真冬の人魚姫

[Scene 4/Player 歌片遥、久遠寺叶歌/200X.01.19]

 蝶の固まりはここを去る瞬間、そっと僕に耳打ちをした。
――まがい物が、でかい顔をしてられるのも、いまのうちだよ」
 と……。
 ここ数日の心の迷走は、いともあっさりと収束した――すなわち“僕は久遠寺遥歌の複製体だった”こんなにもわかりやすい理由で。オリジナルは全てを解き明かしてくれたのだ、ああ、感謝しなれけば。
 “歌”は、オリジナルから引き継いだ唯一の記憶。
 UGチルドレン時代の記憶すらないのも当たり前だ、僕は“そこ”から始まったのだから。
 ――8年前に、作られた、その時点から……。 
 もう、悩まなくても、いい。
 進むべき道が見えた……ここにはもう、いることは出来ない、僕は還ろう。東北支部へ、御子神命加さんの元へ。
 ……行き場所がわかったのに、どうしてこんなに……ここを離れたくないのだろう。そう、しがみつきたくて、
“お兄様”――あなたが、そう呼んでくれる、この場所に。
「……様……お兄様……」
 背中の位置にいたはずの声が、目の前からする。たった今、思い描いた旋律が心地よく奏でられる。
「お兄様ぁ、お久しぶりですわねぇ」
 ふと我に返ると、席を移ってきた叶歌さんが、目の前でたおやかに微笑んでいた。
「あ……叶歌……さ…………」
“お兄様”――まだそう呼んでくれることに、切ないぐらいに胸が疼いた。
 そして…………
 ごすっ。
 ……5秒後には、頬が疼く羽目になった。
「…………い…………たいで…………すよ」
 勢いで椅子までおし戻されてしまい、しこたま肩を打ち付ける。更には殴られた頬の痛みが余り効かない風邪薬せいの頭痛に、ズキズキとした痛みを継ぎ足した。涙が滲む、けど――さっきの涙が誤魔化せて、ちょっとだけ幸いだった。
「お兄様。紅茶を飲みなおしたいので、お付き合いくださいませ」
 叶歌さんの笑みは相変わらずにこやかだ。しかしあんな話の後で、どうお茶に付き合えと? 僕は深い深いため息をつくと、呪詛を紡ぐために唇を開く。
「ワーディン…………」
「“ワーディング”!」
 僕の呪詛は目の前の少女によって上書きされた――同じ呪詛ではあるが。
 キィーン。
 耳障りな音を契機に周囲は白黒反転し、僕と叶歌さん以外は全て動きを止める。まるで真空の世界にいるが如く、音もかき消えた。
 まぁいい。ワーディングをかけたかったのはエフェクトを使うためなのだから、この際、僕がかけようが、叶歌さんがかけようが関係ない。僕は再び体内のレネゲイト・ウイルスに呼びかける。体内で薬品を生成するソラリス・エフェクト……。
――群れの召…………」
「“縛鎖”!!」
 くっきりとした唇の動きで叶歌さんがそう叫ぶと、僕の足には無数の蔦が絡みつき、その行動を強く阻む。
「“縛鎖”ですか……別に“群れの召喚”で逃れることは可能…………」
 と、僕はそこで言葉を止めざるをえなかった。
「お兄様ぁ、お兄様の……バカぁ……」
 ぎゅっと歯を食いしばって見上げてくる瞳は、相変わらずいつもの強気さが漂っている、けれど……。
「いつもいつもわたしから逃げて。約束したくせに……おいていかないって……約束したくせに……」
 まるで迷子になった子供のように、その瞳の奥には大きな不安と寂しさが揺らめいているように見えた。
「叶歌……さ」
「お兄様は、わたしをおいていかないって、約束したんですっ」
 そう言いきって僕のジャケットの袖を握り締める手は、縛鎖の戒めよりも遥かに強くて……逃れることなんてできるはず、ない。
 ああ、きっと。
 こんな時なのだろう――許されるのだとしたら、頭を撫でてあげたいと思うのは。
「わかりました、お茶には付き合いますから」
 裾をつかむ手を振り解こうとして、一瞬だけ惑い彷徨う。
 きゅっ。
 そんな僕の手は向こうからあっさりと捕まえられた。
「はい、お兄様!」
 僕のたわいない一言で、彼女の瞳から不安と寂しさが消えた。そして残るのは、夏の日のひまわりのように眩しい笑顔だった。

