真冬の人魚姫

[Scene 2/Player 久遠寺叶歌/200X.01.17〜01.19]

 土曜日。
『……少し、ほっておいてください』
「あ、お兄様」
 ぷちん。
 わたしの耳元で、携帯電話は無慈悲な音を立てて、切れた。
「お兄様……」
 ぱたり。
 そんな軽い音を立ててパールホワイトの携帯電話を閉じると、わたしは肩を落とす。
 時刻は午後4時をまわったばかり、お夕食は午後6時だから、それまでには帰ってきて欲しいと思ったのだけど、月曜日まで戻らないというのがお兄様の弁。あの人は頑固で依怙地なところがあるから、きっと戻ってこないだろう。こちらから研究所に出向く手もあるけれど、その前に…………わたしは、再び携帯電話を開く。
 ――先程のお電話で気になることがあったから、もう一度かけてみることにした。
『現在、電波の入らないところに…………』
 予想通り、電源を切られてしまったようで、素っ気無いアナウンスが流れて留守番電話に切り替わった。わたしはメッセージを吹き込むことにする。
「お兄様……どうして、泣いてらしたのですか?」
 そう、気になることはただひとつ、お兄様が先程のお電話で泣いていたということ。悟られぬよう抑えていたのは判ったけれど、不安げに揺れる語尾は隠せない。きっと、なにか辛いことがあって、また1人で抱え込んでしまっているに違いない、だから……。
「心配事や、不安なことがあれば相談してくださいね。わたしはあなたの妹なのですから」
 わたしはそうメッセージをふきこんだ。少し落ち着かれたお兄様が聞いてくれることを願って。離れていて今できる最善のことはこれぐらいだ。
 ――それでも半年前に比べれば、なんて恵まれた状況だろう……携帯電話ひとつで、わたしはお兄様につながることができるのだから。
 明日は歌のレッスンが入っていて1日家にいないから、今日は一緒にご飯を食べたかったのだけれど、そう思うとやっぱりお兄様のつまらない意地が恨めしかった。
「これからどうしましょうか」
 とりあえず今研究所に出向いたところで、会える可能性は低そうだ。対話の拒絶は、電源が切られた携帯電話が示しているし。
 瀬能さんには、今日の食事はわたしの分だけで、けれども暖めなおせば食べれるものも用意してもらうよう伝えるとして……なんだかそれ以外にすることが思いつけなくて、本当に手持ち無沙汰になってしまった。
 ふと部屋に視線をまわせば、淡いクリーム色のカーテンが、夕焼けをうつしこんでオレンジに染め、部屋に暖かな色をちりばめているのが目に入る。サイドテーブルの烏龍茶も長い影をひいていた。
 烏龍茶。
 昨日もらった時は熱いぐらいだったのに、今はすっかりと冷えてしまっていた。それでも手渡された時は夢かと思ってしまうぐらいに嬉しかったし、目が覚めて手元に缶があったから、現実にあったことだと判ってさらに嬉しさは2倍になった。
 そんな気持ちとか、伝えたいことはたくさんあるのに――どうしてお兄様は心を閉ざそうとするのか。遠慮がちな態度が、よけいに人を傷つけると、知りもしないで。
 ……いつもの如くそうやって考えていたら、ふつふつとお兄様に拳を入れたい衝動が沸いてくる。
「はぁ、もう……お兄様のバカ」
 ばふっとクッションを殴ってもちっとも気は晴れない。
 とりあえず瀬能さんに食事について伝えなくては。ため息混じりにクッションをベッドに戻し、烏龍茶の缶も枕もとにおいて部屋を出ようとして、ふと、思いつく。
 お兄様が依怙地で心を閉ざしがちなのは今に始まった話ではないけれど、今日の電話はそれにも増しておかしかった。寝ぼけていた頭を思い返せば、深夜、UGNのお仕事から戻ってきた時も様子がおかしかったかもしれない。
「やはり昨日のお仕事で、何かあったんでしょうか」
 そしてわたしは3度携帯電話を開く、今度の番号はお兄様ではない、昨日お兄様と一緒にお仕事をしていた……
『あら、どうしたの? 叶歌』
 ……如奈瑠璃(ゆきな・るり)さんに電話をした。
「瑠璃さん、今、よろしいかしら?」
 瑠璃さんは、わたしがお兄様と再会した時からのお友達で、わたしたちの状況を良く把握してくれている人でもある。確か昨日お兄様と一緒にお仕事だったはずだ。
『別にいいけど』
 電話で回りくどい話をしても埒があかないので、わたしはストレートに聞くことにする。
「昨日のお仕事で……お兄様になにかありましたでしょうか?」
『あったわよ。色々と、ね』
 相変わらずなにかを含んだような瑠璃さんの言い方を掘り下げるように、わたしはそのまま返す。
「色々って、どんなことがありましたの?」
『それはわたしじゃなくて、本人に聞いた方がいいんじゃない?』
 それが出来ないからお電話しているというのに。けれどそんないらつきは決して表に出さず、わたしは現状を淡々と伝えてみる。
「お兄様は、なにもお話してくださらなくて……」
『お兄様があなたに話したくないことを、わたしが言うのもお兄様に悪いでしょ』
 瑠璃さんの理に叶った言葉にしばし沈黙。その裏で考えてみる、この人から有益な情報を引き出すにはどうすればいいのか。お兄様を追う過程で、わたしは情報のやり取りすることが自然と増えた。そんな過去の経験を辿って打ち出したとるべき方法は……。
「…………」
 そのまま、沈黙を続ける、こと。
『そうね……』
 そんなわたしの手法的な沈黙に気づいてか否か……多分気づいているとは思うけれど、瑠璃さんは大人びた声でわたしに情報をくれた。
『どうしても知りたいなら、あの日の資料は天羽くんがUGNに持ち帰ったはずだから、調べてみたら?』
 一緒に作戦行動をとったUGチルドレンの名を出して、瑠璃さんはヒントをくれた。
「ありがとうございます。そうそう、おいしいケーキ屋さんを見つけたので、今度一緒に食べに行きませんか?」
『そうね、楽しみにしてるわ』
 最後はきっと笑顔だろう。電話は彼女の方から切れた。
「さて、と」
 携帯電話を閉じずに立て続けにかける。今度の通話先はUGNの支部だ、適当な理由をつけて、昨日お兄様が関わった事件の報告書を準備していただくように手を回す。取りに行くのは明日、歌のレッスンの帰りに支部による予定だ。
「ああ、いけない。瀬能さんにご飯のことをつたえないと」
 ご飯が遅れてしまう。わたしは慌てて階下に降りた。

