鏡の少年

EX-1. きえた かがみ

 光の残像を目で追っていたら、カチャリとドアが開けられた。
「やあ、気分はどう……って、いいわけないか」
 入ってきた白衣の男性は、いつもこの変な挨拶をしてくる。そもそも挨拶って言うのかな。一人で納得してるし。そりゃあ確かに、こんな風に冷たい機械につなげられて、いい気はしないけど。
 だけどこの人、甲月さんはそんなに嫌じゃない。ここに連れてこられてから、話らしい話をしてくれるのは、甲月さんだけだ。質問すれば、答えられる限りのことは答えてくれるし。
 それに、さっきまで楽しかった。
「別に、悪くもないよ」
 だからそう答えたら、甲月さんの動きが一瞬止まった。目を丸くして僕を見ている。何か変なこと言ったかなぁ。
「今日は言わないんだね、『うちに帰して』って」
 ……そういえば、いつも言っていた気がする。ここから出してほしくて。帰りたくて。それなのになんでだろう。今は、そんな言葉浮かんでこなかった。
「どうせ、言っても帰してくれないんでしょう?」
 理由が浮かばなかったからそんな風に応えたら、苦い笑みが返ってきた。悪いこと言ったかな。話を変える。
「今度は、何をするの?」
「ん。実験は午前にやった分で今日は終わりだよ。ちょっと聞かないといけないことができてね」
 なんだろう。でも、今日はもう痛いことも疲れることも、しなくていいみたい。少しホッとしていたら、乱暴な音が響いた。
「“ダブル”の居場所はわかったか!?」
 靴音高く入ってきたのは、この部屋に来る人達から『チーフ』と呼ばれている、やっぱり白衣の男。僕をここに閉じ込めた張本人。だから嫌い。
『チーフ』の後ろには、獣人と呼ぶのがぴったりくるような人がくっついていた。二本足で立ってるけど、全身が赤茶けた毛に覆われて。変なの。
あれ、でもそしたら僕だって変だよね。えーと、そう。オーヴァード、だ。さっき教えてもらった。
「そうせかさないでください、チーフ。これから聞くところですよ」
「悠長なことをやっている場合か。UGNのエージェントが動き出したかもしれん。実験をこれ以上遅らせるわけにはいかんのだぞ」
 ぼんやり考えていたら、『チーフ』がいつのまにか目の前――ガラスの向こうではあるけれど――に来て、甲月さんにつばを飛ばしていた。そんな口論こそ「悠長なこと」じゃないのかな。聞きたいことがあるなら、早く聞けばいいのに。
 甲月さんは急ぐつもり、全然ないみたいだけど。のんびりした口調が続いている。
「ああ、データのロックがはずされた痕跡があったそうですね。いやはや、昨日の警備は何をやっていたのか」
 答えるように、獣のうなり声。怒ってる?
「いや、あなたに言ってるわけではないですよ。あなたにあまり研究所内をうろつかれても困りますし」
“その減らず口はどうにかしたほうが身のためだぞ”
 あ、しゃべれたんだ。なんだかくぐもった声だけど。
「そんなことはいいから、早くしろ!」
「承知しました……で、聞きたいことなんだけど」
 『チーフ』の怒鳴り声で、ようやく甲月さんが僕のほうを振り返った。
「もう一人の君は、どこへ行ったのかな?」
 もう一人の、僕?
「……知らない」
 小さく首を横に振った。そういえば、何かぽっかりとなくなっている気がする。いなくなってたんだ。でも、いつからだっけ?
「知らないわけがないだろう!」
 『チーフ』が叫ぶ。焦ってる。『僕』を見つけられてないんだ。つまり『僕』は今、自由なんだね。ああ、だから「帰りたい」って思わないんだ。『僕』はもう好きなところへいけるから。自然と、口元がほころぶのが分かる。
 それが『チーフ』の癇に障ったみたいで。
「貴様……!」
「落ち着いてくださいよ、チーフ。そもそも彼の能力制御は不安定……というか、意識下でのコントロールは未熟。能力の暴走ということは十分に考えられます」
 かばってくれてるんだろうけど。未熟も何も、コントロールの仕方なんて知らない。実験とか言って、無理やり僕の身体をいじっておいて、なんだか皆勝手だ。
 まぁ、でも……別に、いいや。『僕』が自由なら、僕も自由ということ。だったら、それでいい。
「暴走か……だが、そう遠くには出現できないはずだ。甲月、すぐに付近のレネゲイド物質量を測定しろ!」
 まどろみかけた意識に、突き刺さる声。
 レネゲイド物質。それを調べると『僕』の居場所、分かっちゃうの? やだな。

『必ず、助けるから』

 金色の羽の子はそう告げた。ありがとう。ねえ、僕はこのままでもいいんだ。
 ――だから、『僕』を自由にしておいて。


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