鏡の少年

5. とりをかう ひと

 門から建物の入り口までの幾重ものセキュリティ。けれど、出入りできる人間が一人いるだけで、侵入はずいぶんと容易なものになる。
 IDカードを差し込めば、小さな電子音と共にロックが解除される。いつもは憂鬱と諦観をもってくぐる扉。でも今日は違う。助けるんだ、絶対。
一歩踏み入れれば、白い壁、冷えた空気、無機質な扉の群れ。
「辛気くせー場所だな」
 宮城君の声にかぶって。
「ここ、なんか……嫌だ」
 背中から、囁くような声がかけられる。振り返ればシュージ君が左右を見渡して、かすかに眉をひそめている。狙われている以上、一人でおいてくるわけにもいかなくて。つれてくるのが正しいのかも分からないけれど。

「友だちを助けに行くんだよね。……僕は、大丈夫。央樹君が一緒なんでしょう?」

 ついてきて欲しいと話したとき、シュージ君は笑みを浮かべてうなずいた。
 平気だと言ってくれた。だから、応えなくてはだめだ。シュージ君を守って、周二君を助ける。心の中で繰り返し、ボクは通路をにらみつけた。いぶかしげに近づいてくる研究員と、目が合う。
 今はこの『力』、厭っている場合じゃない。
「UGNの指令により“クリムゾン・ダブル”の保護に来ました。邪魔をする場合は敵とみなします」
 目を細めて宣言した。

