真冬の人魚姫

[Scene 3/Player 久遠寺叶歌/200X.01.19]

「お兄様の、バカァァッッ!!」
 握り締めた拳をぶつけたままで、わたしはまず一番にそう叫んだ。ここが研究所前であろうが、隣を驚いた顔した小柄な女の子が通り過ぎようが、構いはしない。ひとまずは殴りつけておきたかったのだ、この人の気も知らないで、勝手に心を閉ざして延々とひとりで悩んでいたお兄様を。
 続けざまになにから言うべきかも考えもせず、とにかく唇を開いたところで……わたしは動きを止めた。頬にぶつけたはずの拳がきゅっと、手のひらで握り締められたからだ。
「…………まったく」
 目の前のお兄様は、悠然とした笑みを浮かべると薄灰色の瞳を瞬かせ、わたしの体をつかんだ拳ごとなめらかに引き寄せる。
「いきなり殴りつけるなんて、僕のまがい物は、よほど叶歌に迷惑をかけているんだね」
 叶歌? 呼び捨て??
 息がかかるほど間近の距離でそんな意味深な言葉を囁かれるが、予想外の展開にわたしはしばし呆然としてしまい、正確な判断及びそこから導ける行動をとることが出来なかった。ただお兄様の身に付けている黒いセーターの胸に顔をうずめるだけで。
 ああそういえば、一昨日のその前、お兄様に抱っこしてもらったのだった、その時も同じぐらいお兄様と間近だったし焦ることはない……と、それでも自分の心にコントロールをかけ始める。
「いけないな」
 一方お兄様は、拳から離した手をそのままわたしの頬に当てて、いたずらっ子を諭すように続ける。
「女の子はもっとおしとやかにしなきゃね、叶歌」
――
 ……分析、しましょう。
 ごくごく自然に、叶歌と呼び捨てにしてくるその声は、確かにお兄様のものだ。その自然さが、普段は距離をおくお兄様とは全然違うとしても。
 深呼吸をもう一度、胸に手を当てて上昇がちだった胸の鼓動がおとなしくなるのを待てば……ようやく落ち着いてきた。
 改めて、素早く上から下までお兄様を観察してみる。
 アンゴラの黒い手編みのセーターなんてお兄様は持っていただろうか? 服には存外無頓着なお兄様は、最近だとお父様のお古のダークグレーのジャケットと、それにあわせてベージュのセーターを愛用していた気はするが。
 なによりお兄様がわたしの拳をさらりと受け止められるわけが、ない。大抵はぽっくりと喰らったあとで“叶歌さん……”と、恨めしげに睨みつけてくるだけだから。
 つまり目の前にいるこの人は………。
 捕まっている腕を振りほどき一歩半ほどの距離をとると、警戒心を強めに打ち出した表情で、ゆっくりと問い掛けた。
「……あなたは、どなたですの?」
 少なくとも彼は、一昨日から心を閉ざしている――その前には、わたしに烏龍茶の缶をくださった“お兄様”ではない。
 ワーディングは時期早々であろうと判断した、まずは情報収集が必須と。
「僕は“久遠寺遥歌”キミの双子の兄だよ」
 目の前の彼は、悪びれもせずあっさりとそう答えた。なるほど……そうくるわけ、ですのね。
「あらあら、お兄様……ですの?」
 おっとりと、いつもの話調は崩さない。否定はせず、されど肯定もせず、まずは相手の出方に任せることにする。
「叶歌、そんなに警戒しないでよ」
 彼は些かオーバーにため息をつくと悲しげに眉を曇らせた。
「ただ、確かに説明は必要だよね。僕も話したいことはあるよ、色々とね」
 しばらく考えたあとで、柔和な笑みを取り戻し、彼はわたしにこう提案した。
「場所を変えたいな、少しゆっくりと話せる場所に。叶歌、どこかいいところ知らないかな? 僕はこの辺り詳しくなくてさ」
 確かに、この場所は人通りがゼロではなく、更に言えばお兄様の顔を知っている方は多数通り過ぎていく。それはお互いにとって不都合かもしれない。また背後に“ある人”の気配を感じ、その人はわたしについてきてくれると確信する。
