真冬の人魚姫

[Scene 6/Player久遠寺叶歌、歌片遥/200X.01.19]

 午後の紅茶の後、お兄様とわたしは真っ直ぐ自宅に戻った。風邪が悪化してしまったら大変だから。
 自宅では、瀬能さんが約束通りボルシチを作って待っていてくれた。2人して交代でお風呂に入れば、もう時間は夜の7時、すぐに食事をとることにした。
 久しぶりにお兄様と2人でついた食卓は、一口一口が何倍も美味しく感じられた。いつも通りお兄様からはあまりお話をされないけれど、こちらの話すことに終始穏やかに返してくれたから。
 食事をすませたら夜8時をまわってしまった。わたしはお兄様のお部屋にお邪魔し、今後の行動指針を立てることにする。
「お兄様、食後のお薬はお飲みになりまして?」
「飲みましたよ」
 けほけほと、たまに咳をしながらもお兄様はテーブルの上の薬箱を指差した。瑠璃さんに頂いたやつだ、後でお礼のメールを出しておこう。
「お体は大丈夫ですの?」
 起きていると言い張ったところをひとまず寝かしつけて、布団を肩まで引き上げる。少し顔が赤い、お風呂を勧めたのは失敗だったかもしれない。
「お話になりたいのでしょう? 叶歌さんは」
「叶歌……さんぅ?」
 他人行儀なその呼び方は相変わらずで、わたしの癇に障ってくる。先程の喫茶店では色々とあったので、とりあえず知らない振りをしていたが、ここは自宅だ。
「ええ、叶歌さん」
 しれっと返されて、わたしは腰の辺りで無意識に右手を握り締める。
 相手は病人相手は病人………心で繰り返しなんとか抑えようとするが、無理のようだ。
「お兄様、何度も何度も何度〜も言うようですが、わたしはあなたの妹ですのよ」
 それでも殴りつける前に猶予の一言を。ただそれに対するのは、いつもの肩をすくめる仕草と投げやりな苦笑いで返る、“記憶がない以上、云々”というものではなかった。
「……呼び捨ては、オリジナルの“お兄様”に呼んでもらえばよろしい」
 身を起こしてルビーのように紅い瞳を細めて浮かべるのは、穏やかな笑み。
「人にはそれぞれ“立ち位置”と言うものがあるのですよ、叶歌さん」
 そこには哀しみも自分を卑下する色もなく、ただあるのは静かな安寧で……思わず否定するのを躊躇ってしまった。
「お兄様、複製体とかそういうのは関係ないですわ。たとえオリジナルのお兄様が戻られようとも、お兄様はお兄様です。戸籍を2人分に増やして、それから…………」
 それでもわたしは自分の想いを伝えようと試みる。やはり壁は立てて欲しくないから。
「判っていますよ、あなたは嘘をつく人じゃない。夕方に言ってくれた言葉のまま、受け止めてます。だからもうあなたからは逃げません」
 ベッドの背にもたれて、真っ直ぐにわたしを見るともう一度唇を開いた。
「けれど僕は僕として“叶歌さん”と呼びたいのです。この位置から――
 ため息をつくと仕方なく拳をほどいた。納得なんかいかないけれど、相手は病人……今日は大目に見ようという気になった。怒ろうにも、あまりに穏やかで、幸せそうな顔をしているのだもの、お兄様が。
「ではお兄様……」
 肩に手を添えて、もう一度寝かしつけながら、わたしはお兄様にお願いをする。
「もしお兄様がオリジナルだったとしたら、呼び捨てで呼んでくださいますわよね?」
「……………そうですね、考えておきましょうか」
 氷枕に頭を乗せたお兄様から返って来たのは、ふっと息を吐くような笑みと、そんな言葉だった。
「約束ですわ、お兄様」
 にっと唇を上げたスマイルで押し切ると、わたしは話をすすめることにした。お兄様の体調を鑑みて、早めに切り上げないといけないからだ。
 口を開こうとしたら、こんこん、とノックの音がした。
「はい」
 と、2人同時に返事をしてしまう。
