真冬の人魚姫

[Scene 8/Player歌片遥/200X.01.20]

…………
 人魚姫――
 人魚姫は足を作って王子様に会うために、海の中の魔女と取引をした。
“お前の美しい声を寄越せ、さすれば白い2本の足を与えてやろう”
 なにも知らない王子様は隣の国のお姫様と婚約し、結局は恋が叶わない人魚姫。それでも、人魚姫は燃え盛る王宮の中に取り残された王子を助けるため、声を張り上げ助けを呼ぶ――それが、自らの消滅につながるのだとしても。
 なんて理不尽な話だろう、大切なものを失ってまで愛する人のそばに行き、そこでも報われぬ人魚姫。しかもその想いを王子に伝える事も無く、ただ影で王子を助け自らは海の泡と化した。
 きっと王子はほんの僅かだけそばにいた、しゃべれぬ少女のことなど忘れてしまうのだ。美しい隣国の姫を娶り、楽しい生活の中で。
 涙が止まらなかった。
 どうにかして救ってあげたいと思うのに、絵本の外からではどうすることも出来ない。
 僕はただ、切なくてやるせなくて――泣き続ける、だけの。
 そんな夢を、見た。
…………

♪ lalala〜la rilalarialal ........
 目覚めはチープな16和音の音源……ああ、これは叶歌さんの呼び出し音だ。
 がさがさと枕のそばに手を伸ばし、その音の元を探し回る。冷たい鉄の感触を探り当て、布団の中にひっぱりこむと耳に当てた。
「はい――
 壁時計を見れば午前11時前。学校からだとしたら中途半端な時間の電話だ。何かあったのだろうかと、不安がよぎる。
「歌片遥……“ブラッディ・メディスン”かい?」
 携帯電話が拾うのは、叶歌さんの聞きよい声ではなかったが、やたらと聞き慣れた声でもあった。不安な予感ほど的中するものだ……勢い良く布団を跳ね除け飛び起きる。
「あなたは“久遠寺遥歌”さん、ですね」
 自分の名前を呼びかけるのもおかしな話だが、そうとしか呼びようがない。問題はどうして彼が叶歌さんの携帯電話でかけてきているか、だ。
「キミに最後のチャンスをあげるよ。武蔵蓮沼東公園で、待ってるから」
 ぷつ。
 言いたいことだけを並べ立てて、電話は向こうから切れた。
 力なく携帯電話をたたんだ、そしてため息と共に身に付けていた寝巻きがわりのシャツを投げ捨てる。
 叶歌さんは現在オリジナルの手の内にいて、そして彼はFHに関係している可能性が高く、僕に悪感情を持っていることも明白だ。
 ……どう考えても罠なのだろうと思う。
 それでも行かないという選択肢はこちらにはない。叶歌さんをFHに連れて行かせるわけにいかないからだ。ただし……取り返すという意識でもないのだけれど。
 幸いなことに、風邪独特の喉の痛みや咳、発熱はなりを潜めていた。体に感じるのは空腹と渇き……汗を結構かいていたからか。
 チェストから適当に引っ張り出した服を身につけると、ジャケットと厚手のコートを腕にかけ、僕は階下へと降りた。
「瀬能さん、タクシーを呼んで貰えますか?」
 昼飯の準備に取り掛かっていた老紳士に、僕は後ろから声をかける。
 武蔵蓮沼東公園は、車ならば電車ほど大回りしなくて済むので、幾分か早く着くはずだ。
「かしこまりました、遥歌様」
 目的を問わず、まずは先に僕の用件を済ませてから、彼はテーブルの上に軽い食事を並べだしてくれる。
「お加減はよろしいので?」
「はい、すっかり。ご迷惑をおかけしました」
 行儀が悪いと知りつつも、並べるそばからスープを口に運ぶ。寝汗をかいた影響か、喉がカラカラなのだ。
「それはよろしゅうございました。お帰りは何時頃のお時間ですか?」
 焼いてくれたパンはふんわりとした感触で、しみじみ美味しい。がっつく僕の食欲に満足したのか、瀬能さんは目を細めた。
「時間は少し不確定で……わかれば連絡をします」
「かしこまりました」
 しばし目の前の食事を片付けることに没頭する。行った先でどんな事態に巻き込まれるかわからない以上、とりあえずちゃんと食べておきたい。
 食後、歯を磨いていたらタクシーが到着したとの弁。顔を洗いさっぱりさせたら、いよいよここを出る。もう戻らない可能性もある、半年過ごした久遠寺家――居心地は、多分今まで生きてきた中で、一番良かった。
 だから。
 いつも通り、見守るように玄関先まで見送ってくれる瀬能さんに、僕は笑顔を向ける。
「行ってきます」
「行ってらっしゃいませ、遥歌様」
 会釈、笑み。毎日繰り返された心地よい、習慣。
「帰りは妹と一緒に戻ります」
 それが、どの“久遠寺遥歌”かはわからないけれど、必ず“久遠寺叶歌”の笑顔と共に、ここに戻れるように。
 ――約束、します。
「お待ち申し上げております。遥歌様」
「それでは」
 財布の中身を確認して、僕は久遠寺家の玄関を出る。そして目の前に止まっていた黒のタクシーに乗り込み、行き先を告げた。

