真冬の人魚姫

[Scene 1/Player 久遠寺遥歌/200X.01.17〜01.19]

 土曜日は起きてすぐに研究所に赴いた。
 特にやることがなく出てきてしまったので、研究室の部屋の整理をして過ごした。それも午後の早い内には終わってしまったので、昨日の作戦行動中に如奈さんが回収していた入生田さんの研究資料のコピーを取り寄せて目を通してみた。
 ……崩れ去る部屋の中、如奈さんも資料をつかんで逃げ出す余裕がよくもまぁあったものだ。なんだかんだと彼女は抜け目無い。とはいえ、アトランダムに引っつかんできた資料だから、残念ながら複製体の作成技術についての目新しい情報は無かった。
「だけど、UGNにとってはこちらの方が有効かな」
 適当に淹れた緑茶をすすりながら、別の紙を手に取る。そこにはいわゆる“コードネーム”というやつが、いくつか走り書きされていた。多分、入生田さんの研究を手にしたFHの研究者か、その研究によってコピーされたエージェントか……なんにしても複製体がらみには違いない。
「……“ファナティック・アルケミスト”て、どこかで聞いた名前……ああ、そうか。この間一緒に作戦行動を取った、笹山さんのコードネームが“ケイオス・アルケミスト”でしたっけ」
“混沌の錬金術師(ケイオス・アルケミスト)”とはよく言ったもので、笹山さんのシンドロームは、モルフェウスの純血種(ピュアブリード)だ。
 無意識にエフェクトを使用しては、多肉植物やら花やら紙芝居やらを作り出す。よくもまぁ一般人であるクラスメートにバレないものだと感心するが、もはや彼女の天然不思議少女ぶりに全てはひれ伏すというか誤魔化されるというか……。
 それでも、彼女のクラスであり他のUGチルドレンとしては天羽さん、更には僕と叶歌さんとあとはイリーガルとして大木さんがいる武蔵蓮沼高校の2年5組は、担任ですらオーヴァードの香坂先生であるという徹底振りだ。
 クラスで僕が記憶を取り戻していないと知っているのは、そのオーヴァードの5人だけだ。なので、学校ではそれなりの“兄のフリ”をせざるをえない。僕にとっては苦痛を伴い、叶歌さんにとっては……どうなのだろう。
「呼び捨てにすると喜ぶんですよね、あの人は」
 僕からのよそよそしさが、寂しさを感じさせていることは、わかっているけれど。
「“ファナティック・アルケミスト”……ねぇ」
 笹山さんのコードネーム以外にも、まだひっかかるのでその名を呟けば、更に思い出した。その名前のFHの研究者は、随分前に叶歌さんが処理した事件の首謀者だ。
 ブラム=ストーカー・シンドロームの者の血液から、レネゲイト・ウイルスの活性化を促す薬品の大量精製を試みるため、大規模な誘拐事件を起こした女だ。叶歌さんと如奈さんと、あと1年生で隣の市の支部長の高橋さんが片付けたはず。
「ということは、随分古いデータみたいですね」
 見ていても大して得るものはなさそうだと判断をして、資料のコピーを机に放り込んだら、とたんに手持ち無沙汰になってしまった。やることがなくなると、体を強烈な眠気と虚脱感が襲う。頭を振っても虚脱感は消えない。けりをつけるように緑茶をあおってもまったくの無駄だった。
 ……仮眠室にでも行こう。
 昨日はやたらとレネゲイト・ウイルスに身を任せ、能力を使いすぎた。その割に家ではロクに眠れなかったので、未だ睡眠不足のだるさが体を取り巻いている。
 携帯電話を白衣のポケットに突っ込むと、僕は部屋を出た。
 普段は暖房を切ってある仮眠室は、誰も使っていない状態だとかなり肌寒い気温だ。シーツも冷たくて、まるで水に触れるようで。
 ……水は、嫌い、だ。
 広い水溜り、プール、海……足をつけるのすら躊躇うぐらいの、嫌悪、いや違う、恐怖……何処までも濃い群青の水底。
 記憶を辿ろうとすれば、頭を鈍い痛みが襲う。
 この半年足らずの間、なにかにつけて思い出そうとすることが、すっかり癖になっていた。しかしその行動はかなりの疲労を伴う。やめよう、ここには寝に来たのだから。
 肩をすくめて明かりを落とせば、白いシーツが一瞬藍色の光を反射した。濃い色のカーテンをひけば、昼間だというのに辺りは暗転する。本当に海の底のようで、一瞬嫌な気分に襲われるが、それでも簡素なベッドに身を任せ呼吸を整え目を閉じた。