「遥歌様、叶歌様、お飲み物をお持ちいたしました」
 瀬能さんだ。お兄様の代わりにドアを開けると、お盆に2つのマグカップを載せた瀬能さんが立っていたので、御礼を言って受け取る。
「失礼いたします。遥歌様、今日は早くお休みくださいませ」
 仕立ての良い紳士服のように上品な仕草で会釈をすると、瀬能さんは下がっていった。
 お兄様も再び身を起こして、マグカップを受け取る。
「……スパイスが、特にしょうがが効いてますね、それと甘い」
 先に口をつけたお兄様が囲むように手をしたマグカップをゆすり、感想を言う。わたしも口をつけて、すぐにこれがなんなのかわかった。
「お兄様、これはチャイ……煮込みミルクティですわね。体があったまりますわよ」
 ふんだんにスパイスを使って黒糖を効かせたチャイは、わたしが風邪をひくと必ず瀬能さんが作ってくれるオリジナルレシピだ。
「ああ、これが……もしかしたら、ミルクティより好きかもしれません、僕は……この甘さが、いい」
「まぁ、お兄様は甘党でしたのね」
「そう言うわけではありませんが……ミルク系は甘い方が好きなんですよ」
 簡素な部屋の中に、甘い湯気が温もりを沿えている錯覚に陥る。
 お兄様のお部屋は、ブルーのカーテンに黒のベッドと黒の勉強机と、あとは小さな本棚とチェストしかない。シンプルと言えば聞こえがいいが、必要最小限しか置かれていないお部屋でかなり寂しい。例えば大きな犬のぬいぐるみとかでも置けば、すこしは賑やかでいいかもしれない。元気になられたら一緒にお買い物に行こう……そんなことを考えながら、わたしは予定通りに話をはじめる事にした。
「まずは、今日お会いした黒いセーターのお兄様についてですけれど、お兄様は全てお話をお聞きになってますわよね」
「ええ、聞いていましたよ」
「お兄様はどう思われますか?」
 何処から話していいのか一瞬の逡巡の後、先にお兄様の意見をお伺いすることにした。
「そうですね……」
 穏やかな笑みが、複雑な感情を内包していつものフラットな表情に変わる。それは見ていてあまり嬉しいものではないけれど、聞かなくてはいけないことでもあるから。
「正直、情報が不確実で少なすぎて、なんとも……彼曰くの、僕が“狂気を孕んだ・ブラッディ・メディスン”であるというのも、こう言ってはなんですが思い当たる節がないのですよ。まぁ、ただ作られた直後のお話だったようですし、僕の記憶も、消されている可能性が高いでしょうがね」
「そうですか」
 ――彼にはUGチルドレン時代に一度、記憶処理が施されています。
 昼間の支部長の声が頭に響く。彼女の話が本当であれば、お兄様が何らかの形で事件に関わり、結果、記憶を消されたというわけで……UGチルドレン時代という点でも、時期的にはあっている。
「ただ、わたしは思うのです。お兄様……お調べしてみなくては判らないのですが、果たしてそのような暴走を起こした存在を、UGNが手元に残すのでしょうか?」
 記憶処理の事実は伏せて、とりあえずこうとだけ言ってみた。
「冷静に考えて、僕のような取り立てて珍しい能力もない複製体を、残すわけがない、ということですよね」
 マグカップを揺らしながら、そう答えるお兄様は冷静であった。言葉が選べなくて気を悪くされないか不安だったのだけれど……良かった、こちらの言わんとしている意味だけをちゃんととってくれた。
「……はい。不躾に言ってしまえば、そうなりますわ」
「複製体として珍しいところ、といえば、そうですねぇ……」
 2人でチャイをすする。ああ、本当に温まる。
「通常、複製体はオリジナルより1つだけエフェクトを引き継ぎます。つまり、個体によっては第3のシンドロームエフェクトが発現するわけです」
「普通ですと、1つないしは2つですわよね」
 ちなみにわたしはノイマンとオルクスのシンドロームを有している。