 ……だからわたしはにこやかに即答した。
「わかりましたわ、お兄様」

 5分後。
“喫茶UGN”そんな冗談のような名前の店に、わたしと黒服のお兄様はいた。実はこの喫茶店はちらりほらりと支店もあり、ここは研究所近くのお店。もちろん一般にも開放されている。ただし事と次第によっては人払いもしてくれるので、UGN関連のお話は非常にしやすい場所でもある。
 お客様はわたしたち以外に、暇そうな大学生と子供がいない主婦のおしゃべりペアがあわせて4組ほど、規模からすればほどほどの客の入りだ。
 一番奥の人通りが少ない向かい合わせの席に陣取る、奥側がお兄様で手前がわたし。ちなみにすぐわたしと背中合わせの席には新しいお客様が入ったようだ……予定通りに。
「お話を、お伺いいたしますわ」
 わたしはストレートティ、目の前のお兄様はカフェオレをウエイトレスさんにオーダー。ウエイトレスさんが去ったあと、早速わたしはお話を促した。
「そうだね、何から話せばいいのかな。実はね、さっきはいきなり殴りかかられたりであやふやになってたんだけど……」
 くす……。
 頬杖をついてわたしを見つめる瞳は優しく、照れた色が柔らかなお店の照明に溶け込む。長めの前髪が、チャコールグレーの瞳に濃い影を落とす。そういえば半年前に戻ってきてから、こんな笑顔のお兄様は見たことがなかった。ついつられて笑ってしまう。正体不明とはいえ、お兄様と同じ顔つきをしている人だ、やりにくいことこの上ない。
「本当は久しぶりに妹に会えて、ものすごく緊張してるんだよ。10年ぶり……かな」
「……わたしとは久しぶりにお会いになるのですね、あなたは」
「けれど叶歌のそばには、今“お兄様がいる”わけだよね」
 照れた色に皮肉と嫌悪が混じる。いつも無表情がちで、たまに見せるのは苦笑の“お兄様”とはまた違った、底意地の悪い負の感情を感じさせる笑みを浮かべて。
「いらっしゃいますわ。半年前から一緒に暮らしています」
 ウエイトレスがティカップを持って現れたので、そこでお話は一旦途切れる。
「ごゆっくりどうぞー」
 シックな黒のロングドレスにエプロン姿の女性が、ぺこりとお辞儀をして去っていくと同時に、目の前のお兄様はカフェオレには口をつけず、穏やかな口調で話し始める。ただ、口元にはあの笑みを貼り付けたままで。
「“彼”はね、僕のまがい物だよ。ああ、本当はさ……もっと楽しい話をしたいのだけどね、僕にとっては待ちに待った再会だったんだから。けれど、まがい物のことをきちんと説明しないと、叶歌だって納得できないだろうしね」
「まがい物、ですか」
 ノンシュガーノンミルクで、ティカップに口をつけ、熱い液体を身に入れる。けれど、一口含んですぐにティソーサーに戻した。
「そう“複製体”というやつだね、彼の正体は。だから僕とそっくりな外見をしている」
 くるくると紅茶をかき混ぜれば、濃い飴色の液体が渦を巻いた。一口飲んで思ったのは、どうして今日の紅茶はこんなに味気ないのだろう、ということで。わたしは紅茶を飲まずにもてあそびつづける。
「彼は8年前にUGNによって作成された複製体だよ。作成後“歌片遥”という名を与えられて、生きてきた……ね」
 目の前のお兄様の独白を聞きながら、ずっと無言で紅茶の巻く渦をみつめていた。
 くるくる、くるくる、くるくる……。
「複製体が生きてきた、というのもおこがましいかな。しょせんは研究の一過程でつくられた産物に過ぎないんだし」
 かきっ。
 スプーンをいれて渦を止めた。
「どうしてそのようなことをおっしゃるのですか?」
 スプーンをおさえたままで穏やかに、けれど視線は真っ直ぐ彼を射て。
 奇麗事を唱えるつもりはない……けれど、始まる形がなんであれ、そこに生命として存在したのならば、意思を持ち人格を生じさせたのならば、何人足りともそれを否定することなどあってはならない。