…………
 人魚姫は海の底で、魔女の老婆と取引をする。
 ――お前はやがて死ぬ。
 死にたく、ない。
 ――死にたくない理由を述べよ。
 約束、守らな……きゃ。
 ――約束?
 おいていかないって……約束した……から。
 ――では生きろ。人ではなくなるが、お前にはその能力がある。
 のう……りょく?
 ――力の覚醒を呼んでやろう。かわりに、お前の大切なモノが失われるが、それが選択というものだ。
 大切な……者、叶歌? それは、いや。だったら、僕が死ぬので……いい……よ。
 ――叶歌、か、では、お前の中からそれが失われるのだろう。安心しろ、その者が死ぬわけではない。
 いや、だ。
 ――目覚めよ。
…………

――ッ!!」
 ……そんな台詞に急かされて、跳ね起きた。声の主を探して辺りを見回したが、誰もいない。それでようやく夢だったと知る。迷惑な夢だ、もう少し眠っていたかったのに。よほど嫌な夢だったのだろう、やたらと寝汗をかいていたようで頬の辺りがぐっしょり……。
「あ……れ……?」
 ごしごしと、無意識にぬぐう位置が瞳になる……それは、汗ではなくて涙だったから。悲しいとか悔しいとか寂しいとか、そんな涙に直結する感情は無いというのに、零れ落ちる涙が止まらない、だから僕は困惑するだけで。

 ♪ lalala〜la rilalarialal ........

 自分の感情を扱いそびれている時に、タイミング悪く携帯電話が鳴る。この音楽は叶歌さんだ。少しだけ居留守を使うか迷い、そういうことをして研究所に押しかけてこられた過去を思い出す。仕方ない、乱暴に白衣を引き寄せて携帯を出すと電話に出た。
『お兄様。今日は何時ごろに帰られますの?』
 受話器からおっとりした声が零れてくる。高くも無く低くも無く、歌を奏でるに向いた……簡単に言えば耳に心地よい、叶歌さんの声だ。
「今日は、帰りません」
 無意識の涙でしゃくりあげる喉では、短くそう答えるのがやっとだった。
『……お兄様ぁ』
 叶歌さんの声がとたんに拗ねたような色を帯びる。帰って来い、そう言いたいのが言外にも伝わってきた。機嫌に応じてそれなりになだめる言葉も用意はするが、今はそんな余裕はゼロだ。
「明日も泊まりますから、食事はいりません。では月曜日に学校で」
 深呼吸ひとつして呼吸を落ち着けると、早口にそうまくし立てる。直後、電話を切ろうと耳から携帯を離すが、気遣うような声が耳にかかった。
『お兄様、昨日……お仕事で何かあったのですか?』
 ほんの僅かな会話の中で、そこまで見透かされてしまうのか。自分の感情をコントロールできない腹立ちの中に、ほんの少しの喜びが入り混じる。
 喜び?
 そんな気遣いは、受けてはいけない。何故なら僕が彼女の兄のオリジナルであるという確証は……どこにもないから。
 ――また理由が見つからない、そんな涙が零れだす。
「……少し、ほっておいてください」
 辛うじてそう呟くと、今度こそ携帯電話を閉じた。更には電源を落とすと白衣ごとベッドに投げ出して、僕自身は再び白のシーツの上に横たわる。体温を吸ったシーツは生暖かく、今度は嫌な夢を見ないかもしれない。どうせ急ぎの研究は無いのだ、また眠ろう。
――――
 まだ眠り足りない、そう思い込もうとしても一向に睡魔は訪れず、ただ頭上に降り注ぐのは、言葉を選べなかった自分に対する後悔だけだった。

