鏡の少年

3. あたたかい もの

 一人じゃない。たったそれだけのことが、嬉しくて嬉しくて。ご馳走したいのに材料も腕も足りないのが悔やまれる。待たせるわけにもいかないし、冷蔵庫の中身をさらってすぐに作れそうなものを考えた。
 駅から歩いて15分ほどのマンションの4階。フローリングの1DKには、備え付けのクローゼット以外に、目立つものはパイプベッドとローテーブルがひとつくらい。そんながらんとした部屋が、今日はまるで違って見えた。たった一人そこにいるというだけで、どうしてこんなにも温かいんだろう。
視界が揺らぐのはたまねぎを刻んでいるから、なんだけど。きっとそれだけじゃない。袖で目元をぬぐって、湯の沸いた鍋にパスタを放り込む。
切った野菜とベーコンは隣の鍋で火を通して、コンソメで味付け。冷蔵庫から牛乳パックを取り出して、ふとテーブルのほうに顔を向ける。
「シュージ君、牛乳は平気?」
 名前を呼ぶ、それだけのことがなんだかくすぐったい。
 テーブルの前で部屋を眺めていたシュージ君が、ふわりと笑ってうなずいた。
「うん、平気。手伝わなくて、いい?」
「じゃあ、コップ出してくれるかな。もうできるから」
 コンロの前に戻って、最後の仕上げに取りかかる。缶詰を開けて、調味料を出して。最低限のものしかない部屋だけど、よかった、食器はなんとか二人分ある。茹で上がったパスタの湯切りをして、盛り付け。
「おまたせ。こんなものしかできなかったけど」
 できあがったのは、ツナの和風パスタとミルクスープ。間に合わせの材料では2品がせいぜいだった。湯気を立てる皿をテーブルに並べる。
「そんなことないよ。すごくおいしそう」
「そう、かな。ありがとう。どうぞ、食べて」
 おいしくできてるといいな。ずっと一人だったから、料理はできないわけじゃないけれど。特別こだわってたわけでもないし。でも今日は。この食事は。おいしく食べたいって心から願う。
 口に運ばれるスプーンの動きを、思わずじっと見つめていた。コクリ。スープを一口。そこで目が合う。
「おいしいよ。央樹君も食べようよ」
「っ、うん」
 口の中に広がったスープは、ほんのりと甘くて、あったかい味がした。

 それからボクたちは、作りすぎたスープをおかわりしながら他愛もない話をした。
「央樹君って高校生だったの?」
 床に置いたかばんから、化学の教科書がはみ出していた。シュージ君は少し目を丸くして、それを手に取る。確かにボクは高校生にしては小さい。156cm、これじゃボクより背の高い女子もクラスには多くて。でも実はそれも当たり前。
「本当はまだ14歳」
 ここは学校じゃないから。こっそりと打ち明ける。本来なら中学校に通っていないといけない年齢。それが高校に転入しろだなんて、UGNも無茶を言うと思う。
「すごいね。頭いいんだ?」
 どうして、とか聞いてはこなかった。疑ってる風もなく。事実をそのまま吸収しているような。パラパラと教科書をめくってため息を漏らす。
「何が書いてあるのかさっぱり」
「ボクだって、最初はさっぱりだったよ」
 肩をすくめて見せた。書類上はごまかすにしても、編入試験は一応受けないとまずいわけで。高校で転校するときは試験を受けないといけないってこと、実はこのとき初めて知った。まあ、なんとか詰め込んで試験を受けて、そのあとはUGNがどうにかしたんだろうけど。
「授業についていくだけで大変だよ、もう」
「それでも、ついていけるんだからすごいと思うな」
「そ、そうかな」
 ほめてくれるのは嬉しいんだけど、同時に照れくさくなる。今まで、結果を出すことばかりを求められてきたから。結果と数値で測られてきたから。どうしていいか分からない。思わず逃げを打ってみたり。
「あ、もう10時半回ってたんだ。お風呂入れてくるよ」
「わかった」
 うなずく声を背中に、風呂場の電気をつける。一人だと面倒になって、最近はシャワーですませていた。浴槽を指でなぞってみると、少しざらついた感触がする。しっかり洗わないといけないな。ズボンの裾とシャツの袖をまくって、ボクは浴槽の中にしゃがみこんだ。キュッとなるスポンジの音が気持ちいい。
 丁寧に洗っていたら、5分くらいはたっただろうか。栓をして、蛇口をひねる。その時。
「う、わあぁっ!」
 ガラスの割れる派手な音。吹き込む風。そして、悲鳴。
「シュージ君っ!?」
 部屋に駆け込むと目に飛び込んできたのは、ぺたりと座り込んだシュージ君と飛びかかる二足の獣。夕刻のジャームだ。手が硬化したのか爪が変形したのか、鋭い槍の腕が繰り出されようとしていた。
(させないっ!)
 視界が一瞬白くなった。床を強く蹴る。同時に開く光の翼。舞い散る羽根。ボクの欠片。広がれ。覆いつくセ。支配シロ。
 スロー再生したビデオのように、奴の動きをはっきりと捉える。

 ギィン……ッ!

