央樹の瞳の裏側に映ったのは、黒尽くめの人物が4人乗る黒塗りの車が遠ざかっていくビジョンであった。
……遠ざかるということは、ひとまずシュージに危害が加わる心配はなさそうだ、よかった。
央樹は緊張を解くと、傍らのシュージに言った。
「あのね、シュージ君……歩けるかな? やっぱり一緒にお薬もらいにいこう」
本当は少しでも休ませてあげたいけれど、すぐ傍にいた方が万が一の場合守りやすいから。
「うん」
マスク越しのくぐもった声は、それでも何故か嬉しそうだとわかる。差し出された央樹の腕につかまると、とてとてと琥珀の少年は薬局までついてくる。
……処方された薬をもらった後、特に何事もなく2人の少年は無事帰宅した。