 日曜日。
 携帯の電源を落としたままで研究所で過ごした。実験の管理で日曜日は誰かしかが当番で出てくるのだけれど、今週は僕が交代をかってでたのだ。
 殆ど人がいない研究所で、部屋から部屋に渡り歩き実験の管理をするのは嫌いではない。
 そういえば、ここに来る前も研究所での土日の実験管理は僕の役目だった。簡単な事だ、日曜日には大抵の人間は何か予定があって、僕にはそれが無かった。何らかの役割を与えられて、それを果たせると人は精神的に安定する。僕の場合それは研究であり、休日の実験管理でもあった。17歳という年齢に反して、研究員としてのキャリアは結構長い。確か、5年……いや、もっとか……実はこの辺りの年数も曖昧だ。
 海難事故のあとUGNの東北支部で拾われて数年は、UGチルドレンとして訓練していたらしいが、エージェントとしての資質がないと判断され、代わりに出入りするようになったのが、同じ東北支部の敷地内にある研究所だった。この辺りのことは割と憶えている。どこぞの大学付属の小学校に編入させられて、午後からは研究所につめる日々で。そうそう確かその学校が結構遠くて通うのに苦労したのだった。
「エージェント予定で作られた複製体なら、とんだおちこぼれですよね」
 規則正しく1滴ずつ落ちる雫に計器の針もまた律儀に目盛りを刻む。それをほぼ自動的にメモしながら、口からもれるのは自虐的な愚痴。どうも最近は思考がマイナスの方向に走りがちだ。
 メモが終わったので、後片付けをして部屋を出る。今は夜6時で交代の泊り込みの職員がくるのが9時。あとは引継ぎ前に最後のチェックをするだけだから、しばらく手が空いてしまった。本当はもっと忙しくなりたいが、こんな時に限って仕事を言いつけてくれる室長もいない。仮眠室で寝るのももう飽きた。
 仕方無しに、僕はジュースの自販機の前に足を運ぶと、ミルクティを買った。口に含めばざらりと粉っぽくて安い甘さが広がる。こんなに不味い物だったか? と自問自答すれば、しばらくしてふと浮かぶのは苦笑い。
 ――ああ、そうか。叶歌さんの淹れてくれる紅茶に慣れてしまったんですね。
 あの人は紅茶が好きで、僕は緑茶が好き。だから毎日お茶の時間は変わりばんごに紅茶と緑茶。叶歌さんは瀬能さんの淹れる方がキチンとしていておいしいとゆずらないけれど、僕はあの人が入れる紅茶の方が好きなのだった。最近では、緑茶よりは無意識に紅茶を買うぐらいになってしまった。
 不意に、9時に引き継いだら久遠寺の家に帰ろうかなぁと考え始めてしまう。今日は帰るつもりは無かったのだけれど、ちゃんとした紅茶が飲みたくなった。
 我侭だ、僕は。昔からこんなに我侭だったのだろうか。謝る言葉も見つけていないのに。せいぜいが拳でこつんと殴られてから、許してくれると判っていても。
