真冬の人魚姫

[Scene 7/Player久遠寺叶歌/200X.01.20]

 火曜日――
 朝起きてすぐお兄様のお部屋をのぞいてみたら、良くお眠りになっていた。額に手をあてると随分と熱は下がっていて、ひとまず安心した。
 その後、昨日依頼しておいた情報のチェックを始める。
 届いた報告でめぼしい点としては……

・FHにて、お兄様と同じ外見のエージェントは、いない。
・“久遠寺遥歌”の複製体作成の事実は、FH、UGNともに見当たらない。
・両親の病院の看護士を買収したのは、未だ不明(FHの末端エージェントの名前は出てきたが、そんな男を直接追ったところで意味はない)

 黒セーターのお兄様の姿は、あいも変わらず見えてこない。
 8年前の事件については、霧谷さんからの情報の裏づけが取れた程度であった。ただ、お兄様関連でひとつ新しい情報が入った。
 8年前の事件の後、1年間以上お兄様の痕跡がぷっつりと途絶えているのだ。
 海難事故の後つけられた、UGチルドレンナンバーは“0620”。そして例の事件から1年以上あと、お兄様は“歌片遥”という名で、UGN東北支部の研究所と、UGNの息がかかっていないようカモフラージュされた小学校への通学していたという記録が見られた。
 情報から考えるとしたら、あの事件で生き残ったお兄様を、FHがやすやすと諦めるわけはないだろう。“賢者の石”が精製できなかったとしても、その後の実験素材としては有効だ……そんなことを考える自分に嫌気が差すが、ここは冷静に考えなくては。
 ――何かがあったとしたら、この隠された1年の間ではないだろうか。
 例えば、お兄様を略取してなんらかの実験を行った。もしくはその際に複製体を作成した。いずれにしてもFHの方に残ってしまったのが、昨日初めてあった方の“お兄様”。UGNに戻ったのが、半年前からわたしのそばにいた“お兄様”
どちらが複製体で、どちらが本体かは、不明。
「……あら、だけど」
 納得しかかり、ふと矛盾に思い当たってしまった。
 黒セーターのお兄様は、仰った。
『8年前に“ブラッディ・メディスン”という自分の複製体が、UGチルドレンを皆殺しにしたんだ』と。そして『自分はその際、スパイとして潜入していたとある組織に助けられた』とも。
 だとすると8年前のあの場に居合わせて生き残り、UGNに保護された方が“ブラッディ・メディスン”――いま隣の部屋でお休みになられているお兄様で、彼はそのままUGNに残り、数年後にわたしと再会した、ということになる。
 つまり黒いセーターのお兄様のお話が全て正しければ、8年前の事件の時点で“久遠寺遥歌”と複製体の“ブラッディ・メディスン”の両方がその場に居合わせたことになる。
 ……けれども、現在手を尽くして調べた中には、あの事件以前に“お兄様の複製体”が作られたという事実は、見当たらない。
 これはいったい、どういうことなのだろう?
 8年前の事件の際、杜王市のUGチルドレンの施設に居合わせたのは、一体、どのお兄様なのだろうか?
 記憶がある以上、黒セーターのお兄様の方が、オリジナルの可能性が極めて高い。だとしたらどうして、黒セーターのお兄様はこのような矛盾することをおっしゃるのか……。
「考えましょう。お兄様の身に立って」
 両手を胸のところで組み合わせて、静かに息を吐き意志を集中してみる。
 8年前の事件、UGチルドレン皆殺し、極限の状態に置かれたお兄様…………。
「……っ」
 ふと、思いつく事柄。ああ、そうなのかもしれない。
 お兄様、黒セーターのお兄様は、過去をわたしに知られたくなくて……全てをもうひとりの“お兄様”に背負わそうとしているのではないだろうか? 極限の場所で、生き残るために犯したであろう――その罪を。もしくは自分と入れ替わりUGNに残った“お兄様”に対する、嫉妬か……。
 だとしたら、気づかせてあげなくては。どんなお兄様であれ、わたしは受け入れる覚悟があるのだということを。過去がどうであれ、いまあなたがお兄様である限り。
 きっと、お兄様はFHという異常な場所で、心を捻じ曲げられて苦しんでいらっしゃる。
 大丈夫、大丈夫です、お兄様。わたしが助けて差し上げますから――どうか、怯えずに、心を開いてくださいませ。
 と。
 目を開けば、パソコンディスプレイのデジタルが、午前7時50分を示していた。そろそろやるべきことを済ませて学校に行く準備を済まさなければ、間に合わない。
 情報屋に再度アクセス。
 現在ファナティック・アルケミストを名乗っている者についてのより詳しいデータと、FHとお兄様についての情報収集も継続依頼する。
 あとは瀬能さんにお兄様のお世話をお願いすれば、お家で出来ることは全て終わり。
 ――学校へ行きましょう。
 家を出てすぐの曲がり角、いつもは神里さんの車を待つ場所だけど、今日は別のお仕事があってこれないらしく、徒歩で曲がる……と。
「叶歌、おはよう」
 目の前には昨日と同じセーターを着た、お兄様が爽やかな笑みでこちらに向けて右手を上げていた。
「おはようございます、お兄様」
 わたしは緩やかに返す。