 日曜日。
 歌のレッスンのあと両親のお見舞いに行き、その足でUGNの支部へと寄る予定だったけれど、それは難しくなってしまった。再び歌の先生に呼ばれ、音楽論から始まり2ヶ月先の発表会の打ち合わせに時間を取られ、開放される頃には午前2時を回ってしまっていたのだ。
「あふ……」
「お疲れですね、お嬢様」
 わたしは今、タクシーを拾おうとしていたところで、偶然に通りがかってくれた神里さんの車の中にいる。神里さんは高校の1つ先輩であり、UGNで清掃班の運転手としてお仕事をされている方だ。またご好意で、よくわたしの送り迎えもしてくださる。お兄様との件でも随分と骨を折っていただいた。
「ええ……少し、疲れましたわ」
 乗り心地の良い後部座席に身を沈めて、ついうとうととしてしまう。ものすごいスピードが出ているはずなのに、車内は不快な揺れひとつなく快適で、本当にこの方のドライビングテクニックには感服するしかない。
「それでは、迅速にお送りいたしますね。お嬢様」
 わたしやお兄様とは1歳違いと思えぬ落ち着きで笑むと、神里さんは再び前に向き直り大きくハンドルを切った。車は住宅街を、閑静であり人ひとりいない中を走り抜けていく。
 本当は件の資料を回収して、明日学校でお兄様とお話がしたかったのだけれど……それでもひとまずは、今日お会いしたお父様とお母様は随分とお元気そうで、春には退院できるだろうとお話だったからよしとしよう。だけれどもお兄様が一緒でないせいか、お二人とも寂しそうにしていらした。来週はお兄様を引きずってでもお見舞いにいかないと。
「あふ…………」
 もう一度あくび。神里さんの前ではつい安心してしまい、緩んだ自分が出てしまう。
明日は遅刻しないようにしないといけないなぁとか、今日頂いた料亭のお料理は今ひとつのお味だったなぁとか、そういえばお兄様はちゃんとしたお食事をとられたのかしら、とか、取り留めのないことを考えながら、わたしはとろとろとまどろんでいた。
 通常の半分以下の時間で自宅まで送り届けていただき、わたしは神里さんと別れた。