 だってわたしは、半年前に帰ってきてくださった“お兄様”と飲む紅茶を、心の底から美味しいと感じているのだから。そんな想いを作ってくれる存在を否定することは、たとえ“お兄様”でも許せない。
「驚いた。とんだヒューマニストなんだね、叶歌は。そっか、昔と変わらず優しいんだ」
 こちらのどんな言葉も、軽く受け流す。その手法は言うなれば“アバタもエクボ”だ。埒もない。
 わたしは今、目の前の人をなんと呼ぶべきか躊躇するが、やはりこう呼んだ。
「……お兄様」
「なぁに、叶歌?」
「カフェオレ、冷めてしまいますわよ」
 先程から口をつけていないカップを指し示せば、彼は肩をすくめる。
「叶歌は聞かないんだね。どうして僕がオリジナルで、あちらの……そう“歌片遥”が複製体といいきれるのか、その理由を」
“歌片遥”という呼び名には、わたしは眉をしかめてしまう。
 違う、あの人は“久遠寺遥歌”だ。たとえいま目の前にいる人が“久遠寺遥歌”だとしても。
「わたしは、そういった難しいお話はわからないのですが……お聞きした方が、お話になりやすいのでしたら、お聞きいたしますわね。どうしてですの?」
 相手にカフェオレを勧めながら、わたしは自分の紅茶に口をつけるのを完全にやめた。美味しくないから、あとで飲みなおそう……お兄様と。
「簡単な話だよ。あいつには――記憶がない」
――ッッ」
 息を呑む気配はわたしの背後から。それを庇うように、わたしは目の前のお兄様の言い分をやんわりと訂正する。
「いいえ、お兄様はちゃんと憶えてらしたわ……歌を」
「けど、それ以外はなにもなかったでしょ?」
 くすり。
 歪んだ笑みとあわせて、わたしよりもその先の誰かに投げるように、鋭く尖らせた言葉の剣を目の前のお兄様は振りかざす。
「複製体はね、一部、オリジナルの記憶を引き継ぐんだよ。けれどそれは本当に一部の欠片だけでね……叶歌」
 目の前から腕が伸びて、わたしの頭を撫でる。とりあえずは黙ってその感触を感じ、辿る――記憶を。
 頭を撫でられた、記憶……ああ、そんなの無数にあるに決まっている。7歳のクリスマス・イブまで、わたしはこの人と一緒だったのだから!
 ……嬉しい、ものすごく。そんなの当たり前。
「僕は憶えているよ。6歳の時に叶歌と一緒に行った、ディスティニーランドとかね」
「そうですわね、よく行きましたわ」
 撫でられたままで、わたしは目を閉じてその時にあったことを思い出そうとする。
「あの時は確か、父様と乗った観覧車が止まってしまって、叶歌は僕につかまって震えていたよね。そうそう、母様は高所恐怖症だから乗らなくて良かったって笑ってて、叶歌、すごく怒ったよね」
 ――いまわたしの中でも、同じことを思い出していたのだった。思わず顔をあげれば、お兄様は懐かしげに目を細めて、更に続ける。
「他も、そうだね……ええっと、クリスマス・イブの歌の発表会。大きな船に乗ったねぇ」
 10年前の事故――その思い出は、胸の奥が痛くなる。
「事故の日だけど叶歌の黒いドレス、母様のお手製で似合っていたよ。叶歌も着るのが楽しみで仕方なかったんだよねぇ……降りた母様を待つってきかなかった」
「……そうです、わね」
 けれど黒いドレスが大好きではやく着替えたかったわたしはあの日、一旦下船したお母様を乗船口でずっと待っていた……それはわたしとお兄様しか知らない事実だった。
 そして、この人はそれを知っている――
「叶歌のことなら憶えているよ。大事な妹だもの……この10年、忘れたことなんて一度もなかった。会いたかった、よ」
 立ち上がったお兄様は、テーブル越しにしっかりとわたしを抱きしめた。そんなことをされたら不覚にも涙が出てしまう。
 ――忘れたことなんて、なかったよ。
 記憶を亡くしたお兄様には酷な願いと決して口にはしなかったけれど、それはわたしがものすごく欲しかった言葉、だから。
「お兄様……」