「そうですね。複製体自身が純血種(ピュア)であれば2つ目、雑種(クロス・ブリード)であれば3つ目……となります。僕はブラムとソラリスの雑種ですが……未だ3つ目のシンドロームエフェクトが発現していませんね」
「“複製体”は出来てすぐに、オリジナルから引き継いだシンドロームエフェクトが、使えるものですの?」
「僕が知る限りでは」
 長年、レネゲイトの研究に携わってこられたお兄様の言うことだ、かなり信憑性があると判断しよう。だとしたら、つまりそれは…………
「お兄様が複製体ではない、ということでは?」
「……出来そこない、よく言えば例外的なサンプル」
 明るい気持ちを一気に突き落とすようなことを言われ、わたしは再び拳を握り締めた。
「お兄様ぁ〜?」
「あぁ、だからこそ残された可能性もある……のかな?」
 そんなこちらの気も知らず、研究者の顔をしてお兄様はひとりうんうんと頷いている。
「それにしてはリスクが大きすぎるけれど……まぁ、どんな暴走をしたにもよるか、制御可能なものならば……」
「お・に・い・さ・ま・?」
 アクセントを聞かせてそう呼んでみても、お兄様は帰ってこない。
 ――ごすっ。
 間。
「お兄様はお風邪をお召しなのですから、ちゃあんと横になられた方がよろしいですわ」
 ぱんぱんぱんぱん。
 両手を合わせて払ったあとで、わたしはにこやかに転がったマグカップを拾い上げた。もちろんお兄様が既に飲み干されていたのは確認済みだ。
「病人相手になんてことを……」
 ふとんのなかでブツブツとぼやくのは、左の頬だけを赤くしたお兄様。そんなすぐ傍ら、ベッドに腰掛けてその部分にぬれたタオルを乗せてさしあげる。
「お兄様。良かったですわね、お兄様が複製体ではない可能性が高い、ということではありませんか」
「たったこれだけの情報で乱暴な言い分ですね。あちらの彼は、あなたとの記憶があるんですよ? まったく、すぐに手が出るところといい、どうしてそんなに乱暴なのですか」
 派手目のため息に、わたしは腕を組んでつんっとした声で返す。
「お兄様が、わたしの気持ちを理解してくださらないからですわ」
「複製体だろうとなんだろうと、構わないのでしょう? 叶歌さんは」
「わたしは構いませんわよ。けれど――
 つん。
 鼻先をつついて、わたしは少しだけの切なさを込めて続けた。
「お兄様は構うのでしょう? 泣いてしまうぐらいに」
 あなたが悲しいのならば、それがなくなることをわたしはいつでも願います。そう、付け足したら、お兄様は黙りこくって布団をかぶってしまった。少しだけはみ出した髪を撫で上げて、わたしは再び話し始める。
「お兄様。もうひとつ、ご相談したいことがございましたの。昨日、支部長の薬王寺さんから聞いたのですが……」
 両親の入院している病院の看護士が、FHに患者の体毛を横流ししていたことと、それにより考えられる事態について、意見が聞きたいと言ってみると、ごそごそと、お兄様は布団から顔を出した。
「体毛……そうですね、例えばUGNの技術力であれば、複製体が作れるかと思います。あとFHでも作れるでしょうね。先日の事件の研究者入生田さんが、そういう技術の持ち主でしたし」
 そういえば、昨日とりよせた事件の報告書も、まだ目を通していなかった。あとで読んでおかないと。
「髪の毛1本で作れるものなのですか?」
 トイレとかで髪を梳かして櫛を持っていかれるだけで、複製体が大量に作成できてしまうのか。恐ろしい話しだと思う。
「ええ、作成は可能ですよ。その病院にはオーヴァードはいなかったのですか?」
「いないと聞いてますわ。UGN関係者は、お父様たちのみ……とも」
「成る程。それで、両親はもちろん無事なんですよね?」
「はい、今のところは……UGNの方から護衛して頂いてます」