 月曜日。
 ベッドに入る時間が遅くとも、目覚めはいつもと同じ時間だった。朝の目覚まし代わりにお兄様の携帯電話を鳴らしてみたが、土曜日と変わらずの留守番電話。相変わらず電源は切られているらしい。
 本当になにを意地になっていらっしゃるのかしら……とりあえず学校で顔を合わせたら、まずなんと言おうか考えながら階下に降りた。
「おはようございます。叶歌様」
「おはようございます、瀬能さん」
 椅子を引かれて腰掛ければ、目の前にはきちんと食事の準備が整っている。
 瀬能さんが用意してくださった朝食は、彩り鮮やかな野菜のコンソメスープと、焼きたてのバターロールそしてヨーグルトサラダ。これらは寝不足で疲弊している胃に心地良い刺激をくれた。
 差し出されたお弁当箱を受け取りながら、上品な笑みを浮かべる瀬能さんにわたしは告げる。
「今日の夕食は2人分準備してくださいな」
「かしこまりました」
「きっと……お兄様は栄養のあるものを食べていらっしゃらないでしょうから……」
 なにがいいかしら……。
「体を温める、ボルシチなど如何でしょうか」
 瀬能さんのお料理はどれもこれも美味しいけれど、特にボルシチは絶品だ。そう、この季節はシチューがとても嬉しいし、それは名案だ。そういえば瀬能さんのボルシチは、子供の頃のお兄様の大好物だった。
「それでお願いいたしますわ」
 今日の食事はとても楽しみで、考えるだけで心が温かくなって、笑みが浮かんでしまう。うきうきした気持ちのまま、わたしは家を出た。

「……いい天気ですわね」
 空を見上げてみる。今日は神里さんに送っていただくのはやめて、歩いていこう。
 冬の空気は、何処までも透き通り、冷たい。まるで天まで見通せるように、遮るものはなにもない。
 毎年、そんな空気を感じるたびに、わたしはいつも大切な誰かのことを思わずにはいられなかった。
 ――透明。
 そこにいるということすら感じさせぬぐらい、当たり前に……生まれた時からそばにいた人。
 その人は7歳のクリスマス・イブの日、冬の海の中へと堕ち――わたしはひとり残された。その日から、当たり前はそうではなくなってしまった。
 なくしてからわたしを取り巻いたのは、自分でもどう扱えばいいのかわからないほどの、魂の飢餓だった。
 欠けてしまったカップがあれば、それを埋めるのはやはりそこから生まれた同じ欠片でしかない。けれども欠片はどんなに探しても見つかりはしない。ガラスの群れに手を入れて引っ掻き回したくさん傷をつくっても、決して見つかりはしなかったのだ。
 その欠片はもうないのだよ、と、周り全ての人間に言われることが、どれだけ悔しかったか……その言葉に引きずられて、諦めそうになる自分をどんなに憎んだか。
 だから。
 その欠片を再び見つけたことが、どんなに嬉しかったか――あなたはわかろうとも、しない。
 欠片は欠片だ。
 どんなに色が変わろうとも、お兄様、あなたがあなたである限り、わたしというカップを埋めてくれるのは、あなたしかいない。
 ……だからどうか、そばにいてください。もう、消えてしまわないで。