 今日は学校をお休みすることになるようだ――

 お兄様はタクシーを拾い、とある場所の名前を告げた。車は朝のラッシュということもあり、通常より時間をかけてその場所へと向かい……それでも小一時間ほどで目的地に辿りついた。お兄様は自然にわたしの手を取ると、車からエスコートするようにおろす。
 ここは武蔵蓮沼東公園――
 繁華街から遠く市の外れに位置するその周りには、市立図書館や大学など文化的・学術的な施設が軒を連ねていて、高級住宅もちらほらと見受けられる、閑静な場所だ。
 公園自体も子供たちの遊び場というよりは、市民の憩いの場所という性格が強く打ち出されており、広い敷地の真中には噴水とそれを取り囲む花壇、旬の季節には藤棚の下がるベンチもある。あとは遊戯用具がスペース的に余裕を持って配置されている。
 お天気がよい休日などは結構な人でにぎわうはずだが、今日は平日である上、この冬一番の寒さとどんよりとした雲が連なる天気のせいで、散歩する人もほとんど見かけられない。それはある意味幸いだった。平日の午前9時に推定高校生の男女が連れ立って歩いていれば、十中八九は学校をサボってデートをしていると見られてしまうだろう。しかもわたしは制服姿だ。
 近くの自販機でそれぞれ暖かい缶飲料を買い、藤棚のベンチのところで並んで腰をおろした。お互いにお互いの手をつないだままで、しばらくは無言で買った飲み物に口をつける。
 ――正直、わたしは困惑していた。
 お兄様と会い、しっかりとお話をする決心は固めていた。だが、まさか朝の通学路で待ち伏せにあうとは考えていなかった。お兄様がこんなに性急に動くことは計算外だったのだ。
 それともうひとつ。わたしを取り巻いている、言い知れぬ不安。
 このお兄様を信用しないわけではない、けれどFHに傾倒されているのは事実だ。もし万が一、戦闘ということになった場合、そういった方面に対しての能力を殆ど持たないわたしは、ひとりで切り抜けることは不可能だ。
 UGNを頼るという選択肢はまず一番に外した。そうすることで逆に、こちらのお兄様を危険にさらす可能性が高い。かといって、一緒にお仕事をした瑠璃さんや運転手の神里さんに頼るというにも、不確定要素が多すぎて引っ張り出すには迷惑だ。
 ……あとは、自宅でお休みされているお兄様だけれど……体調を崩されて休まれているところに余計な心労をかけたくないし、なにより黒セーターのお兄様のお考えがわたしの予想通りだとしたら、今はまだ会わせてはいけない。
 結局ここは、わたしひとりでなんとかするしかないのだ――その結論に達した時点で、わたしは腹をくくった。考えていた通りにしっかりとお話をし、お兄様を説得して戻ればいい。その後のFHからお兄様の保護についてなら、UGNの方にお願いすることもできるだろう。
「……ああ、叶歌」
 缶のミルクティがなくなった時点で口火を切ろうと決めていたら、先にお兄様から話し出されてしまった。
「ついて来てくれて嬉しいよ……あいつと一緒じゃなくて、安心した」
 あいつ、とは……もうひとりのお兄様のことを指しているのだろう。その嫌悪を伴った呼び方に、意識せずぴくりと指がひきつった。
「叶歌? どうしたの?」
 お兄様が怪訝そうにこちらを見て、硬くなったわたしの指を溶かすように握り締めてくる。そんなこちらを追う仕草に揺れる心は排除し、自分の感情を冷静に近づると、わたしは口火を切った。
「……お兄様、いくつか確認をしたいことがあります」
「叶歌は、昨日言った昔の事件のこと、調べてみた?」
 声は相変わらず穏やかで甘いけれど質問に質問で返すという、対話の際に強引に主導権を握ろうとするやり方をされて、逆にこちらは落ち着いてきた。ペースを乱さずに、わたしは静かに質問を始める。
「お兄様の望みは、なんですの?」
 まずは一番知りたかったこと。
「これからずっと、叶歌と一緒にいることだよ。2人っきりでね……」
 こつん、
 頭を軽くわたしの肩にぶつけて、お兄様少し悪戯っぽく、笑った。
「それはお父様やお母様とも離れて、ということですの?」
「……しばらくはそうなる、かな。だけどいずれは一緒に暮らせると思うよ。みんなこちらにくれば、ね」
 具体的な主語が見えないけれど該当する単語の見当がついて、わたしは痛ましさで思わず吐息を漏らした。けれど質問は続けていく。
「お兄様が今いらっしゃるのは、FHですの?」
「調べたらそんな結果がでてきたの?」
 また質問で返されて、それにはかぶりをふった。視線を下に落として、力なく答える。
「いいえ、あなたについてはなにも……なにも出てきませんでしたわ」
 本当になにも、まるで本当は存在しない幻のように、なにも。お兄様は今確実にわたしのそばにいるのに。
 今家にいるお兄様も、目の前のお兄様も……どうして、儚くも消えそうな軌跡を描くのだろう。捕まえるこちらの身にもなって欲しい。
「へぇ、FHもうまく隠すもんだ」
 お兄様はいともあっさりと自分の所属を認めた。さもおかしげに笑うその笑声に、彼の闇が見える、それを打ち払うように毅然とした態度でわたしは唇を開く。
 ――助けてあげる、そう決心してわたしはここに、来た、だから。
「お兄様、お兄様は…………」
「それでさ、叶歌」
