鏡の少年

EX-2. たゆたう ねがい

 ゆらゆらと。
 水面を漂うような感覚。

 リズミカルなキーボードの音が響いていた。ガラスの向こう。コンピュータに向かって甲月さんが座ってる。他には誰もいない。
 カタカタ……カタ、タン。
 あ、れ……僕、寝てたのかな。なんだかやけに頭が重い。どれだけ時間が経ったんだろう? 『チーフ』と獣の人が出て行って。それから?
 ――そうだ。
「『僕』、見つかった?」
 声に出すと、キーボードの音が止んだ。椅子の背もたれをきしませて、甲月さんが上半身だけこちらに向ける。浮かんでいるのは、どこかいたずらっぽい笑み。
「見つかってほしいのかい?」
 まさか。僕は首を横に振った。見つけないで。捕まえないで。そのくらいしか、僕に望めることなんてないから。
「見つかったら、ここに連れてこられちゃうんでしょう?」
 せっかく今、自由なのに。
「そうだねぇ。チーフはもちろんそのつもりなんだけど」
 小さくもれる、笑い声。
「?」
「もう一人の君の居場所は見つけたよ。けど、連れて帰るのには失敗したらしいねぇ」
 チーフの焦った顔が目に浮かぶよ、と甲月さんは付け足した。上司なんじゃなかったっけ? 僕には関係ないけど。うん、それより。
「失敗した……?」
 『僕』を探しに出たのは、あの獣の人。よく知らないけど『チーフ』の側をいつも守ってたみたいだから、強い人なんだろう。見つけられてしまったら、『僕』が逃げられるとは思えないのに。
 首をかしげる僕をおかしそうに見て、甲月さんはまたコンピュータに向き直った。キーボードを叩く音が響く。
「そう。UGNのエージェントが動き出してるって、分かってたはずなのにね。まあ、『君』を傷つけられないっていうのもあったんだろうけど、まんまと追い返されちゃったわけだ」
「……そう」
 安堵が広がる。いつのまにか力の入っていた肩を、すとんと落とす。でも、追い返してくれたのは誰だろう。『僕』には無理。
 脳裏によみがえる声と、金の光。もしかして。
僕の思いを見透かしたかのように、甲月さんの低い声がするりと耳に飛び込んだ。
「ナンバー0381……いや、コード・ネーム“光華の天使”。こんな身近に優秀な子がいるっていうのに、チーフも油断したもんだ」
 あの子だ。
 助けてくれている。『僕』を、僕を。
「だから、君も少し希望をもってもいいんじゃないかな」
 子守唄のように響く低い声、キーボードを叩く音。
 ゆらゆらと。意識がまどろむ。

大丈夫だよ。僕の希望は『僕』が持っていったから。これは諦めじゃなくて。僕、嬉しいんだ。でも……、そうだね。願うなら。
 沈む意識の淵で、光を思う。

 ――僕が君に、何か返せますように。


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