 3日ぶりに登校した学校で、2日ぶりに、わたしは双子のお兄様と会うはず、だった。
 けれどお兄様の姿は、教室にはなかった。休み時間のたびに鳴らす携帯電話もわたしとの対話を拒絶するばかりで……とうとう、午後からの授業をエスケープして、わたしはお兄様に会いに行くことにした。
 お昼休みも終わる頃、校舎2階の渡り廊下をほぼ走るように移動していたら、見知った顔が向こうから歩いてくる。一昨日お世話になった瑠璃さんだ。一言お礼を言おうと早足をやめて立ち止まったら、流れるように真横を素通りされた。声をかける間もなく、だけれどわたしの手の中には何故か風邪薬が手渡されている。
「あの、瑠璃さ……」
 声をかけてもダークブラウンのショートへアな後ろ姿は立ち止まらず、ただひらひらと手だけは振ってくれた。気づいてはいるらしい。
「???」
 風邪薬とその後姿を見比べながら、わたしは首を傾げる。
 まぁそれでも、瑠璃さんがくれたということは、風邪薬が必要な時が来るのかもしれない。釈然としないままで風邪薬をかばんに忍ばせると、わたしは下駄箱へと足を向けた。

 場所の関係で先にUGNの武蔵蓮沼支部に寄ることにする。昨日回収するはずだった資料を手にしておこうと思ったのだ。用意していただいた資料を受け取りすぐに出ようとしたら、受付の女性に呼び止められた。支部長の薬王寺さんが呼んでいるとのことだ。
「お呼びたてをしてしまい、申し訳ありません」
 支部長室にて、威厳を示すダークチャコールの大きな机に腕を乗せ、ぴりりとした表情でわたしを迎えたのは、その全てに不似合いな年齢の幼い体つきの少女、薬王寺支部長である。
「いいえ。どのような用件でしょうか?」
 軽く会釈をし、こちらは穏やかな笑みを浮かべこたえる。話が緊迫している場合も、そうでない場合でも、どうとでもつなげることができる表情だ。
「今日はお兄さんとは一緒ではないのですね」
「ええ、兄は研究所につめております」
 きっとそういったこともお見通しのはずだ、このノイマン純血種(ピュアブリード)の少女は。それでも笑みは絶やさずに、わたしは彼女のアイスブレーキングを受け入れる。
 薬王寺結希さん。
 若干14歳ながら、責任感がありコミュニケーション能力に長けた人だ、さすが支部長に任命されているだけある。確か、彼女はUGチルドレン出身であったはずだ。本当にどんな訓練を受ければここまでの統率能力を身につけることができるのか、興味はつきない。
 ああ、そういえば……お兄様も以前、UGチルドレンにまじって訓練していたと、おっしゃっていたなぁ、ふと、そんなことも思い出した。
「久遠寺叶歌さん、あなたのお耳には入れておいた方がよいかと思いまして……ご両親の入院されている病院にて、先日FHに買収された看護士が発見されました」
 冷静に正確に、落ち着いた声で伝えられた事実だが、わたしは眉をひそめざるを得ない。
「ファルス……ハーツ? 先日とは、いつのお話ですの?」
 穏やかではない内容だ。だが昨日お父様たちが元気だったのは確認済みなので、平常心は保つことは出来た。
「看護士を確保したのは3日前です。安心してくださいね、ご両親には危害を加えられた形跡はまったくありませんから」
 わたしの表情の変化を察知して、今度は薬王寺さんの方が穏やかに微笑み、続けた。
「この看護士自体もオーヴァードではありませんでした。彼女は入院患者の体毛を採取して、FHの者に流していたようです。取引の相手がFHということも、彼女には理解できていなかった様子ですが」
「まぁ、体毛……ですか?」
「はい」
 なにか研究や実験の材料として使用するのだろうか。果たして体毛からどんなことができてしまうのかがまったく判らなくて、もやもやと不安が暗雲のように立ち込めてくる。
 お兄様に相談したい。お兄様ならそういったことにはお詳しいはずだ。この先、どのような事態が予測できるのか少しでも判っていれば、より対処はしやすくなるはずで。
「あの病院でUGN関係者の肉親は、あなたのご両親だけでした。密かにUGNからは護衛をつけておりますが、叶歌さんも……そして遥歌さんもお気をつけください」
「兄が、なにか……あるのでしょうか?」
「いえ、特に遥歌さんが、というわけではありませんけれど……」