 なにより、記憶を取り戻すのを放棄しつつある僕が、叶歌さんのそばに行くことが正しいとは思えない。
 ため息を甘いだけのミルクティで流し込み、ゴミ箱に投げる。目の前のベンチに腰掛けて、頬杖をついて目を閉じた。
「複製体と決まったわけではない。叶歌さんならそう言って笑い飛ばすのでしょうね」
 ならば僕も努力を放棄せず、少し自分の記憶探しでもしてみることにしよう。
 ――始めから無いのかもしれないものを、探す旅は、暗く、昏く、闇い。
 なにを手がかりにすればいい? 叶歌さんの笑顔を? あの子は遠い昔、どんな顔をして微笑んでいたのだろう、どんな声で歌っていたのだろう?
 ……………………。
 歌が聞こえる、そう、女の子と男の子が歌う、歌。
「♪ ひとつめの言葉は、夢……眠りの中から……」
 愚か者のひとつ覚え、口ずさむ歌。
 所詮、残されているのはこれだけで、あとはなにも見つからないのだ。旅は同じ終わり方、半年繰り返した虚しい行為。自分が空虚な存在であると確認するだけの。
 すっかり体も冷えていて、じっとしていたら小刻みに震えている。時計見たら2時間以上経っていた、引継ぎまでもうすぐだ。
 今日は帰るのを諦めることにして僕は再び目を閉じた。白い四角の自販機が視界からかき消、再び目の前は闇に包まれる。
「ふう……」
 深呼吸ひとつ。
 ここから精神を持ち直すために、いつも試みている行動に移る。それは自分が辿った中で憶えている出来事の確認だ。一番古い記憶から辿り、自分が確かに存在してきたことを認識する。
 ――古い、記憶。一番古い……記憶。
 それは初めて東北支部の研究所に連れて行かれた、10歳かそこらの頃……あの時僕は…………。
「………………あ……れ?」
 瞬き。
 呼吸が、つまる。
 ガタガタと膝が笑う、震えが止まらない……これは冷たい空気のせいじゃない。
 どうして、今まで気づかなかったのだろう? 研究所に行く以前の記憶が無いことに。
 10歳か11歳か、とにかくそれより前……僕が“久遠寺遥歌”オリジナルだとしたら、7歳の時に命加さんに拾われて、UGNエージェントとしての訓練を受けていたはずだ。そう、そんな事実はある。けれどそれはあくまで“UGチルドレン”“訓練”という無機質な単語が浮かぶだけで、場景がなにひとつ浮かばない。
 ……誰と一緒にいたとか。
 ……どんな訓練をしたとか。
 色々色々色々……。
 探しても、見つからない。ひっくり返しても、出てこない。そこは――白い、なにもない、空虚の、白。
『研究所は、楽しい?』――命加さんの言葉、満足げな笑み、彼女に不似合いなぐらいの優しさで……これが最古の記憶。
 これ以前が、無い。
 あとは“歌”だけで。

