鏡の少年

2. それは ぼくをかたちづくる ことば

「名前、言えなかったな……」
 雑踏の中を歩いていて、ふと後悔が胸に刺さる。あれだけ話をしておいて、どうしてたった一言、自分の名前を言えなかったのだろう。彼の名前を聞けなかったのだろう。呼んで欲しかったはずなのに。知りたかったはずなのに。
ネオンが瞬きはじめた街の中、思い出して空を見上げる。薄曇の空は決して綺麗ではなかった。それでも見上げた瞳に安らぎが映る。後悔と疑問は消えないけれど。大丈夫、ボクはまだ空の色を知っている。空の色がひとつじゃないことを覚えている。
小さな安堵。
「うん、大丈夫」
 呟く。確かめるように。見上げていた視線をおろした。
大丈夫。次に会った時には、名前を教えるんだ。彼の名前を、呼ぶんだ。

「や……! ……ないで!」

 歩き出したボクの耳に、かすかな声が届いた。聞き覚えのある声。聞こえるはずのない声。考える前に駆け出していた。
明かりが届かない、ビルの隙間の細い路地。確かに声はそこから聞こえた。勢いのまま踏み込む。瞬間、身体を駆け抜けた感覚。肌が、細胞が、全身がざわつく。
(ワーディング!?)
 体内のレネゲイド物質を空気中に散布し、オーヴァード以外を無力化してしまう能力。オーヴァードなら誰でも持っている力だ。つまり、この先にはオーヴァードがいるということ。
 うかつに踏み込むのは危険と足を止めた刹那、前方の暗がりから飛び出してきた影がひとつ。速い。獣のような姿を捕捉したときには、驚くべき跳躍力でボクの頭上を抜けていた。
 振り向いたときにはもう遅く、それは再び大きく跳躍し、どこかへ去っていた。耳を澄ましても、騒ぎになった気配はない。人目のないところへ消えたのだろう。追いかけることはあきらめて、奴が出てきたほうに視線を向ける。
「大丈夫ですか?」
「……あ? なんだ、お前もオーヴァードだったのか」
 ここはまだワーディングの中だから。自由に動くボクを見て、そんな声が返ってくる。さっきとは違う、けれど知っている声だった。武蔵蓮沼高校2年4組――隣のクラスにいるオーヴァード。UGNから渡されている資料を思い出す。
「ええ、ボクはこの地域に派遣された“UGの子”。よろしければ状況を説明してもらえませんか? ……“神の如く(ゴッド・スピード)”宮城三郎太君」
 オーヴァードと非オーヴァードの共存。それがUGNの設立理念。ゆえにオーヴァード絡みの事件を放ってはおけない。
 問いかけに対して、宮城君は軽く肩をすくめた。
「状況ってもな。こいつが襲われてるのを見たから殴ってやっただけだぜ」
「……あ。えぇと、はい……」
 こいつ、といって親指で示した先には、ワーディングのせいか、見慣れぬものへの恐怖か、座り込んでいる少年がいた。影になって、顔はよく見えない。
 彼は一瞬肩を震わせて、戸惑いを隠さぬ声音を紡いだ。それは、やっぱり聞き覚えのある響きで。
「そうですか……」
 動揺はひとまず胸の隅においやって。最近の事件で、あの獣のようなオーヴァードが出たという情報はない。さっき逃げ出したときも、人目に付く場所を走った様子はなかった。ただウィルスの衝動にかられ、暴走したオーヴァードというわけではなさそうだ。オーヴァードというよりはジャームか。異形の姿は、過度のウィルス侵蝕の証。ウィルスによって人間性を喪失、すなわちジャーム化した場合も、理性が失われるとは限らない。
 何より『彼』をターゲットにしていたらしいことがひっかかる。偶然襲われただけと考えるには、今日はタイミングがよすぎた。
「あ、あの……ありがとう、ございました。それじゃ、僕は……」
 ボクと宮城君が話を始めたからだろうか。土ぼこりを払いながら立ち上がった少年は、ぺこりと頭を下げた。立ち去りかけた背中に、慌てて尋ねる。
「ごめんなさい。ひとつだけ。襲われた理由とか、心当たりありますか?」
「さあ……僕にはわからない、です」
 首をかしげる様子は、何かを隠しているとは思えない。「じゃあ」と通りの向こうに消える姿を目で追って、再びボクは考える。
(目的は、何?)
 今はまだ、材料が少なすぎる。
「宮城君。あのジャーム、人を襲ったとなると放っておくわけにはいきません。協力してもらえませんか? 報酬はUGNからお支払いします」
 わずかな時間だろうとは言え、正面から対峙したのは彼だけ。捕らえるにしろ、倒すにしろ、力を借りねばならないだろう。上への話は後で通せばいい。どうせこのあたりで起きた事件は担当させられるのだし、そのための協力者は自分で募らなければならないのだ。
「ふぅん。ま、ケンカできるならかまわねーぜ」
 あっさりとした了承の声。そういえば、彼は一対一の戦闘を好むらしい。命がかかっているというのに、彼にとってはケンカの一言で片付くのか。
「たぶん、そうなるでしょうね」
 あきれながらも、そのさっぱりした態度は小気味よくもあった。同じオーヴァードとして生きていても、こうも違う。知らず、苦笑がもれた。
「それでは、よろしくお願いします」
 ボクはそれだけ言うと、宮城君の脇をすり抜けて反対側の路地へと歩きだした。まだ、追いつくだろう。