 ワーディングを解き、叶歌さんはストレートティを、僕はミルクティをオーダーした。
 しかしお茶を待つ間、どう話をつないだものか。先程の僕のオリジナルが残していった話があまりに衝撃的でこちらからはなにも言えない。
 なにか言葉を作れば、それだけでしゃくりあげてしまいそうなほどで……けれどこの人の前では泣けない。泣くのはひとりになってからで、いい。
「それでお兄様……」
 しかしそんな憂慮は僕だけらしく、叶歌さんはいつも通りに対話を仕掛けてきた。
「どうして、泣いてらしたのですか?」
「……へ?」
 泣いて……? それはどこからきているのだろう、と、返答に窮してしまった。まだこの人の前では泣いていないはずだ。
「留守番電話、お聞きになっていませんか?」
「……ええ、ずっと電源を切ってましたから」
 ダークブルーの鉄の塊を手のひらに取り出し、電源を入れてみれば6件ほど留守番電話が入っている様子だ。
「6回も電話をしたんですか?」
「だって、一度も出てくださらないんですもの」
 目の前の少女に、拗ねた上目遣いで睨まれる。この話をこのまま続けるとややこしくなりそうだ。とりあえず携帯電話は電源を入れたままで胸ポケットに戻し、僕は叶歌さんへと向き直った。
「それで? 僕は泣いてなどいませんが」
 組み見合わせた手の甲の上に顎を乗せ、先を促してみる。
「……お兄様、悩まれていることがあれば、わたしにご相談くださいませ。わたしはあなたの妹なのですから」
 ぺたりと僕の頬に手を当てると、叶歌さんはそのまま優しく撫で上げる。
「それは、先程蝶にまみれて逃げた人の話であって、僕は違いますから」
 その手から逃れると、椅子にもたれこんで天井を仰いだ。頬が火照る……また熱があがったのだろうか。
「あら、お兄様……お熱がおありですわね。お風邪ですの? あらあら……そう言うことでしたのね」
 払われた手を気にもとめず、叶歌さんは自分のかばんを膝においてゴソゴソ探ると、テーブルの上に色鮮やかな箱を置いた。
「風邪薬……ですか? 用意がいいことで」
「はい、お礼はお兄様から、瑠璃さんにおっしゃってくださいね」
 如奈さん……ねぇ。まったく僕が風邪引きだと、何処から仕入れたのやら。
 風邪薬をあけていたら、オーダーしていたものが来た。グラスに入った水で定量分の薬をあおり、箱を叶歌さんに返すと僕は言った。
「お礼は叶歌さんから伝えてください。僕はもう如奈さんと会うこともないでしょうから」
「それはどういうことですの? お兄様」
 箱を受け取らないままで、叶歌さんは首を傾げる。
「今晩にでも手続きをとって、僕は東北支部に戻ります……だから…………」
「…………どうして、ですの?」
 運ばれてきた紅茶にはそれぞれ手をつけず、立ち上る白い湯気はお互いの姿を煙らせて、遠ざけていく。
「……理由まで、言わせるのですか?」
 こくん。
 叶歌さんは力強く頷くと、胸のところで拳を握りきっぱりとした口調で言い切った。
「もちろんです。納得がいきませんから」
 ――残酷なのか、鈍感なのか、この人は。
 胸元をおさえて目を閉じて。僕の覚悟が決まるまで、少しの時間が欲しいから。だけど紅茶が冷めないうちに。