 彼女の言葉からの含みを感じて、わたしはつい鋭角的に反応を返してしまうが、それはセンシティブすぎたようで、薬王寺さんは僅かに戸惑いを浮かべた。
「…………」
 そして2人の間には沈黙が訪れた。
 話は終わってしまったのかもしれない。支部長もお忙しい身であろうし、と、引き際を感じたわたしは、再び穏やかな笑みを浮かべて、会釈をする。
「お気遣いを感謝いたしますわ、薬王寺支部長」
「叶歌さん」
 去ろうとするわたしを留めるように、薬王寺さんはわたしの名を呼んだ。
「久遠寺遥歌さんは……そうですね……お仕事に出られるたびに、新たな能力を身につけられています。まるで、必要な能力があればそれに呼応するように……」
 手元にあるのはこの間の報告書なのか、すでに全て頭に入れた上で彼女は更に続ける。
「素晴らしいことと思います。ただ……精神的に非常に不安定なのが、気がかりです。もしかしたら覚醒時に記憶をなくされていることと……あと…………」
 そこで彼女は言を止めた。なにかを飲み込むかのごとく。
「あと、なんでしょうか?」
 UGNの隠し事には不快な思いが強い。悪意はなかったのかもしれない、けれど過去10年もの間、彼らはわたしの前からお兄様を隠したのだから。薬王寺さんを敵に回すつもりはないので極力その感情は薄め、それでも引かせはしないというプレッシャーを彼女に投げて、わたしは静かに同じ台詞を繰り返す。
「あと、なんでしょうか? 薬王寺さん」
 はあ……吐息のように小さくも長い、ため息。
「……彼にはUGチルドレン時代に一度、記憶処理が施されています。私が知っていることは、それだけです」
 観念したのか重い唇を開け、わたしより3歳年下の少女はそう、教えてくれた。
「記憶……処理?」
 そんなことは初耳だ。お兄様からも聞いたことが……ああ、それは無理だ、処理が完璧であれば、本人が覚えているはずが無い。
 ――記憶処理。
 衝撃的な事象にさらされた場合、人は精神崩壊をも招きかねない。それを回避するため、UGNでは記憶を消去することがある。つまりこのことは、お兄様の身の上に過去、耐えがたいほどの苦痛が降りかかったということを示している、のだ。
 お兄様……。
「元々記憶をなくしていらした上に、重ねての記憶処理です。もしかしたらそれが、彼の精神が不安定であることにつながっているのかもしれません。あなたの手元にもある、昨日(さくじつ)の事件の報告書にも記されていますが、彼がFHの研究者と接触した際のやり取りの中に、その危うい兆候が見受けられます……私の思い過ごしなのかもしれませんが」
 わたしはその書類が入っているバックをぎゅっと抱きしめる。あとでしっかりと読まないと、けれどその前に、いま目の前にいるこの方に聞いてしまおう。気にかけてくれているのだ、彼女は。
「その兆候とは、具体的にどういったところでしょう?」
 わたしの問い掛けに対して彼女はもはや言葉をのむことも無く、答えてくれた。
「“複製体には記憶が無い”“記憶が無いものに、人格が存在するのか?”――彼はFHの複製体作成に携わる研究者に、そう問い掛けたそうです」
 少女の表情には、深い憐れみが刻まれている。
 そしてわたしの心には、憐れみよりもずっと強い……憤りを、刻んだ。

 挨拶もそこそこに支部長室を飛び出したわたしは、もう真っ直ぐUGNの研究所へと足を向けた。それはもうズンズンとはしたないぐらい大股で、一刻でも早くお兄様と顔をつき合わせるために、周りの人間が驚いて引いていても構わない勢いで。
 とにもかくにも、あの大バカなお兄様に色々と言って差し上げないと、こちらの気がすまない。わたしの頭にはもはやそれしかなかった。そうであるが故……急ぐのならば、運転手の神里さんを呼ぼうと思えないぐらいにまで、わたしは頭に血が上っていたのだ。
 そうして辿りついた研究所前で――わたしは会いたくて仕方がなかった人を見つける。
「あぁ、久遠寺かな……」
 入り口のガラス戸にもたれて手を振るお兄様の頬に、わたしは……。
 ごすっっ。
 まずは、思いっきり拳を打ち込んだ。


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