「君、は……」
 立ち止まって息を呑んだ研究員の声には、覚えがあった。
「ちょうどいい。あなたはあの扉を開けられますよね」
 昨日、早く帰れと言った、あの声だ。壊すことも不可能ではないだろうけど、開けられるならそれにこしたことはない。
 “クリムゾン・ダブル”の研究に関わっていた人物全てがFHに関係するとは限らない。UGNの名前を出して、おとなしく案内してくれるのならばそれでよし。そうでなければ、多少手荒な真似をするかもしれない。
「どうして、戻ってきてしまったんだい?」
 しかし、返ってきた言葉はまったく別のものだった。ボクに向けられたものじゃない。視線の先にいたのは。
「? おじさん、僕のこと知ってるの?」
 目をしばたたかせるシュージ君。
「ああ、そうか……。いや、なんでもない」
 眉をひそめる。シュージ君も、困ったように首をかしげているが、彼はそれ以上の事を語るつもりはないようだった。こちらとしても、あまり余計な時間はとれない。胸のうちでため息をつきながら、もう一度強く言う。
「扉を開けてもらえませんか?」
「……わかった」
 視線に耐えかねたように、彼はひらひらと両手を挙げた。
「なんだ、あっさりしてんな」
「そうは言うけど君、私だって命は惜しいよ」
 ボクの台詞から、彼をFHの関係者だと思ったのかもしれない。宮城君が拍子抜けした声を出すと、男は手を挙げたまま肩をすくめた。
 分かっているのだろう。普段はボクを縛っている、『恐怖』がないことを。刷り込まれた白い部屋の感情も、今は胸の奥に。助けたい、守りたい。何よりもそれが勝っているから。
「それじゃあ、ついてきなさい。……この手は下ろしてもかまわないかな?」
 振り返る途中で、また手をひらひらさせて問う。どこかふざけた態度。のんきなものだ。ボクは冷ややかな視線を送った。
「どうぞ。どうせあなたが何かするよりボクのほうが早いですから」
「おいおい、何ケンカ売ってんだよ」
「別に、ケンカを売ってなんか……」
 心外だ。不機嫌を隠すことなく反論しかけて。
(あ、れ?)
 開きかけた口が、動かなくなった。ケンカ……というつもりはまるでなかったけど。小さく頭を振る。
「央樹君?」
「ごめん。ちょっと……興奮してるかも」
 ぷちん、ぷち……ん。身体の中で、ゆっくりと、けれど確かに光がはじけてる。心を侵そうと、はじけている。『力』を使えば使うほどに、それは無意識のうちに思考の内に入り込むから。
深呼吸ひとつ。体内のレネゲイド・ウィルスをコントロールするには、落ち着くことが何より大事だ。光をそっと閉じ込めるイメージ。
「ふぅん」
 向き直ろうとしていたはずの白衣の男が、顎に手を当ててうなずいていた。その瞳に浮かぶ色は、見慣れたもの。嬉しくないことに。貴重なサンプル、優秀な実験体。研究者の目が輝くときというのは、たいてい嫌な思い出しかない。もっとも、いい思い出なんて数えるほどしかないけれど。
 思わず、ため息がもれた。
「今日のボクはUGNのエージェントとして来ていることをお忘れなく」
「ああ、いや。分かってるよ。うん、……君に任せてよかった」
「え?」
 問いかけを無視して、男は歩き出した。仕方なく後を追う。障害もなく、両開きの扉にたどり着いた。暗証番号、白衣のポケットから取り出されたカードキー、さらにいくつかの手順。念のために隣で様子を見ていると、30秒ほどで短い電子音が響いた。分厚い扉が、音もなく開かれる。
「さ、これでい……っ」
 振り返って手を広げた男の身体が、一瞬大きくはねた。下腹部から、何かが生えている。金属とは違う、見覚えのある……槍。白衣が、赤く染まっていく。
「おじさん!?」
「ダメ!」
 悲鳴のように呼びかけて、一歩踏み出したシュージ君を腕でさえぎる。その足元に。槍……“ツイン・ランサー”の腕が振るわれ、白衣に包まれた体が放り出される。
 赤いものの混じったうめきがもれる。苦痛にゆがむ表情。それはとりもなおさず、まだ生きてるということ。予断を許さない状況ではあるけれど、そっと安堵の息を漏らす。一瞬だけ落とした視線をすぐに前に向け、扉の内からゆっくりと現れる“ツイン・ランサー”に注意を向ける。
「力のない人間相手に、不意打ちか。感心できねぇな」
 一歩踏み出し、宮城君が構えをとった。“ツイン・ランサー”は意に介せず扉の前に立ちはだかる。ここは通さない、そういうことか。
 昨夜の攻防を思い出す。鱗のように硬い表皮を貫くのは容易ではない。倒すには時間がかかるだろう。こんなところで足止めされるわけにはいかないのだけれど。場所を移される可能性が高くなる。
 ボクの思いを読んだかのように。
「いっくぜーっ!」
 高速の拳が繰り出された。宮城君の一撃は、一瞬にして強化された毛皮に止められる。そのまま“ツイン・ランサー”が反撃。獣の膂力を持った槍が鋭く繰り出され、後ろに跳ぶ宮城君を追って踏み込む。
 扉の前が開けた。
「天羽、お前は先に行っていいぜ」
 宮城君の口の端が持ち上がった。視線は“ツイン・ランサー”に向けたまま。
「こいつとのケンカはまだ途中だったんでな」
「……わかりました」
 一瞬、迷った。ジャームは強い。ウィルスに侵蝕されきった心身は、人間としての意識を保っていたときに比べて、飛躍的にその能力を上昇させているからだ。オーヴァードがジャームと戦うときは一対一になることを避けるのが常。
 それでも、彼は今までも一対一の戦闘を好んで行っていたという。目の当たりにしたことはないが、相応の戦闘力をもっているのだろう。なにより今は時間が惜しい。
「でも央樹君。おじさんは……」
 そっと袖をつかまれた。血塗れた白衣の男に視線を移す。男は、傷口を手で押さえながら、ゆっくりと首をこちらに向けた。
「急所は……はずれてる。死には、しない……さ。医療班へコールだけ、しておいてもらえると、ありがたいね」
「わかりました」
 どうせボクには他人を癒す力もなければ、応急処置の知識も大してない。ひざまずいてボクは白衣の胸ポケットに手を入れた。研究員は、いつも非常用の呼び出しベルを所持している。実験対象の能力の暴走に対処するため、ということらしい。片手に握りこめるほどのスイッチを見つけて、押す。
 その耳に、近づいたからようやく届くかという、低い声がした。
「その子達のこと、助けてやってくれ、な」
「……え?」
 その真意を問いただすには時間がなかった。激しい衝撃が床を揺らす。“ツイン・ランサー”の二段突きが、廊下の壁に穴をうがっていた。
「おい、早く行けよ!」
 扉の前をふさがれたら先に進むことは出来ない。宮城君がひきつけてくれている間に進まなくては。
「シュージ君、こっち!」
「う、うん!」
 倒れている男を気にしながらも、ボク達は扉に向かって駆け出した。一瞬だけ振り返って目に入ったのは、小さく笑う顔と……「甲月」と記されたネームプレートだった。

 さざなみのように押し寄せる何かが、不安を掻き立てる。不安は焦りを、焦りは苛立ちをよぶ。ざわざわと、押しては引く。掴めない。わからない。なんだろう。
何か、間違えただろうか? 何か、見落としただろうか?
 曖昧な苛立ちを抱えたまま、ボクは階段を下りた。


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