 折からの曇り空はやがて、冷たい粉を天から生み出した。
 雪。
 去年までは当たり前の存在だったから、懐かしいなぁと思う。
 反面、ちらちらと頼りなく降りだす雪は、背景の大気のせいかくすんだ灰色で、綺麗ではない。まるでゴミくず。これだといくら降り積もっても、地面は白くならないのかもしれない。
 白で埋め尽くされた地面は、そこに立っているとなにもかも飲み込まれてしまうようで、希薄な自分しか自覚できなかった僕は……消されてしまいそうで、怖かった。
 それでも今は違う。
 あなたが“定義”してくれたから。
 消えないで欲しいと、望んでくれたから。
 だから――

 ずっと聞けていなかった留守電は、みんな僕を気遣い心配する叶歌さんの声だった。拒絶してしまったこと謝っていなかったな……そんな機会、まだあるんだろうか。心残りになってしまうかもしれない、と胸が少し疼く。
 40分弱の乗車で、車は武蔵蓮沼東公園に辿りついた。お金を払って降りると東北時代からの持ち物だった白のコートを翻し、公園の入り口に立つ。ここは結構広い敷地のはずだから、探すのは大変そうだ。
 ――探す必要はなかった。
 一歩、公園内に踏み入れたとたん、辺りの景色がモノトーンに染まり、少ないけれども遊びにきている人々が、彫刻のように微動だにせず僕を出迎えてくれる。
 ワーディング、か。
「………………」
 体内のレネゲイト・ウイルスが、ぷちぷちと粟立つように自己主張をはじめる。昨日会った時には感じなかった、高揚。
血の渇きの衝動は腕を押さえつけることでこらえ、それでも足を止めない――目の前に立ちつくす、僕と同じ顔をした黒いセーターの男の元へ、着実に着実に歩み寄る。
「……早かったね」
 まったく同じ音でしゃべる、僕のオリジナル。傍らには、紺色のセーラー服にダッフルコートを重ね着した叶歌さんが、無言で佇んでいる。
「叶歌さん」
 同じ音で、僕は傍らの少女に呼びかけた。
「叶歌はもう帰らないよ。僕と一緒がいいんだって」
 彼は乱暴とも言える勢いで叶歌さんを横から抱き寄せる。クリーム色のコートの端を翻して、少女は流れに身を任せるように彼の腕の中に、堕ちた。
「お兄様……」
 桜色の唇は控えめに三日月を描き、少女はうっとりと微笑む……それが本当の感情から来るのか偽りから来るのか、迷い――まだ、怒ることができない。
「……どこに連れて行かれるのですか? 彼女を」
「お前には関係ないよ」
 抱きしめた叶歌さんに頬を寄せて、サラサラの髪をかみ乱すように撫でる指。その自分勝手さにふつふつとした憎悪が育ち始めている。
「そこは彼女が……叶歌さんが望んだ場所ですか?」
 それでも、彼女は“僕たち”が争うことを望まないはずだから、心を抑えて極力静かな声で問い掛けを続ける。
「もちろんさ。ねぇ、叶歌」
「はい、お兄様」
 うっとりとした表情と淡々とした声の微弱なアンバランス。それが頷く叶歌さんを取り巻くものだ。
「………………彼女になにをした」
 低く、伺うように。睨みつける視線は深いグレーの瞳を持つ僕の方へ。
「お話をしただけさ、彼女が大好きなお兄様として、ね」
 僕の敵意を勝ち誇った笑みで受け流し、彼は首を僅かに傾ける。
 ああ、なんというか……無茶苦茶に腹が立つ。叶歌さんのことはこの際置いておいて、ひとまず目の前のこいつに毒をかけ、殺してやりたくなる、衝動。
 いけないいけない……深呼吸をして、なんとかそれを押し留めた。
「呼ばれた理由はわかってるだろ? まがい物、お前と話すことはこれ以上ないよ。うっとおしいから、そろそろ消えな」
 僕の殺意を感じ取ったのか、彼もまた余裕の笑みから憎しみへと表情を差し替えて、そんな台詞を吐き捨てた。
「叶歌さんが、心からそう望むのならば――僕の存在は、彼女の想いで定義されていますから」
「はん。叶歌の望みぃ? 仕方ないなぁ、叶歌……」
 彼は抱きしめた腕を少女の両肩へと移動すると、耳元ギリギリまで唇を近づけた。