 更には土曜日に会った際には無事出会ったことも付け加えた。
「お母様が、お兄様にお会いできなくて寂しがっていらっしゃいましたわよ」
「……それで、仮にうちの両親の複製体を作成して得られる利点なのですが、せいぜいが人体実験の研究素材ですかね」
 さらりと話を逸らし、けれど逸らすにしても話題が酷い内容だ。もう少し気遣ってものを言って欲しいと思う。
「それにしても複製体作成のコストがかかりますし、あまり良い懸案だとは思えないのですけど」
「そうですの……念のためUGNには今しばらく、お父様とお母様の護衛をお願いしておきますわ」
 結局お父様たちについては、それぐらいしか取れる手立てはないということか。
 あとは、もっと情報収集をしてからでないと、お兄様とお話しても進展は無いような気がした。結局、黒いセーターのお兄様の所属や目的もわからないままだし。それは今の時間から、あらゆる手立てを使って調べるとしよう。あと……8年前のUGチルドレンの施設の事件のことと、お兄様の記憶処理についても。
「では、お兄様。おやすみなさいませ」
 午後9時。ベッドから立ち上がると、わたしは部屋を去ることにした。
「明日は学校をお休みになられて、ゆっくりしてくださいね。研究所に行くなんてもってのほかですわよ」
 そういえば昔はお兄様はよく風邪をひかれて、大抵は看病していたわたしにうつってしまったものだ。結局兄妹そろって寝込んでいたのだっけ。わたしも暖かくしておかないと。ふと、そんなことを思い出した。
――ねぇ、叶歌さん」
 部屋から出ようとしたら、後ろ姿に声をかけられる。
「8年前のUGチルドレン施設の事件、もし全滅させたのが僕だとしたら…………」
 沈黙。
 わたしはわざと振り返らないままで、いる。
「…………やっぱり、いいです」
 小さく空気が揺れる気配。言葉を飲み込んだ、お兄様。
「お兄様」
 振り返り、わたしは目を伏せる。
「半年前まで――まわり全てが、あなたの存在を消そうとしていた。それにひとりぼっちで抗って……わたしはあなたがいない間、本当に寂しかったんですよ」
 それは、思い出すと泣きたくなるぐらいの長い10年。もう、あんな思いはしたくない。
 だから……。
「お願いはただひとつです。いなくならないでください」
 ……お兄様のお返事は聞けなかった。
 ため息と共にわたしは、ドアを閉めて自分の部屋に戻った。

 部屋に戻ってすぐ、なじみの情報屋に以下の点について情報の収集を依頼した。

・FHにお兄様と同じ外見のエージェントがいないか
・8年前、東北支部管轄のM県杜王市のUGチルドレン施設でなにがあったのか。
・上記事件に関連して、UGNないしはFHにてお兄様の複製体作成の事実があったのか。
・両親の体毛収拾を依頼したのは、FHのどの人物なのか

 ……多分、明日の朝にはメールか電話という形でわたしの手元に届くだろう。
 そうだメールといえば、瑠璃さんに風邪薬のお礼メールを打っておかないと。携帯電話を取り出すと、わたしはちくちくとメールをうち、送信した。
「本当、瑠璃さんはなんでも知っていらっしゃいますわねぇ」
 無関心な素振りで、肝心な場所には居合わせる。あれは一種の才能だと思う。
「さて……これからどうしましょうか」
 先程、お兄様の前ではあえて言わなかった“黒セーターのお兄様”について、考えてみる。あの方については情報がなさ過ぎる。だけれどあえて、現時点で見えていそうなことをまとめるとすれば……。

・現在は、FHに所属している様子
・8年前の杜王市のUGチルドレン施設壊滅の際、FHエージェントに助け出された(?)
・発症シンドロームはソラリス……その他は不明。
・わたしについての記憶を有している → オリジナル?
