鏡の少年

1. しろい とりかご

 『力』なんて、ほしくはなかった。

 どこも、似たようなものだな。ロッカーの服に手を伸ばしながら、ぼんやりと考える。エアコンの効いたひんやりした空気と、無機質な扉の群れ。研究所と名のつく場所には、今までいくつか通わされたけれど、どうして、どこもこんなに白くて冷たいんだろう。空の色とか、花の形とか、いつか忘れてしまうんじゃないかと思えるほどに。
(いけない……)
 沈んだ考えを振り払おうと、小さく首を横に振った。少し長めの黒髪がさらさらと揺れた。
 早く帰ろう。外に出て、空を見上げよう。こんなところにいるから、嫌なことを考える。左手でかばんを取り出して、ロッカーを閉じた。
 更衣室を出て、出口に向かって歩き出す。余計な場所をうろつくなと言われていたし、長居したいとも思わなかった。それでもその扉の前で立ち止まったのは、今日聞いた噂のせいだったのかもしれない。
 立入禁止のプレートがつけられた、頑丈な扉。何重ものセキュリティチェックを受けなければ、玄関をくぐることすら出来ない建物の中で、さらに厳重に閉じられている。この向こうに何があるのかは知らない。おそらく、何かしらの実験施設なのだろうけど。

 ――噂を聞いた。
 レネゲイド・ウィルスに侵されて手にした超常の力はいくつかの系統、シンドロームに分類されている。例えばボクが持つのは光を操る“エンジェルハィロゥ”と己が因子を周囲に広げて操る“オルクス”の力。その他、現在定義されているのは11種。そのどれにも当てはまらない、新たな症例が発見されるかもしれない、と。
 その能力の持ち主はコードネーム“クリムゾン・ダブル”。今、研究員たちがこぞって能力の解明に乗り出しているらしい。
 能力の解明、それはつまり……。
(ああ……)
 白い部屋を思い出す。
 光る羽が視界の隅にちらついた。

 ――キモチワルイ。

 自然の摂理に逆らう存在だから。ヒトとはかけ離れた力を持ってしまったから。
 思い出す。怖れと好奇のまなざし。繰り返される実験。押さえつけられて、機械につなげられて、泣くことすら許されなかった、あの頃。
 ボクをボクとして見てくれる人はもう、遠くて。

 両手を強く握り締めた。

「何をしている」
 降ってきた声に、はっと顔を上げた。光の残像が消える。いつの間にかうつむいていたらしい。
 目に付いた白衣と、研究員であることを示す左胸のプレートに、体がすくむ。記憶の深いところから、どうしても染み出してしまう。恐怖が。もう、外へと飛び立てるはずなのに。心が縛り付けられて、白い部屋できしんでる。
「すみません。ちょっと考え事をしていただけです……」
「君は……ナンバー0381か。検査はすんでいるんだろう。すみやかに帰りなさい」
「……はい」
 数字でしか呼ばれないのは、今に始まったことじゃない。それでも、繰り返されるたびに締めつけられる。
 ここにいると忘れそうになる。空の色とか、花の形とか、……自分の名前とか。

 軽く唇をかんで、目を伏せる。下がった視界にあった白衣の裾はあわただしげに消えた。ため息ひとつ。そのままきびすを返そうとして、違和感を感じる。
(あわただしい……?)
 珍しい。ここの人間は、みんな時計の針のように機械的に時を過ごしていると思っていた。あわてる、なんてそんな感情的な研究員を見るのは初めてかもしれない。何が、あったのだろう?
 頭をめぐらせて、目に付いたのは頑丈な扉。厳重に閉じられていた扉。
(本当に、珍しいな)
 虫の一匹すら侵入を拒んでいたその扉に、小さな隙間が開いていた。
 どうしようか、なんて逡巡は一瞬で。
 手早く周囲を確認すると、ボクはするりと扉の内側に身を滑らせた。扉の厳重さに比べて、中には監視カメラのひとつも見当たらなかった。それでも注意しつつ、眼前に現れた階段を下っていく。
 足音を立てないように、そっと降りていくと、今度はごく普通の扉。ノブに手を伸ばして回してみる。
 カチャリ。小さな音を立てて、扉は抵抗なく開いた。