 いろんなものを眺めてた。コンクリートの隙間に咲く小さな花とか、塀の上であくびをする猫とか、ちらちらと光を反射する川面とか。歩くたびに、新しいものが目に付いて。行く当てもなく歩く背中を追いかけていると、たくさんのものに気がついた。
 最初はどこへ向かうのかと思って、後を追っていた。でも、歩いているうちに目的地なんてないらしいことに気づいた。あえて言うなら、その一歩一歩が目的地。たくさんのものを、彼はきっと見ている。繁華街を抜け、住宅地を通り、もうどれだけ歩いただろう。あたりはすっかり人気がなくなっている。
 さらさらと流れる、川沿いの道。星明りは雲に阻まれて、今は街灯だけが頼りだ。放射線状の影が伸びては消える。ふと、前を歩く少年が振り返った。
 蛍光灯のほのかに白い明かりの下、初めて彼の顔を正面から見る。やっぱり同じだ。
 ――“クリムゾン・ダブル”
 ガラス越しに見た、穏やかな顔とまったく同じ表情が、同じ声が、言葉を紡いだ。
「……ずっと、いた……?」
 特に隠れてつけていたわけではないから、その台詞自体は驚くものではなかった。そのまま歩いて、近くに行く。
「うん。ごめん。……えっと、君にそっくりな人を知ってたから。でも、彼はこんなところにいるわけないって思って」
 とはいえ、何から切り出したらいいか分からなくて、少し言葉に詰まる。“クリムゾン・ダブル”と関係ないはずがないとは思うけど。それなら何者なのかなんてことには見当もつかない。ひとまず嘘ではないことだけを口にする。
「君は? こんな時間まで、帰らなくていいの?」
 同い年くらい――14、5歳――に見える。用もなく出歩くには、そろそろ遅い時間。ボクの問いに、彼はかすかに首を傾ける。
「僕、帰る所ないから」
「今晩、どうするつもりだったの?」
「……考えてなかった」
 困った風でもなく、答える。やっぱり、普通の人間とは違うんだろうな。生活のにおいがしない。どこか、夢のような空気で。現実(いま)を忘れることができそうで。安堵と不安が入り混じる。
 だから、自然と言葉が口をついた。
「じゃあ、うちに来る?」
 水のように澄んだ瞳が、少し大きくなった。
「いいの?」
「うん。ボクも……似たようなものだし」
 あの部屋を『家』と呼ぶ気にはなれなかった。ただ、生活するための部屋。UGNから指示されたマンションは一人暮らしには十分な広さで、快適なものなんだろうけど。でも、ひとりきり。いつも、ひとり。帰る場所というには、あまりにも寂しい。
「だから、一緒にご飯食べてくれると嬉しいな」
 それから。気恥ずかしくて、一度言葉を切った。こんなこと言うのは初めてで、少し怖いのかもしれない。小さく深呼吸。
「友だちに、なりたいんだ」
「……うん」
 返された笑顔が嬉しくて。自然と笑みが浮かぶ。それと、今度こそは忘れずに。
「ボクは天羽央樹。君は……?」


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