・わたしに接触してきた目的は不明

「記憶があったのだとしたら、どうして今更になって接触してきたのでしょう、この方は」
 わたしは、過去お兄様を探し情報収集に明け暮れていた。それは相当目立つ行為だったはずで、隣の部屋で眠っているお兄様のように記憶喪失でもない限り、会いたいのであればもっと早くに接触してくると考える方が自然だ。
 接触できなかった理由として挙げられるとすれば、身動きが取れない場所にいたか、やはり記憶喪失で最近わたしの事を思い出したのか、最近になって接触する必要が出てきたのか……3つ目だとしたら、FHがらみであることも考えて、穏やかではない。
「もしくは、つい最近“作られた”か、ですわね」
 わたしについての記憶がある以上、それも考え難い話なのだけれど……それでも、あの人の方が複製体である可能性も捨てきれない。
 隣で眠っているお兄様が複製体だとして、果たしてあんなに綺麗に“歌”を引き継げるのだろうか。彼らの引き継ぐ記憶は、そんなに明確なものなのだろうか――と。
 どちらにしても、現状はFHに利用されてしまっているわけで、救って差し上げなければ、と強く思う。
 ……どちらのお兄様が複製体であれ、わたしの考えはただひとつだ。
 そもそも双子自体が、母親の腹の中で作られた複製体のようなものだと思うから。お兄様の複製体を否定することは、自分の否定にすらつながって来る。
「はぁ、あちらのお兄様の連絡先がわからない以上、向こうからの接触を待つしかないわけで……今日はもう、出来ることはないようですわね」
 そう言ってしまえばよけいに焦燥感に駆られて、なにもしないでいることが耐え難い苦痛となってくる。
 5分ほど考えた末、わたしは携帯電話を開き、登録されている番号にコールをした。
 ――それは、UGN日本支部局長、霧谷雄吾『リヴァイアサン』のプライベートナンバーであった。
 スリーコールで本人が出た。
「さすがは、一流の交渉屋(ネゴシエーター)『クイーン・シンフォニア』さんですね。こんな番号までご存知とは、恐れ入ります」
 おっとりとのどかさすら感じさせる声音で、わたしのことをコードネームで呼ぶ。現在のUGN日本支部をクーデターから建て直した凄腕とはとても思えない。それもきっと無意識の計算のうちであろう。
「……今、よろしいでしょうか」
 そういった少しのやり取りの後、わたしは話を切り出した。
 聞きたいことはひとつ、8年前のM県杜王市のUGチルドレン施設で起こった事件について。きっとそれが今回の件のキーとなるはずだし、どうしてもわたしは知る必要がある。
「私も、全ての事件を把握しているわけではありませんから、詳しいお話はして差し上げられませんが……」
 もっとこの件を聞くにふさわしい方がいるのではないですか? そう言いたげな空気にも気づかない振りをして、わたしは無言で言葉を促した。
 御子神命加。
 10年前に海ではぐれたお兄様を保護し、歌片遥という名前を与えて自分の手元に置いた女。彼女が東北支部のそれなりの地位にいることも知っている。
けれど。
 あの女に聞いたところで、また嘘で固められてしまった末、お兄様を連れて行かれてしまう……そんな気がするだけで、関わりたくはないのだ。
「…………」
 霧谷さんは、無言でいるこちらの意志を理解してくださったらしい。ゆっくりとした速度で、テノールの声を響かせる。
「8年前の春、M県杜王市のUGチルドレン施設に教官として入り込んでいたFHエージェント1名により、施設が占拠され……結果、チルドレン20名が殺害されました」
 ぎゅっ。
 携帯電話を握り締める手が、汗ばんでいくのを感じる。
「FH側の目的はわかっていません。有力な説としては、オーヴァードを互いに争わせることにより“賢者の石”の生成を目論んだのでは、というものがありますが。唯一の生存者は、事件後すぐに記憶処理を受けており、有用な証言は殆ど引き出せていないため、詳細は不明です」
 ……殺し合わせたのか、幼い子供を。なんて、惨いことを……そしてお兄様は、その場に居合わせた、と。おつらい、ほんとうにおつらい経験をされたのだ、あの人は。
「……FHエージェントは、確保できなかったのですか?」
 戦いの最中に止めを刺してしまったことは、大いにありえる話しだが、返る答えはそれを否定していた。
「こちらで救出に向かった時には、既に死亡していたそうです。つまり駆けつけた時点で、死体は21体あったということです」
 少しだけ黙り込んだ後、意を決したわたしは霧谷さんから、一番知りたいことの答えを引き出そうと試みる。
「唯一の生存者の方は……どなたでしょうか?」
 予想が正しければ、きっと、その人の“名前”をわたしは知っている。
――当時9歳の、あなたのお兄さんです」
 けれども、肝心なのはその人が“誰”なのか、だ。
「そのお兄様は……海難事故からずっと、UGNで保護されていたお兄様ですか?」
「……質問の意図が、つかめないのですが」
 ここで初めて、戸惑いを含んだ言葉が返ってきた――その反応で充分だった。
「夜分遅く、お時間を頂きありがとうございました」
 丁重に御礼を言って、わたしは電話を切った。
 ……わたしにとって本当に大変だった1日は、こうして終わりを告げた。


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