冬の贈り物

3.それぞれのインターミッション(休息)

 一方――橘家では。
 午後9時過ぎという若干遅い時間に帰宅した橘正人と共に、京華が夕食を取っていた。
 今日のメニューは、中華スープに麻婆豆腐(茄子入り)に納豆とダイコンの浅漬け。バランスを考えて野菜たっぷりで作ってある。
 向かい合い食卓につく2人。ひと回り年が離れた2人は、夫婦というよりは兄妹といった風情だ。
 じぃーーーーー。
 新聞を広げ黙々と箸を口に運ぶ正人に対して、京華は手を動かすのをとめて目の前の夫を凝視する。瞳には“期待”の文字が躍っていた。
「………………」
 視線に気がついて新聞をたたむと、正人は少し慌てて言った。
「……ああ、えーと、麻婆豆腐おいしいよ」
「よかった」
 笑顔。
 だけど言って欲しい言葉はそれではないので、京華はそのまま見つめ続ける。
「うう、うんっ……」
 なんだか居心地の悪さを感じて、思わず咳払いをしてしまう正人である。
「正人さん、風邪?」
「いや、ちょっと喉にひっかかってね。ああ、だけど職場の同僚が風邪で倒れてて、お陰で忙しいよ」
 ふう。
 ため息をつきながら心のどこかでは、何でもいいから話が始まったことにほっとしている正人である。
「そうなの。学校でもインフルエンザが流行っててね。友達も明日病院に行くって言ってたの」
 京華の方からも、今日自宅まで送った御手洗のことを話す。ひどくつらそうな症状だったとか、色々色々。正人の同僚も同じような症状だね、等、ありきたりの夫婦の食卓で上る話題に見せかけて、あることに触れるのを避けている緊張感が漂っている――ただし、正人にのみ。
「……でね、正人さん」
 髪形についてなにも言ってくれない正人に対して、すこし待ちきれなくなった京華に対して、正人はまた新たな話題をかぶせる。
「そう言えば京華、今日の夕方電話してきた件なんだけどね……」
「“白金戦”さんのこと? なにかわかった?」
 京華が情報収集で辿れるもう1つのルートは、夫であり警察勤めの正人だ。こう見えて彼は優秀で、30歳前の若さであるがそれなりの地位についている。そのため警察関係の様々な情報に接する機会があるのだ。ただしそれを妻である京華に全て話すかというと、それは守秘義務の関係上ありえないのだが。それでも無難なレベルの情報は、京華にまわしてくれるし、それが彼女の絡んだUGN関連の事件の解決につながったこともあるのだ。
「ああ、彼は相当なチンピラだね。なんというか……ろくでもない人間だよ」
 こんなことを聞いてくる辺り、また妻がややこしい事件に関わっているのではと、憮然顔になりながらも正人は京華に“白金戦”についてこんな風な情報を話した。
 ……窃盗、恐喝、暴行などのくだらない前科が山積み。ただし普通のチンピラと違うのは、それれが全国各地にあるということ、と。
「そうなんだ。正人さん、ありがとう」
 現時点では、それがどんな意味を持つのかはたまた何の意味もないのか、彼女には判断はつかないが、自分のために骨をおってくれたことが嬉しくて、京華は上機嫌でお礼を言った。
「また危ないことに首をつっこんでいるんじゃないだろうね、京華」
「えっとね、正人さん……」
 小言は頬を桜色に染めた京華の声で途切れた。くりくりと人差し指に昨日までとは違った短い髪を巻きつけて、上目遣いで京華は今一度夫の名前を呼んだ。
「正人さん」
 ううっと、正人の息が苦しげにつまる。なるたけ触れたくなかったのだ、京華が髪を切ったということには。
 髪を切るというのは“失恋”という話がつきまとう。もしかしたら、最近忙しくてかまっていないから、そのあてつけなのだろうか? いや、京華はそんな意地の悪い性格ではない……とか。そういえばこの間読んだ週刊誌で“妻の大変身は、浮気のシグナル。例)化粧が派手になった、髪形が大幅に変わった、など”という記事を見た……とか。
 ぐるぐるぐるぐる、と不吉なキーワードが正人の頭の中をまわる。
 しかし目の前の妻、京華は自分の言葉を今か今かと待っているようだ。その表情には暗さがない。
 ……だ、大丈夫だ。京華はそんな子じゃあ、ないっ。
 意を決した正人は、ぼそりと一言言った。
「………………髪、切ったんだね」
「え、うんっ。気づいてくれた?」
 気づかないわけないだろう。と、昨日までの髪の長い京華を知る人ならば誰もが言うはずだ、それぐらいイメージが違う。
「その……なんだ……」
 更にわくわくと自分の言葉を待つ京華に向けて、正人は安堵と共に以下の台詞を搾り出した。
「……似合うよ、とっても」
「わーい、ありがとー♪ 正人さんにそう言ってもらえると、嬉しいー」
「そ、そうか、僕も……嬉しいよ」
 ――こうして、なんだかよくわからない橘家の食卓の緊張感は取り払われたのである。

