真冬の人魚姫

[Climax 1/Player 歌片遥/200X.01.20]

 世界は白と黒に塗り替えられたまま――そこにはただ、ゴミのような灰色の雪だけが音もなく降り、地面に落ちすぐにとかされて、消える。
 儚い、あまりにも儚い、一瞬で費えてしまうだけの。
 はじめからなかったのだ、といわれても仕方のない程の希薄な存在は、それでも、繰り返し繰り返し天から落ちれば、白い形として残せるのだろうか。
 誰かを飲み込んでしまえるほどの、白い塊として。

 世界は白と黒に塗り替えられたまま――

 僕はこの世界で絶対に消したくない人を腕の中に、もうひとりの自分と対峙する。
 絶対に、絶対に。あなたを幸せにすることができる人を、その傍らに残してあげるから。
 約束、するから……。

 黒い服の男の背後から、漆黒のドレスの群れがじっとこちらを見ている。無数のえび茶色の瞳は銀縁眼鏡で覆われて、ふっくらと厚めの唇は深紅のルージュ。
 彼女たちの能力は詳しくは判らないが、全てが出来そこない(バッド・コピー)という、うまい話などあるわけなかろう。それは僕の中で、一定の能力者と相対した際に生じるウイルスのうねりが証明していた。
「あらあら……遥歌、失敗しちゃったわねぇ」
 そんな無数の同じ顔の女の中から声があがる。1人歩み出た女が、オリジナルの肩を抱くと妖艶な笑みを浮かべ、こちらを見た。
「妹さんに複製体を殺させる、なんて凝ったことしようとするからよ」
「叶歌自身に、余計なものを断ち切らせようと思ってね」
 肩を抱かれたままでそう返事をするオリジナルは、かなり不機嫌な様子でこちらを睨みつけてきた。
「あなたは“ファナティック・アルケミスト”……やっぱり生きていたんですのね」
 腕の中の叶歌さんはさほど驚かずに、鋭く尖らせた視線で射抜く、女の名を呼ぶ。
 僕が彼女に会うのは初めてだった。先日の入生田事件で、複製体の技術を受け取っていたという記録はあったけれど、その時期は曖昧であまり気にもとめていなかった。どうやら、叶歌さんが倒した方はそれこそ複製体だったらしい。
「お久しぶりね、叶歌ちゃん」
 そう懐かしげに答える声。
 長い髪を肩のところで斜めに束ね、銀縁の眼鏡をかけた女……文字で表せば真面目そうな印象を与えるが、婉然と浮かべられた笑みと豊満な胸元は、それとは正反対の印象を周囲に振りまく。
「あの時わたしが倒したのは、あなたの複製体だったんですのね……そして今度はわたしのお兄様を……許しませんわ」
 僕の腕をつかむ強さから、叶歌さんの怒りは相当のものだとわかる。一歩も引かない、そんな気迫で彼女は目の前の女を睨み据えた。
「ハ・ズ・レ。あなたが倒したのはオリジナル、そしてあたしは複製体よ。けれど、あなたのことは憶えているわ、叶歌ちゃん」
 非難の瞳には一向に構わずに、女は異なことを答える。一瞬、叶歌さんが、え? と戸惑うが、すぐにまた表情を引き締める。
「それはどういうことですの?」
「あたしにはオリジナルと同じ記憶がつまっているの」
 胸に手を当てると女は得意げに笑う。
「オリジナルは、万が一自分が倒された際に、自分の人格を全て移し替えて、また生き直すことを望み、その器としてあたしを創っていたの……けれど間に合わなくてねぇ。仕方ないから、あたしが彼女の望みを叶えてあげることにしたのよ」
 肩から手を離し、女は両手を広げると同じ顔を背景に、くるくると舞台で一回転をした、髪と黒いロングドレスがふわりと円を描く。
「この子達は、あたしが創ったのよ。死んでしまったオリジナルの細胞からね、培養して精製して……どうしてそんなこと、したんだと思う?」
「………………」
 答えを思いつけず黙り込んだ叶歌さんに代わり、僕は静かに答えた。
「複製体が僅かに持つという記憶を、吸い出したんですね――エグザイルの能力“異能の指先”で」
 思い当たったことをすぐにぶつけてみる。
“異能の指先”エグザイルシンドロームの能力で、相手の神経系に侵入をして記憶を読み取るものだ。
「さすがねぇ、遥歌の複製体くん。UGNで研究者をやっているだけあるわね」
 彼女は生徒を慈しむ女教師のように目を細めて、僕を誉めた。そんなことをされても有難くもなんともないが。
「あたし、あなたには興味があるのよ? 殺すのが惜しいぐらいにね」
 けれど傍らの僕のオリジナルに睨まれて、彼女はやれやれと肩をすくめる。
「“人格とは蓄積された経験によって作られる”……あなた、入生田にそう言ったんですってね? あたしもその通りだと思うわ。同じ考え方、してる」
 高々、4日前の話がもう伝わっているのか。入生田さんもおしゃべりなことだ。それともとれだけ印象に残ったのだろうか? 僕のことが。
「だからねぇオリジナルの記憶を多数持つあたしは、すなわち複製体でありながら、オリジナルの人格を有しているのよ。その感情、思考パターン、意志、欲望、思い……全て引き継ぎ、ここにあるわ。だからオリジナルは死んでない、そして――
 束ねていた髪をおろすと、彼女の存在は同じ顔の中から印象を変え、唯一浮き立つものとなる。1歩、2歩とこちらへ踏み出し、憐れみを浮かべる。
「だからね遥歌の複製体くん、あなたは“久遠寺遥歌”じゃないのよ」
「そんなことは、判っていますよ」
 寸分も心を揺らさずに、返す。
 僕は僕でしかない――多分、8年前に創られて、その後研究所に出入りして、歌片遥という名を与えられて……半年前に叶歌さんに出会った、それが僕。
 哀しみも憂いもなく、それを受け入れることが出来るのは、叶歌さんのお陰だ。
「記憶が何もない空っぽなあなたは、誰であることもない。それは存在していないこととも同義ね。だからほら、精神的に常に不安定で、自分が消えそうだと思っているでしょ?」
「違いますわ。勝手なことを仰らないでく……」
 腕の中の反駁、この人は弱い僕の代わりにいつでも庇ってくれる。そっとそれを押し留めると、彼女の激しさとは対照に穏やかに返答した。
「そうですね……少し前まではそうでしたよ。けれどもう、違いますから」
 一歩先の未来はわからなくても――今は確実にここにいる。
 そしてこれから、自分が出来る精一杯を果たそうと思っている。そうすればあとに残ることは……できるはずだから。