 すんでのところで槍とシュージ君との間に滑り込む。翼を盾のように広げると、硬質な音と共に光が霧散した。槍の勢いは半減したものの、かざした右腕の皮膚が裂ける。けれど。
「ボクの領域で、勝手はさせないよ」
 目を細める。再び生まれた翼が、今度は刃となって斬りかかった。狙いは槍となった腕の付け根。至近距離でのカウンター。かわしきるのは無理のはず。
 光が赤茶けた体毛を削る。だが、それだけだ。こいつ、硬い!
 左手でシュージ君をかばいながら、次の攻撃へ移る。今、この部屋はボクの領域。ボクの一部。意識を凝らせば、足元から湧きあがる光。羽ばたきひとつを合図に、それは幾筋もの光線へと変化する。
「グ……」
 肌を灼(や)く光の群れに、牙の生えた口が忌々しげな唸りを上げる。ジャリッとガラスを踏み砕きながら、大きく後ろに跳躍した。
「待て! お前は……」
 思わず叫ぶが、聞き入れるわけもなく。ジャームは憎悪のまなざしを向けると、ベランダから外に向かって飛んでいった。
「くっ」
 散らばるガラス片を、翼をうって退かせ、ベランダに駆け出す。見えたのは、闇に溶け込んでいく獣の影。この翼は、空を翔けることはできない。直接追うことは無理だけど。羽ばたかせれば舞う光。領域を押し広げる。ボクが広がる。
 目は夜の街に向けたまま、左手で携帯電話を取り出す。呼び出し音1回。
『おう、どした?』
「宮城君! 例のジャームが現れました。新蓮沼から南西方向に逃走中!」
 広げた領域に五感を研ぎ澄まし、かろうじてひっかかった感覚を伝える。
『近いな。場所は?』
 バイクのエンジン音が声の奥から聞こえた。
 全ての感覚を集中させる。どこへ向かった? 携帯を握る手に力がこもる。
「……児童公園を抜けたあとは……。すみません」
 長く、息を吐いた。頭を軽く振る。もともと、周囲を探るような能力は得意じゃない。満足に扱えるのは人を傷つけるような能力だけ。イヤになる。
『わーった。追えるだけ追ってみる』
「よろしくお願いします」
 舌打ちしたい気持ちに駆られながら、通話をきる。いつまでも後手に回っているわけにはいかないのに。
 もう一度ため息をついて、振り返る。

 身体を震わせるシュージ君と、目が合った。

「あ……」
 大きく開かれた瞳に映る、それは恐怖。冷水を頭からかぶったように、身体が、頭が、心が冷えていく。
 ボクはいったい何をした? オーヴァードとか、戦いとか、きっと何も知らない彼の目の前で、振るった力は……とても人間離れしたもので。分かってる、こんなの普通じゃない。右腕の傷だって、ほら、もう血が止まってる。
 ボクは人間だって、そのつもりだけど。でも、やっぱり。
「怖い……よね」
 つぶやいた。どんな表情(かお)したらいいのかわからない。わからないから笑い飛ばそうとして、失敗する。目を合わせていられなくって、割れたガラスに視線を移した。
 涙が、にじんでくる。
「ごめん」
 目を閉じる。何も、考えられない。分からない。ただ、繰り返す。他には何も浮かばないから。
「ごめん……ごめんね……」
 言葉をなくしたかのように、それだけを繰り返す。光が……違う、よぎるな。シュージ君は悪くない。考えが足りなかったのはボクだ。壊してしまえと囁く、昏(くら)い光は嘘。消えろ。消えて、頼むからっ。
「ど……して、央樹君が謝るの?」
 かすれた声だった。でも、確かに届いた。
 この身に巣くうモノの囁きを打ち払ってくれたのは、やっぱりこの声だった。恐る恐るまぶたを開ける。
「央樹君は僕を助けてくれたのに」
 震えが完全に止まったわけではない。それでも、まっすぐにボクを見つめてくれる。なんて、強い。
「謝らないといけないのは、僕のほうだよ」
「?」
 シュージ君の顔に影が差した。何のことか分からなくて、ふらふらと近づいた。ねえ、そんな顔しないでよ。
 近づいたボクの右腕に、そっと細い手が伸ばされた。
「だって、僕のせいで……」
 ああ。破けた袖に触れた指が、赤く染まる。
「大丈夫だよ、このくらい。……すぐに、治るから」
 嘘じゃない。オーヴァードは強力な再生能力を持っている。乾きかけた血の下では、もうほとんど傷口がふさがっていた。だから、そんなこと気にしなくてもいいんだ。
「でも、痛かったよね?」
「え?」
 思わず、首をかしげていた。それは確かに、痛覚はあるけど。でも。ただの実験体ではなく、外に出られるようになった日から、戦うことは常に隣りあわせだった。常人なら死ぬような怪我だって、片手で足りない程度には味わっている。こんな怪我、本当になんでもない、のに。
 今まで誰が、ボクの痛みについて言及した? 誰もいない。いるわけがない。そういう風に生きてきたんだから。
 それなのに、今、ボクの痛みを悲しんでくれる人がいる。
「ありがとう」
 それはなんて、幸せなこと。涙と笑みが、一緒にこぼれた。


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