 夜の繁華街――敵を求めて彷徨う魔獣が一体。
 ……といっても、まだ人間の姿をしたキュマイラのピュアブリード、坂ノ上光であるが。彼は今回の標的“白金戦”を探して、午後11時の武蔵蓮沼市繁華街をうろついていたのである。情報戦が苦手……というか、考えてすらいない彼は、いつもこうやって敵を探すのがセオリーだ。昨日倒した男も、町で偶然見かけてあのビルの屋上まで追い込んだのだった。
 そう……町で偶然……見かけて……。
「なんじゃ、わりゃこんちくしょぉ、あぁああああ!!!」
 …………こんな風に。
 裏通りの陰鬱とした空気、それを覆すのは中身がないのに景気だけは良い呼び込みなのだが、それが途絶えてしまった今、そこにはただどよどよとした暗さが渦巻いている。その暗さを引き裂くのは、ある男の甲高い声。
「ああああ、殺されてぇのかぁ?! 死にてぇのかぁ?! ああ!!?」
“殺される”も“死ぬ”も相手にとっては同意語である。
「か、かんべんしてくださいよぉぉ」
 異様な風体のひとりの男が、赤いハッピを着たピンサロの呼び込みに絡み付いていた。
 どれだけの整髪剤を使えばこうなるのだろう、おろせば肩甲骨の辺りまで届くであろう黒髪をピンピンと天向けてに立て、黒の皮ジャンには無駄に銀の鎖がじゃらじゃらとブラげて……あの量だと相当の重量のはずだが、そんなことも意に帰さずにくねくねと滑らかに上半身を揺らすと、怯えきった呼び込みに強烈なパンチを浴びせた。
「……あいつは」
 光は今日、瑠璃からみせてもらった“白金戦”の写真を思い出してみる。見るからに“純正チンピラ”なその外見は、間違いない――今回の標的だ。
“ワーディング”そう呟こうとして、光はその呪詛を飲み込んで止めた。今回の作戦隊長である央樹から“白金は非常に高い戦闘能力を有しているため、単独行動時に見かけた場合でも、勝手に戦闘を起こさないように”と、指示を受けていたからだ。光は誰かと違って、決して無謀な性質ではない。そう、どこかの人妻探偵とは違うのだ。
 憐れな呼び込みあんちゃんを動かなくなるまでボコにした後で、白金は、ぺっと地面につばを吐きかけると意味不明の文句をわめきながら、何処となく歩き出す。 被害に遭わなかった呼び込みたちが、怯えるように目を逸らし身を引くものだから、白金の周囲には見えないバリアが張られているが如くぽっかりと空間があいていた。
 ……確かに目立つ、見失うことなんてありえないという勢いだ。
「……」
 光はそんな目立つ男を、あえて隠れずにつけ始めた。みんな白金を見てみない振りしようとしているし、白金は白金で歩く先々で目に付いた運の悪い輩に因縁をふっかけて進んであるので、自分がつけられていると気づきもしないだろう。だからあえて隠れるという傍目に怪しい行動をとるよりは“たまたま行く先が一緒なんですよ”と言う顔をして歩いた方が絶対に怪しくない、と光は踏んだのだ。
 ……中々賢い選択である。
「んなぁんでぇよぉ! つまんねぇぞぉ、こんちくしょぅ! あああああ?!」
 30秒ごとにそんな怪音波を発しながら歩く派手な30代を、見失うはずないのだ――通常であれば。
「…………あ、あのぉ、もしかして“ご子息様”……“光の大明神”様ですか?」
 ……こんな声がかからなければ。
 声の主は10代半ばの黒髪の美少女であった。
 胸にはアークライト教団の聖印を下げ、手には皮ふちの聖典をぎゅっと握り締めている。でもって、その年代の子が身に纏いたくなるであろう派手な装いは一切なく、慎ましやかな黒のロングワンピース(ほつれあり)。左右のお下げにはアクセサリーすらついていない……相当貧乏なのかもしれない、本人だか親だかがアークライト教団に金をつぎ込んで……。
「え、はい……あなたは」
 光は足を止めて、アークライト教団内での呼び名に反応する。その時点で“白金戦”の存在は、頭から抜け落ちた。
「あ、私……“ご子息様”に名乗れるような身分のものではありません。御光顔を拝見できただけで……私……」
 きらきらきらきらきら。
 もはや感激いっぱいで涙ぐみまでしている美少女。しかし、光にとっては彼女が美少女か否かなどは関係ない。重要なのは信者か否かが……その1点だ。
「こんな夜遅くまで、アークライトの教えを広めていたんですか?」
「……良いことを続ければ報われるのですね。“ご子息様”にお会いできるなんて」
「そうですね……」
 アークライト光、手元から聖典を取り出すととあるページをひらき、おもむろに読み出した。
「こちらにも書いてあります。“むやみやたらと、悪人を信じるべからず”と」
 それは当然の話だろう、とか、どーすれば悪人とわかるんだ、とか、大体にしてこの会話の流れで引用するのは不自然だろう、とか……ツッコミどころはありすぎて困るのだが、目の前の信者美少女がそんなことをするはずもなく……ただただ、熱に浮かされたように瞳を輝かせてうんうんと頷いているだけだ。
「こほこほっ……“ご子息様”のお声で、聖典の御言葉を頂戴賜れるなんて……けほっ」
 見れば少女の頬は異様に赤い――貧乏で風邪薬すら買えないに違いない。
「大丈夫ですか?」
「はい、聖典ページ308、こちらにもありますもの……“病は気から”。これは私の歪んだ気が呼び寄せているのです……平気ですわ、こほこほこほっ」
 久遠寺遥歌が吐血する際によくやりそうな、嫌な感じの咳をしながら健気に少女は答えた。
「そうですね。それでは、お話を続けましょうか」
 さらりと少女の言葉を肯定しながら、光は聖典のページを繰る。
「はい」
 小1時間――寒空の下でありがたきアークライト教団の教義が“ご子息様”こと坂ノ上光から語られた、傍らのインフルエンザ中期症状の美少女相手に。
 当然のことだが、白金戦の姿はロストしていた――あんなに派手で通常であれば見失うことなど、ありえないのに。
「くそう、見失ったか……」
 当たり前である。