 例え消えてしまったとしても、思い出してもらえることも、あるはずだから。

「僕はそろそろ茶番に飽きたんだけど……ファナティック・アルケミスト」
「気が短いのね、遥歌は」
 低く呟くオリジナルにしなだれかかると、ファナティック・アルケミストは、流し目でこちらを見る。
 す。
 そんな僅かな音もたてず、4体の女が群れから足を踏み出した。なるほど、彼女たちがお相手に足るレベルの出来、ということか。2対6……圧倒的に、不利だ。
「叶歌さん」
 目を閉じて、静かに、そう呼びかける。
 黒いセーターの僕のオリジナルは、妖艶なる毒の女と共に銃を握り締め、叶歌さんと僕の前に立ちはだかる。
 ……捕らわれている心。多分、彼には彼なりの辛いことがあり、今の場所に立っている。けれどそこは、悲劇を奏でるしかない方向を向いている。
 叶歌さんも、オリジナル(あなた)も、そんなことは望んでいないはずでしょう?
「お兄様?」
 そして。
 僕の腕の中には叶歌さんがいる。ここが本来は目の前のオリジナルの立ち位置。
 オリジナルは僕を認めては、いない。きっと、戻ってきたとしても。叶歌さんはここにいていい、と言ってくれたけれど……それは難しいこと。みんなあなたのような人ならば、いいのだけれど……と、一瞬だけ苦笑を浮かべ、すぐにまた唇を平坦に戻す。
「叶歌さんは、FHになんか、行きたくないですよね?」
 ……わかりきった返答を得るための、問い掛け。
「もちろんですわ」
 ……それを決心の引き金にして。
「わかりました……叶歌さん」
 望むのは――叶歌(あなた)の幸せ、叶歌(あなた)が笑っていること、叶歌(あなた)が……生き延びること。
「これから、あなたのお兄様を取り戻してあげるから……ね?」
 この戦いで僕が消えてしまっても、もしくは生き残ってオリジナルが戻ってきて、そして僕が姿を消しても――本当にたまにでいいから、僕のことも思い出して欲しい。
 一緒に歌を歌ったこと、紅茶を飲んだこと、同じクラスで授業を受けたこと、お弁当を食べたこと……ああ、そういえば、今目の前にいる“ファナティック・アルケミスト”がらみの事件で、研究所帰りに“レッド・ソード”とかいう派手な金髪頭の頭の悪そうなやつに襲われたこともあったな……その時は叶歌さんがそいつの剣をグレムリン爆弾で落とし2人で逃げたんですよねぇ、あの時のやつの顔といったら……。
 色々、本当に色々あったんですね、たったの半年間で。
「おにい……様?」
 叶歌さんの表情が不安げに翳る。おっとりしているように見えて、物事の本質を見抜いてくる。僕のコートの裾をつかみ、じっと見上げてくる瞳は水を帯び潤んで……。
「ええと……」
 困ったな、そんな顔をさせたいんじゃなくて……なにか、いい言い方は、ないだろうか……ああ、そうだ。
「……人魚姫」
 今朝夢で見た、お話を読んで泣いている自分の姿。悲しい人魚姫のお話……けど違った、あれは、そう……。
「叶歌、あのね人魚姫は、不幸なんかじゃなかったよ」
 王子様に生きて欲しかったから、彼女は声を張り上げた。たとえ王子の中に残ることが出来なかったとしても、きっとそこに後悔なんてない。ましてや僕は人魚姫よりも幸せだ。

 ――叶歌は遥歌を憶えていてくれた。この世でただ1人、生きているのだとその存在を信じていてくれた。

 普通なら諦めてしまうのに、忘却という籠に押し込めてしまった方が遥かに楽だというのに。
「だから大丈夫。僕は幸せだから……」
“ありがとう”
 もう音を出さずに、だけど唇ははっきりと動かしたあとで、僕は最上級の笑顔で笑って見せた。この表情を憶えていて“どうかあなたの歩く先に幸せを”そう願うこの笑顔を。
 そして――体内のレネゲイト・ウイルスと取引を始める。
 力を、下さい。
 このままだと、うち払うことが出来ないから。

 ――約束が守れないから。

「……ジェネシフト」


[BACK] [LIBRARY] [NEXT]