 けれど、やんわりとした話調で遮られてしまった。主導権を握り返そうとして、すぐに堪える。ここはお兄様の話を聞いてみよう……問い掛けたいことの内容は、予想がつくけれど。
「8年前の事件は、ちゃんと調べたの?」
 予想通り、やはりお兄様はあの事件に異様に執着をしている。どうしても話をそこに持っていきたい様子だ。
「調べました、無残に殺された20人のチルドレンと、1人のFHエージェント……その中で唯一生存されていたのが……」
 顔をあげて、わたしは黒いセーターを身に纏ったお兄様を真っ直ぐに見据えて、言った。
「当時9歳の“お兄様”ですね」
 わたしの視線に対して、お兄様はきょとんっとする。ぱちぱちと瞬きをした後で、さらりと訂正した。
「複製体“ブラッディ・メディスン”歌片遥、だよ」
「……いいえ、違います」
 しばし考えた後で、わたしは静かに否定をした。
「お兄様の複製体が作られた事実は、あの事件の前にはありませんでした。だから、あの事件の当事者は、お兄様――あなたです」
「…………………………」
 指摘をされて彼は黙りこくってしまった、けれど首を傾げた仕草は、相変わらず他人事と受け止めている様子だ、うろたえた色がない。
 なるほど、やはり記憶処理を受けたのはこの人なのだ、とわたしはわたしで納得へと辿りついた。それでもきっと無意識に、もうひとりのお兄様に消された記憶の中にある罪を背負わすことで、完全に逃れようとしているのだ。
「お兄様は、その事件についてのみ記憶が消えておいでなのです。だから無理に思い出すように、とは言いません。けれども…………」
 下を向いて、どんな言葉を選ぼうかと、少し考える。けど、あえて言葉は選ばずに、わたしは続きを紡ぎだした。
「あの事件の原因はFHです。FHがUGチルドレンの施設をのっとり、殺し合いをさせたのです。だからお兄様……」
 両手を両手で包むように握り締めてお兄様の体を引き寄せる。間近に濃い灰色の瞳を見据えて、わたしは彼に訴えた。
「わたしの元に帰ってきてください。お兄様の身の安全は、わたしが全力で……命に代えても保証します」
「きみの、元に?」
 ……ふあっ。
 灰色の空を風が大気を混ぜるように吹き抜ける。お兄様の長めの前髪とわたしの背中の髪とリボンをさらい、僅かな間、体から浮かせた。背景では、藤棚の葉がさわさわと耳に心地よい音を奏でる。
「はい、お兄様」
 とびっきりの笑顔で、わたしは微笑んでみた。
「……きみは、あいつを“ブラッディ・メディスン”を捨てないの?」
 心底意外という顔で、わたしを見る。
「はい。これからは、あなたとあの方とわたしで、3人兄妹です。3人であの歌を歌いましょう。あちらのお兄様も、あの歌だけは憶えておいでなんですよ」
 ――10年前、沈んでしまった船の上でお披露目するはずだった、お父様がわたしたち兄妹のために作ってくれた、歌。半年前、学校の裏庭で1人その歌を歌っていたあの人を、わたしは見つけたのだ。
「う……た? ああ、歌、ね」
 お兄様の声がほんの少し声が上ずったのを、わたしは見逃すことが出来なかった。一瞬だったけれど、ふらふらと彷徨った視線は――自信のなさを表しているようにも取れる。
 とたん、胸の中に不信感が急速に育つ。だから表面上は笑みを浮かべながら、わたしは試してみることにした。
「はい、歌です。お兄様……一緒に、歌ってくださいませ」
「あ、ああ」
 ……あの歌は、お兄様が先に歌い、わたしが追いかける形のもの。わたしは瞳を閉じて、お兄様の歌声を待つ。
――それは、後でいくらでも歌ってあげるよ。それより……叶歌」
 歌は歌われず、お兄様は話を変えようとする。もしかしてこのお兄様は歌えないのだろうか? だとしたら何故、この人から生じたあちらのお兄様は――歌えるのだろう?
 ひっかかり。
 解決したくて問い掛けを作ろうとしたが、向こうの強い調子に押し切られた。
「本当にあいつから離れないの? 複製体なのに? 記憶がないまがい物だよ?」
 痛いぐらいに肩をつかまれて揺すられて、思わず顔をしかめる。それがますます、このお兄様に対しての不信感を育てた。
 反面。
“記憶がないから、複製体だから、そばにいてはいけない”と、同じところで躓かれるのは、やはり同じ魂から生じた存在だからなのだろうかと、そんな考えも頭に浮かぶ。
 目の前の人こそは、もしかしたらオリジナルではなくて複製体なのではないだろうか。本当はそのことに気がついていて、こんなに焦っておられるのでは? だとしたら、彼が複数の記憶を持っていることについて、まだ理由は見つけられないけれど。
「そんなことは関係ありませんわ、あの方はわたしの大切な“お兄様”です」
 惑いを表に出しはせず、また相手の強い調子につられずに、わたしはあくまで冷静に言い切った。
「酷いことを言うんだね、叶歌は……」
 強い落胆をその顔に刻み、彼はわたしから目をそむけた。いつもそばにいる表情がフラット気味のお兄様と違い、彼は本当に喜怒哀楽が豊かだ。だからわたしはそれを宥めるように、逃れた瞳を捕まえてそっと肩に手をおく。
「そしてあなたも、わたしの大切な“お兄様”です」
 複製体であろうと関係ない、それはあなたにも跳ね返る言葉なのかもしれませんよ。だから怯えないで、どうか――あなたも、わたしの元に還ってきてください。