 光が信者の美少女に対して熱心に教義を説いていた頃――
「結希ちゃん、今いい?」
 瑠璃は薬王寺支部長の携帯電話に連絡をつけていた。
『あ、瑠璃さん。こんな夜遅くに、どうかされましたか?』
 はきはきと歯切れの良い声は、ダークチャコールの大きな机の向こうから。夜も遅いというのに、若干14歳の少女が未だ勤務先にいる方がどうかしているのだが、今は危険人物が市内に潜入してるいこともあり、仕方ないのかもしれない。
「ケイトくんは元気?」
 月の明かりを半身に受け、まずは薬王寺が懇意にしている少年オーヴァードの名を出してみた。
『元気ですよ……て、そんなことでお電話されたんですか?!』
 律儀に答えてから真っ赤になっている様子が見えなくてもわかる。思わず瑠璃の唇に笑みが踊った。
「そう、良かったわね。最近、この町でもバカがうるさいみたいね」
 くすくすと冷やかすような笑い声の後で、瑠璃は先ほどと変わらぬ軽めの話調で本題に入った。
『“白金戦”の件ですね』
 部下の天羽央樹から、彼女に協力を仰いでいるとは報告をもらっているので、すぐに思い当たった。
「それとインフルエンザがはやってるから、結希ちゃんも人ごみには近づかない方がいいわよ」
『インフルエンザ……ええと、もしかして“由布達夫”さんですか? それとも瑠璃さんの調べている“V.M.”でしょうか?』
 瑠璃の台詞の裏を瞬時に察知して、薬王寺からそんな言葉が返った。
「どっちも正解」
 めったと人を誉めない教師が珍しく生徒を誉めるように、瑠璃はニヤニヤ笑いを浮かべた。
 そう、瑠璃はすでに“V.M.”=由布達夫であり、彼がFH所属の研究員であり、オルクス×ソラリスの発症者だということまでつかんでいた。ちなみに“V.M.”はウィルス・マニュファクチュアラーの略だ。ウイルスの作り手、とはあからさまなコードネームもあったものだ。
『“V.M.”と“白金戦”……やはり、この2人はつながっているのですか?』
「でね、結希ちゃん」
 2つの事象からそうだと推察することは容易いが、裏づけはまだとれていない。だからその裏づけをとろうと、瑠璃はここに電話をかけてきたのだ。
「FHがウイルスをばら撒いているんだとしたら、患者のデータを集めると思わない?」 UGNという組織をこき使うつもりで。
『確かに……そう、ですね』
 筋が通った意見に、素直に感心の意を示して薬王寺は頷き、続けた。
『わかりました、市内の主要病院にエージェントを張り込ませます。FHの者の接触がないかチェックさせます』
「そうねぇ、小さな診療所とかもちゃんと見てた方がいいかも。小規模な方が入り込みやすいし、わたしだったらそうするわね」
『なるほど、了解しました』
 武蔵蓮沼UGチルドレンきって才女であり、それ故この年齢で1つの支部を任されている薬王寺だが、現場経験はまだまだこれからつんでいかなくてはならない状態だ。そこに来て瑠璃は3年余分の経験というものがある……いや、全てにおいて“謎”の彼女だから、もちろんそれ以上のなにかはあるのだが、ここでは多くは語るまい。
「じゃあ、ケイト君によろしくね」
『えっと……』
 その名を出すだけで赤面必至の彼女に、もう一度くすくすと笑声を投げると瑠璃は電話を切った。

 こうして、つかの間の休息を享受する面々の夜はふけていった。
 ……休息になっていない人物も、何人かいるようであるが、それはさておいて。


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