「はっきり言われないと理解できないみたいだよ? 行動で示してあげたら、叶歌」
「はい、お兄様」
 コートの右ポケットに手を入れて、再び差し出されたとき、そのすんなりとした白い指先には鉄の塊……拳銃、スコーピオンが握り締められていた。
 かちゃり、と、冷徹なるは、撃鉄を起す、音。
 不慣れな手つきで構え、定めし標的は、僕。
――っ」
 パウッッ!! パウッッ!!
 躊躇なく引き絞られた引き金は、鉛の塊を僕に向けて吐き出す。
「くっ……」
 一歩身をひき指を上げれば、指先から糸をひく紅い血液に群がるように、突如ネズミの大群が現れる。彼らは盾となり、叶歌さんの放った2発の銃弾を自らの命で、止めた。
 パウッパウッパウッッ!!!
 外れたと知ると、叶歌さんは一歩一歩踏み出しながら、容赦なく僕に向けて引き金を引き続ける。その度に、僕が召喚したネズミたちの命が爆ぜた。
「……叶歌は銃の扱いがヘタなんだね。僕と同じノイマンなのに」
 そんな光景の後方で腕を組み、やつはなにもせずただせせら笑っていた。その間も叶歌さんの銃弾は僕に降り注いでくる。ネズミの群れを召喚する度、僕の血の中でレネゲイト・ウイルスの比重が増していく。叶歌さんが銃の扱いに不慣れなお陰で、なんとか止め続けることはできているが、それとてキリがない。突破法を考えないと。
 後ろで笑うオリジナルを見てみた。彼は今、自分がノイマンだといった。つまりノイマンとソラリスのクロスブリードか。ノイマンに人を操る能力はなかったはずだから、あと考えられるのは……ソラリスの“抗いがたき言葉”あたり、か。
 と、次の行動を考える瞬間――
 ズギューンッ、今までと違う銃声が耳を劈く。
「っ!」
 慌てて目を上げれば、後ろで悠然としていたオリジナルの手にいつのまにか握られた銃から、弾丸がひとつ撃ち出されていた。銃口を傾けて、投げやりな構えから撃ち出されたそれは、だが僕の心臓に向けて確実に迫り来る。
 ……く、ここまでの正確な弾道、僕の能力ではかわし切れない……い。
 ――熱く焦げる衝撃が胸を貫いた。もちろん、致命傷だ。
 胸と唇から生ぬるい液体をふき出して、後ろのめりに地面へと叩きつけられた。
「ほぉら、当たった」
 からん。
 一歩置いて、薬莢が地面に落ちる音が、妙に耳につく。
 ウイルスは死を望まないから、宿主の体を無理やりにでも復帰する――“リザレクト”。
 胸の傷はじくじくとした痛みを伴いながら、それでも新しい皮膚を高速で作成し、恐るべき勢いで再構築をしはじめていた。けれどこれが最後だろう、ウイルスが臨界点を超えた感触が……する。
「こうやって撃つんだよ。叶歌」
 軽い耳障りな声を、耳は拾う。それが自分と同じ声だと知り、余計に頭に来る。だから地面に腕をついて大地に血だまりを作りながらも、なんとか立ち上がろうと試みた。
 ……まだ、死ねない。
「あぁ、リザレクトか。けどフラフラだね、今なら叶歌でも殺せるんじゃないかな?」
 弄ぶような声がしたかと思うと、額に銃口が押しつけられる。はっと見上げれば、そこにいたのは……もちろん叶歌さんだった。
 その瞳には、哀しみも、惑いも、ない。
 あるのは、ただの微笑み。
「叶歌さん……」
 だから僕も静かに穏やかな笑みを浮かべ、彼女を見つめる。
「もし、あなたがここで引き金を絞ることで、幸せになれるのなら、お引きなさい。もう逃げませんから」
「幸せ……は、お兄様と…………」
「そうだよ、叶歌……僕と一緒にいよう、いつまでもいつまでもね」
 ぽつりと呟かれた言葉に覆い被さるように、オリジナルの声が飛ぶ。
「お兄様が……そばに……一緒に、居たいから…………」
 それに誘導されるように、笑顔の叶歌さんが歌うように囁く。
 ああ……。
 こんな時なのに――あなたの声はなんて綺麗なのだろうと、思う。
 そう、なにもなかった僕の中で、あなたはずっと歌っていてくれたね。