“お兄様”

「そっか……」
 長い長い沈黙の中、口火をきったのはお兄様だった。
「叶歌は、いつからそんなに聞き分けが悪くなったんだろうね。やっぱり、あんなやつと半年も一緒にいたせいかな?」
「え?」
 甘い笑みを含んだその声は、その色とは裏腹に冷たく妖しく忍び寄る、まるで死神の手のように感じた。
 寒い……ああ、確か昨日お会いした時も、こんな薄ら寒さを感じた記憶がある。たしかもうひとりのお兄様に会わせたいと言った時だ。
 ……違う。
 この寒さは、冷たさは……もっと深くて。これは――そう、この、恐怖は……。
 幼い頃に投げ出された、冬の海の、紺黒。
「お……おにい…………さま…………」
 どうしてあなたが、そんな恐怖を身に纏うのですか?
 握り締めてくる指を恐怖の余り振り解こうとした、けれど、お兄様は離して下さらない。甘い笑みは昏らき場所に誘うものに入れ替わり、彼はものすごい力でわたしを抱き寄せた。
「きゃっ」
 思わず悲鳴をもらしてしまった。がっちりと抱きしめられているのを、騒いで引き離したいという衝動に駆られるが……それも……………。
「叶歌」
 ――わたしの名を呼ぶその声で不自然なぐらい減少していき、限りなくゼロに近づいていく。自分でも把握できない感情の動きに戸惑いながらも、それすらも押し寄せる“安心感”という字面だけなら優しいものに塗りつぶされて――
「叶歌は、いい子だもの。僕の望んでいることは、わかっているよねぇ」
 その呪文で、完全に塗り変わる。
「はい、お兄様」
 そしてわたしに、幸せが満ちる。
 最後に、本当に最後に、かろうじて知覚できたのは……黒いセーターのお兄様からじわじわと立ち上る、白い霧だった。
けれどそれももう……憶えて、いない。


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