 あなたと飲む最後の紅茶は、この世で一番美味しくあって欲しいから。

「僕が複製体だからです」
 惑い、悩み、そうで無ければよいという願いは、費えた。僕が自分で言葉にすることによって、完全に。
「……………………」
 答えたあとの長い沈黙に、息が詰まりそうになってくる。
 周りの客は、始めに来た時に比べると随分と入れ替わって、高校の制服姿の子が増えた、うちの学校の子もいる。みんなあくまで日常の和やかな空間で、だけどここだけ切り取られたように、時が、止まる。
 この場から逃げ出したくなる衝動に駆られるが、なんとか踏みとどまった。先程、お茶に付き合うと約束をしたのだから。それでも、沈黙にはもう耐えられそうもない。けど、こちらからどんな言葉を重ねればいいというのだろう。
もうなにも……ないよ、僕には、ねぇ。
「……理由は」
 頬杖の手を外し動いたのは叶歌さんの方だった。穏やかな笑みで小首を傾げると表情そのままの優しい声音で、こちらが答え難い言葉を投げかけてきた。
「理由はそれだけですか?」
 もうため息しか返せない僕は、僅かに首を縦に振ることでやっと意思表示。
 その瞬間、また、世界は白黒へと塗り替えられる――叶歌さんがワーディングをはったのだ。
「お兄様…………」
 かたん。
 椅子が引けて床にこすれる、叶歌さんが立ち上がった、音。
「そんな理由で、わたしがお兄様を東北支部に返せると……2度と会えない場所に行かせるとお思いですの?」
 声はあくまで穏やかでけれど笑みは消え、叶歌さんは見たことも無いような……そう、いつも浮かべている品のいい笑みをうち消して、平坦な無表情を見せた。
 その平坦さから感じるのは――多分、怒り。
 するすると伸びてきた白い指は、こちらの肩を両側から捕捉する。ぎゅうぎゅうと、何処まで力が込められていくのだろうか、爪が刺さり、痛い。
「それに、お兄様が複製体だとまだ決まったわけでは、ありませんわっ」
「決まっているんですよ、複製体だと……」
 痛みを与えられることで、人は凶暴になる。こちらも立ち上がると叶歌さんの腕に力を込めて外そうと試みながら、叫ぶように続ける。
「僕には記憶がないですっ。ああ、その通りですよ、先程の彼が……オリジナルが言う通りに、あなたと一緒にいた頃の記憶も無ければ、拾われた後しばらくUGチルドレンとして過ごした際の記憶も無かったっ。当たり前ですよ、ねぇ……だって、作られた時から、僕は10歳だったんだから…………記憶なんてあるわけ…………」
 叫びは力を失った。認めたくないことが、声にならないから。
「お兄様――
 ふいに、肩をつかむ力が落ちた。痛みを与えていた指は、そのまま僕の頭を引き寄せて、羽のようにふんわりと優しく、つつむ。
「それで……泣いてらしたのですね」
 こくり、と。
 自分でも驚くぐらいに素直に頷いてしまった。
 半年前、曖昧で消えそうだった僕を見つけてくれた人に。
 いつでも優しくて、僕という存在を“定義”してくれた人に。
「泣かないでくださいませ」
 抱きしめる腕は本当に暖かくて――まだそうやって、与え続けてくれるのだ、この人は。
 ……なにも返せないから、極力距離を置こうとした。それでもやっぱり悔しいから、なんとか返せるように思い出そうとした。けれど思い出せなかった。
 ――――
 僕は、まがい物……だから。
 僕ではこの人を幸せに出来ない、そんな答えを見つけてしまうのが、怖かった。けれど答えは見つかってしまった。
 だから……もう、ここにはいることはできない。ここは僕がいていい場所なんかじゃ、ない。
「もしかして万が一複製体だったとしてもなんだろうと、お兄様はお兄様だからここにいていいんです」
「複製体でも……いいと?」
「もちろんですわ」
 あっさりと肯定の頷きを、彼女は行う。僕の中で、つみあがっていたわだかまりが、一気に打ち崩された。
 そうか……そんな杞憂すらも超えたところに、この人の想いはあったのだ。まったく見抜けなかった。そこまでの……想いなら。
 ならば、僕は僕なりに、この人の想いを叶える手伝いを、しよう。まがい物でも、出来ることはあるのかもしれない、いや、きっと、ある。
「というか、いなさい」
 腕を解くと、叶歌さんはぴしっと指を立てて小刻みに振る。
「おいていかないと約束したのですから。もう約束を破らせませんわ、お兄様」
「それは、オリジナルの約束であって……」
「お兄様ぁ?」
 人差し指がしまわれて拳に変わった。だから僕は苦笑混じりに、頷く。
「そうですね。では、先程いらしたオリジナルの方に約束を守らせるべく、作戦でも立てましょうか? 紅茶でも飲みながら」
「……そうですわね」
 ゆったりと拳が解かれて、それと ともに周囲には色が戻る。当たり前のざわめきに、今度は僕たちも混ざれそうだ。互いに腰掛けて、なにごともなかったようにしてティカップに手を伸ばす。
「すっかり冷めてしまいましたね、紅茶」
 もはや、砂糖が解け残りそうな温度のクリーム色の液体に、僕は口をつける。
「ええ、ですけれど……」
 上品な仕草でティカップを持った叶歌さんは、一口すすると甘い笑みを紅茶水面にうつし、言った。
「とても美味しいですわ、この紅茶は――


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