鏡の少年

6. あかい とり

 ここが、最後の扉。
さざなみを払うべく、強く開け放つ。

 目の前に飛び込む、白い壁、白い天井、無数の機械。そして。
「…………僕だ」
「周二君!」
 呆然と呟く声と。ガラスの向こう。はりつけにされた聖者のごとく機械につながれて。
――頭の芯が熱くなる。
眠るように頭を垂れる少年が、いた。思わず叫んだ声に、返事は全く別のところからかけられる。
「わざわざ“ダブル”をつれてきてくれてありがとう」
リノリウムの床に高く靴音を響かせて、白衣の男が薄く笑う。見覚えがあった。この研究所の中で、そこそこの地位にいた人物だと思う。ガラス張りの壁を背に立つ姿は、中肉中背のどこにでもいそうな男のもの。でも、目が。ギラギラとした目の光が気持ち悪い。
いつもの昏い気持ちではなくて。湧き上がるのは、これは怒りだ。
「FHの人間、だったんですか?」
「これからは、ね。向こうのほうが自由に研究させてもらえそうだったからな。“クリムゾン・ダブル”はそのための手土産だよ」

 手土産?

 ざわりと。総毛立つのをはっきりと自覚した。光が、ぽつりぽつりと、現れては空気に溶ける。
「あなたは、ボク達をなんだと……ッ!」
「貴重なサンプルだよ、ナンバー0381」
 平然と即答。この人にとって、ボク達は物と一緒?
 研究すること自体を否定することはできない。確かに、レネゲイド・ウィルスには未知の領域が多すぎる。知識を増やさなければ、対処できないこともあるだろう。実験対象が必要だということは、わかってる。
 だけど、ボク達だって人間、だ。利用されるために生きてるんじゃないッ。
「好きにはさせない。周二(シュージ)君は、連れて帰る!」
 光の翼を現して、叫ぶ。黄金に輝く羽根を一枚引き抜けば、それは一条の矢となる。左手に生み出した弓に番え、一気に引き絞る。
「おとなしく、彼を引き渡してください。そうすれば、怪我はせずにすみますよ」
「冗談だろう? ようやく成果をテストできるんだ」
 まっすぐに向けられた矢を無視して、男は笑みを貼り付けたまま、右手を持ち上げた。小さなスイッチが握られているのが見える。
(使わせたら、ダメだ)
 予感というよりは確信に近い思い。とっさにスイッチを握る手を狙って、光を放った。
 まっすぐに白衣の男を目指す光は、しかし間に合わない。
「くっ!」

 金の矢が貫く直前、男の右手に力が込められた。
「ふ、あ……っ?」
 シュージ君から紅い光が、溶け出し……いや、違う! シュージ君が溶けてる? 水あめのように光が伸びる。厚いガラスをすり抜けて、周二君のほうへと。紅い光が濃くなるほどに、シュージ君の輪郭が、おぼろげになる。身体が、透き通っていく。
「シュージ君!」
 待って。イヤだ。これは、何?
 引きとめようと伸ばした腕は……空をきった。それでも。光に追いすがって、視線を転じる。はりつけにされた聖者のごとくそこに在る、彼へと。
 紅い光。吸い込まれる。静かにうずまく、それは『力』。感じる。圧力。紅(あか)。薄いまぶたが、ひくりと動いた。
「さぁ、研究の成果を見せてやれ、“クリムゾン・ダブル”!」
 耳障りな叫び声に続いて。
 風を切る音。鉄の枷から解き放たれた彼の足は地面に触れることなく。背には力強く羽ばたく、血の色をした二対の翼。
「しゅ……ぅじ、くん……?」
 まぶたの奥から、深紅の瞳が現れた。光のない、暗い紅。宿るのはただ、殺意、だ。
 あぁ。いっそ身をゆだねてしまえば楽だろうかなんて、心の片隅で思うのに。こんなときに限って光はちらつかず、ただボクの中に在る。昏い声よりさらに深く、強く、約束がボクを縛るんだ。痛いくらいに優しい声が。
 だから。
 ふいに『彼』の両手が、前に突き出された。瞬間、背後に生じる気配。ガラスの向こうにいるはずの彼と、まったく同じ姿をしたモノが、まったく同じ動作で腕を突き出す。
 ボクを挟んで直線上。二人の手の中から、鮮やかな、紅い光がほとばしった。
「!」
 とっさに、翼を打って横に飛ぶ。
 床材の焼け焦げる臭いが、数瞬遅れて感覚に届いた。オーヴァードでなければ、即死だろう。それだけの威力があった。
 そして、そのことに躊躇する意志は、もう『彼』には残っていない。
 ――だから、ボクは。
「任務を続行……FHから“クリムゾン・ダブル”を救出、します」
 声がうわずる。なんだかうまくしゃべれない。心が震えるけれど。視線は『彼』から動かさない。動かせない。
 仕事。それだけじゃない。約束したんだ。助けるって。守るって。
(完全にジャーム化したら、もう戻れない)
 するり、光の翼を高く広げる。
(ウィルスに支配された心は、もう……帰れない)
 ――だから……ボクは、守るよ。君の……心を。

 光のない深紅の瞳をまっすぐに捉える。彼の腕が再び動く、その前に。
 光よ。
 この身の内に在る『力』よ。
 集え。
 翼を打つ。光の粒子が広がり、ボクの周りを舞う。左手を前に、右手を胸元に。光が弓と、一条の矢を形作る。凝縮された破壊の光。終末を告げる輝き。
 壊すことしかできない、ボクの『力』。こんな方法しか浮かばないんだ。
「ごめん、ね」
 ぎりぎりにまで引き絞った弓から、矢を解き放った。

 金の光は狙いをたがえることなく。
 無慈悲なほど静かに、紅を飲み込む。

 目を灼く輝きの中。そこに浮かんだのは、微笑だっただろうか。

「しゅー……じ、くん……ッ」
 光が過ぎた後。うつぶせに倒れた体。紅い翼は消えて。だけどちらちらと何かが輝いていた。
 おぼつかない足取りで、近づく。全部、見届けないといけないと思うから。
 割れたガラスを踏み越えて、傍らにひざまずく。光っているのは、周二君の身体だった。そっと抱き起こす。体の下に入れたはずの腕が、透けて見えた。なん……で?
 閉じていた瞳が、薄く開かれた。弱いけど、優しい光。
「央樹君……僕、人間じゃなかったんだねぇ……」
 困ったように微笑むのは、シュージ君? その表情もしだいにかすんで。
「そんなこと、関係ない!」
 ああ、消えてしまう。止められないんだ。だって殺したのはボクだもの。せめて少しでも長くと思うのに。透明な雫が、あふれて、きて。
「ボク達は、友だちだよ」
「……うん。そうだね」
 視界が揺らぐ。笑顔がかすむ。立ち上る光の粒子が数を増して。

 ―― あ り が と う ……。

 腕にかかる重みが、ふいに消えた。
「っ! シュージ君!」

 遺された言葉。……「ありがとう」。
どうしてそんな言葉をくれるの? 結局、ボクは君に何もできなかったのに。君を助けることが出来るなんて思い上がってた。何も知らずに。この『力』にも価値があるのかもしれないなんて、うぬぼれてた。
 いっそ恨まれてもかまわなかったのに。責めてくれてもよかったのに。おろかなボクに、どうか罰を。
 だけど、君の言葉は、やっぱり……どこまでも穏やかで、優しかった。


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