 ――それは唯一、僕の思い出の箱の中にあった、宝物。

「それには、そのまがい物は邪魔なんだ」
 僕の声で濁った呪詛は続く。愚かな、その声はそんなくだらないことのためにあるんじゃないというのに。
「……邪魔……あなたは…………」
「だから叶歌――殺せ」
「……」
 そのフレーズにも叶歌さんは笑顔のままだった。けれど、僕にあてられた銃口は僅かだけれど揺れた。
 そのまま、長まわしの映像の如く、そのまま。
「殺せ」
 中々引き金をひかない叶歌さんに痺れを切らしたのか、強い口調での呪詛が飛ぶ。けれど、叶歌さんは動かない。いや、笑顔の唇が――ほんの僅か、動いた。
『…………ぃゃ』
 音さえ作れぬ空気の震えを、それでも確かに僕は感じた。
「わかりました、だったら僕が助けてあげるから」

 ――だからもう、泣かないで。

 僕は額につきつけられたスコーピオンをつかむと、叶歌さんの体ごと引き寄せる。
「え……?」
 虚をつかれて戸惑う彼女の唇の上に、自ら噛み切った唇から零した血を落として、飲ませた。
「……んく……ん……ぁ……にい……さま?」
 こくりと、小さく喉が動いて飲み干された血は……彼女にかかった忌まわしき呪いを解く。指からすり抜けるように銃が地面へと落ちた。
「……なにをした?」
 急速に状況が変わったことに気づいたオリジナルが、怒りの形相でこちらへ駆け寄ると手を伸ばし、叶歌さんの腕をつかんだ。
「あなたの“抗いがたき言葉”は、僕が精製した“中和剤”で解除しました」
 同じ声でこうも違うのかというぐらい淡々と音色で出迎えつつ、相反する勢いでその手は激しく払いのける。
「あなたもオリジナルならば、もっと自信を持って真実の言葉で妹とお話されればいいものを、それとも……」
 片目だけ開けて、より紅を帯びた瞳で……目の前の同じ顔を見下す。
「それだと不都合なことでも、おありですか?」
 ――嘲笑。
「貴様……やっぱり、僕が殺してやるよッ」
 彼が手をあげればどこに潜んでいたのか、多数の同じ顔をした女たちが、藤棚を取り囲むように出現をする。ふうん、複製体か……どなたのものやら。
「できますか? あなたに」
 腕に叶歌さんを抱き寄せたままで、僕もまた背後に左手をかざす。手首がピシリと切れて大量の血液が血に落ち、人の形となった。
 ブラム=ストーカーの能力、従者、召喚。
「お兄様……?」
 腕の中、状況を理解した叶歌さんが、僕とオリジナルを見比べた後で、ぐっと僕のコートにしがみついた。

 ――そして、選択が、始まる。


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