 感極まって声が涙混じりになる。ここはお店だから恥ずかしいとか、そんな羞恥心も消し飛んでそのまま…………。

“……少し、ほっておいてください”

「……ぁ」
 幸せの奔流に押し流される寸前で、ちらりと脳裏に浮かんだのは、そう言って泣いていたお兄様の声……そうだった、先に泣いたのはお兄様だから、わたしがなんとかしなくては。こちらが泣くのはその後だと、思い返す。
「お兄様、恥ずかしいですわ」
 少し、いやかなり惜しいけれども、わたしはそう言って腕から逃れると、照れたように笑んで続ける。
「お兄様、このあとはわたしとお家に来てくださいますわよね。会わせたい方がいますの」
「……会わせたい人は、僕の複製体かな? だとしたら無理だよ」
 お兄様の声が、氷点下の空まで一気に冷める。それに煽られたように、わたしの指先まで冷えてきた……寒い、お店の中は暖房が効いているはずなのに。
 その言葉の理由を問いただす前に、黒いセーターのお兄様は言葉を吐き捨てた。
「僕は叶歌をあいつから救い出すために来たんだから。あの……狂気を孕んだ僕の複製体、歌片遥“ブラッティ・メディスン”から、ね」
「お兄さ……」
「ここ数年は抑えられている様子だけど……」
 再び椅子に腰掛けて、お兄様は幾分か感情を抑えて話し出す。
「あいつは作られたばかりの8年前、感情制御が出来ず暴走して……UGチルドレンを皆殺しにしたんだ」
「皆……殺し?」
 UGチルドレンを皆殺し? それはどういうことなのだろう……複製体を作ったのだとしたらUGNだったはずで……こちらが混乱している間も、お兄様のお話は続く。
「僕はすんでのところで、とある組織に保護されて助かったのだけれどね――そう皮肉にも、UGNにスパイとして潜入していた組織の一員に、ね」
「スパイ? 組織? お兄様、それはまさか……」
 FH?! その話の流れだと、そうとしか考えられない。このお兄様はいま、FHに所属しているというだろうか。
 わたしは腕を伸ばしお兄様の肩をつかむ。いけない、絶対、FHに所属しているのだとしたら……救出されるべきは、わたしではなくてお兄様だ!
 言葉を整理しよう、そして冷静に冷静に話を進めなければ。FHのマインドコントロールはそうそう解けるものではない。
「UGNのマインドコントロールは、そうそう解けるものではない……と、僕は思ってるから」
 わたしの考えていたことと同じ台詞が重なって……そんなところは双子たる所以か。ただし対象となる組織は違うけれども。
 お兄様は財布から出した2千円をテーブルに置くと、慈悲とも憐憫とも取れる瞳でわたしを見る。
「今日はこれで退散するよ。そうそう“ブラッディ・メディスン”については、8年前の東北支部管轄のM県杜王市のUGチルドレンの施設を調べてみるといい。まぁ、どうせUGNのことだから、歪んだ情報しか手には入らないだろうけどね」
 くすりと微笑みそれだけを言うと、お兄様は軽く首を振った。目にかかるほど長めの前髪が、ぶれ……そして――
 キィーン。
 一瞬の金属音のような耳障りの後、辺りは白黒反転した世界に包まれる。これは、ワーディング?! こんなところで何をしようというの?!
「また近いうちに会いに来るよ、叶歌」
 目の前のお兄様から、僅かに白い煙が吹き出し取り囲む。殆ど無臭のその香り……だけれどもそれに、何処から来たのだというほどの蝶が、たかりだす。
 これは……ソラリス・エフェクト?
「“群れの召喚”……やはりオリジナルも、ソラリスなんですね」
 後ろからそんな声が聞こえる。わたしは構わず目の前の蝶の塊に手を伸ばし、叫んだ。
「待ってくださいませっ、お兄様。まだお話は……」
 ワーディングが、切れた。あたりに人のざわめきが戻る。
 ……それは、黒セーターのお兄様が、この場から退場していったことを示していた。


[BACK] [LIBRARY] [NEXT]