 印象が記憶に重なる、白い部屋。半ばをガラスで仕切られた、その向こうに――彼は、いた。
 色の薄い、どこか現実感のない少年が、大きな機械につながれていた。低い動作音と、小さなランプ。何かを測定するためのものなのだろうが、自由を奪う拘束具にしか見えなかった。
 記憶の中の白い部屋がよみがえる。
(まさか、ここでも……こんなこと……?)
 この施設は、UGNの下部施設で……ボクたちが普通の人間の中で一緒に暮らしていくための方法を解明するための場所、ではなかったか。研究のために人間が犠牲になることを厭わない、あんな場所とは違うはずではなかったのか。だから、あの日、つかの間の平穏に別れを告げることを決めたのに。
 昏い考えが巡る。こんなときは決まって、光が視界をちらつく。感情のままに、力を振るえと、声なき声が体をさいなむ。
 この身体は病んでいる。欲しくもない力を与えられ、力は昏い感情に巣くって破滅を囁く。心まで喰らい尽くそうと、いつでもうごめいている。
 止まれ。どうか。
 願う心に届いたのは、機械に囚われた少年の声。
「………………だれ?」
 遠くを見るようなかすんだ瞳に淡い疑問の色を浮かべて。ガラスの向こうの少年がこちらを向いた。
「研究員じゃ、ないよね……。ここには、他の人は入れないって聞いたけど……」
 閉じ込められていることへの憤りとか、恐怖とか、そんなものをまったく感じさせない穏やかな声だった。気持ちが、ふわりとすくい上げられた。
「うん。でも……君に会ってみたかったから」
 踏み出して、ガラス越しに彼の目を見る。
「どうして?」
「同じかもしれないって、思ったから。ボクたち」
 どういうことかと問われる前に、目を閉じて、『力』に意識を向ける。背中に熱を感じた、と同時に現れる一対の光の翼。変貌を遂げたボクの細胞が生み出した、力の塊。
 かすかに息を呑む気配が伝わってきた。翼を広げたまま、改めて少年を見る。
「“クリムゾン・ダブル”って君のことだよね?」
「ここの人たちは、そう呼んでるね」
 苦笑したように見えた。ボクも、似たような表情をしてると思う。呼んで欲しいのは、そんな名前じゃない。
「ボクも同じように“光華の天使(ブライト・エンジェル)”って呼ばれてる。ここじゃないけど、同じような白い部屋でずっと過ごしてた。だから、会って確かめたかったんだ。君の事」
「同じ……なんだ?」
「うん」
「じゃあ、君は知ってる?」
 穏やかな声に、ほんのわずかに別のものがまじった。

「僕たち、人間じゃないのかな?」

 ――……っ!!
「違うっ!」
 反射的に叫んでいた。
 確かに、こんな翼(もの)、普通じゃない。あるべき人間の姿からかけ離れている。分かってる。思い知っている。それでも。
「ボクたちはオーヴァードだ。でも、オーヴァードだって人間のはずだよ!」
 お願いだから否定しないで。生きる権利を捨てないで。あきらめてしまわないで。ボクは生きたい。
「オーヴァード?」
 きょとんとした声。
 そうか。彼は何も知らない。知らされていない。わけも分からずこんなところに閉じ込められている。なんて不安。
 そう考えたら、頭が冷えた。人とは違う生き物かもしれないと、思ってしまうのは無理もない。それだけのものがボクたちにはある。なら、今できるのは、知る限りの事実を教えること。
「そう、オーヴァード。レネゲイド・ウィルスに侵され、『力』を手にした者の総称」

 ウィルスのこと、発症した力のこと。どれくらい話していただろう。ふいに彼が呟いた。
「誰か、来るみたい……」
 ここにいることがばれたら、何をされるか分からない。ボクも、彼も。
 翼を羽ばたかせて、あたりに光の粒子を放つ。輝きは空気に溶け込み、この空間はボクの一部となる。身体の外にまで神経が張り巡らされる、そんな感覚。
 階段を下りてくる人影を確かに感じた。
「ごめんね。それじゃ、ボク……行かなくちゃ」
「いろいろ教えてくれて、ありがとう。お話できて嬉しかったよ」
 君をおいて、ボクは一人で外へ抜け出す。なのに、やっぱり穏やかに笑うんだね。
「また、会えるかな?」
 だからボクはうなずいた。「絶対に、また会いに来るよ」約束する。そして、できることなら……。
 考えて、彼を見た。時間がない。でもこれだけは。
「ひとつだけ、聞いてもいい? 君は、これからどうしたい?」
 その問いは思いがけないものらしかった。一瞬、言葉に詰まったように、目を見開く。そして、発せられた言葉は、いつも胸の中にあったのと同じ思いで。
「わかった」
 今は立ち去ることしかできなくて、唇をかむ。だけど誓う。このままにはさせない。
「必ず、助けるから」
 微笑んで、ボクは翼を羽ばたかせた。光がまといついて、視界をせばめる。ドアノブをまわす音が聞こえた瞬間、ボクの身体は研究所の入り口へと移動した。
 誰にも見られていないことを確認して、何事もなかった振りで歩き出す。胸の中は、繰り返される言葉でいっぱいだったけど。

『ただ、普通の生活がしたいだけなのに、ね』
 とてもささやかな、それでいてとても遠い願い。


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