 ――僕は、一体、何処から始まったのだ?

「……どうして? ……あれ?」
 駄目だ、まずい。泣いてる……こんなところを引継ぎの職員に見せられない。落ち着かなくては、そう、深呼吸を……。
 どんなに願っても混乱は止まらない。子供じみた嗚咽が漏れる。ああ、あとは堕ちていくだけだ。
 こういう時はどうすればいい? 自分ではどうにもならなくて、助けて欲しい……。
 誰に?
「…………かな…………た………………」
 制御不能の唇が呟く助けを乞う先は――記憶という人格固定の手段を失っていた曖昧な僕を見つけてくれた少女の名だった。

 そして月曜日。
 時を刻む壁時計の時刻は、3時30分。夕方か明け方かのどちらかで、それを判断するには材料が足りない。
 横向きの視線で、自分が横たわっているのだということに気づく。こすれる刺激は尖ったもの、これは久遠寺家の手入れが行き届いたシーツではない、な。
 灰色の壁。音は壁時計の秒針だけ。頭を動かすたびに、ぶよぶよとした感触……あ、氷枕?
 ……事態の把握に目を閉じて集中しようとしたら、頭をぼんやりとした鈍痛が襲う。寝すぎたときの不快感? いやちょっとだけ違う、な。
「くしゅんっっ」
 肺から吹き出すくしゃみで、やっと自分が風邪をひいてしまったのだと気が付いた。頭痛そして、額に手を当てれば微妙な熱さ、発熱。つまりは、昨日あのまま自販機前のベンチで眠りこけて、この仮眠室に運び込まれたというわけか。枕もとのサイドテーブルに、体温計と市販の風邪薬が置いてあるところを見ると、その時点で既に風邪の症状が出ていたらしい。
「引継ぎは……どなたでしたっけ?」
 引継ぎで昨日の夜来た職員、その人がここまで運んでくれたのだろう。
 ぐしゃぐしゃの髪をかきあげて考えてみるも、どうもうまく思考がまとまらない。ぼわぼわと揺らぐ視界がまともに考えることを阻害する。ああ、揺れるわけだ、首が据わっていない。
「これは……本格的に家で寝てしまった方がいいかもしれませんね」
 言葉にしたとたん、よけいにそう思ってしまう。
 無性に帰りたい、そう、叶歌さんの顔を見たい……ああ、会うのは無理だ。あの人に風邪をうつしてはいけない、喉は歌い手にとって命だから。それでも、どうしてこんなに会いたいのか。会いたい、会いたい、会いたい……。
 あ、だけど確か、帰りづらいことがあってここにいたはずだ。昨日と一昨日は何をしていたのだっけ? あああ、思い出すのが億劫だ……もうなにもかも。
 じっとりと汗ばんだシーツの寝床から出ると、無残にしわだらけな白衣を脱いで脇に抱えれば、たかだか1枚脱いだだけで寒気が背筋を駆け抜けていく。
「くしゅっ、参ったなぁ……」
 手にした風邪薬の錠剤を水無しでかじりながら、僕はふらふらとした足取りで仮眠室を出る。仮眠室は研究ブースと少し離れた場所にあるせいか人通りはさほど無く、人にあって挨拶するのは億劫な今の状態には幸いであった。
 熱に浮かされた頭の中は、帰り着くまでの徒歩30分の道のりに対する、げんなりとした感情が満たされている。だがその端々には……熱のお陰で、都合の悪いことをどこかに置き忘れることが出来た、というのもちらつく。追求するほどに頭はまわらないのは、これ幸いということか。
 ……駄目だ、どう考えても思考回路が一貫していない、壊れている。もう少しベッドで休んだ方がいいのだろうか。それでもここにいると世話をかけてしまうだろうし。
 とりあえず自販機前のベンチに腰掛けて、壁にもたれこむ。壁に頬をあてると、その氷のような冷たさが心地よかった。
「あらぁ……久遠寺……さん?」
 しばらく座っていたら落ち着いたので、喉の渇きを癒そうと自販機に向かい合った時、誰かに名を呼ばれた。聞き覚えのある女性の声だ。
「……桐生さんでしたか」
 声の主は、中学生といっても差し支えないぐらいに小柄で細身の少女で、桐生さんというここの職員だった。桐生さんは、僕と同じく武蔵蓮沼高校に通うオーヴァードで、研究者としても従事している。学年はひとつ下の1年生だったはず。
 つまり今は夕方の3時半ということか。学校はサボってしまったらしい、叶歌さんになんと言われるか……考えると気が重くなる。
「そばに寄らない方がいいですよ。風邪、うつりますから」
 冷たい烏龍茶のボタンを押すと、振り返らないままでそう続ける。
「えっと……久遠寺さん……ですわよねぇ?」
 そんなこちらの忠告も意に介さず、彼女はそばまで寄ってくると、下から僕の顔を覗き込んでくる。
「? どうか、しましたか」
 どちらかと言えば、彼女は人と人の接触が苦手な性質と認識していたが、その不躾な態度には少し戸惑いを覚えてしまう。しかし構わず彼女は瞳をぱちぱちと瞬かせると、怪訝さを貼り付けた顔で言った。
「あの……いつ、研究所にいらっしゃったのでしょうか?」
「昨日からいましたけど? ああ、一昨日でしたっけ……今日は月曜日ですよね」
 僕が返した質問に彼女は答える気は無いらしい。えっと驚愕の形に開かれた唇からは、何も出てこない様子だ。仕方ないので肩をすくめると、とうに取り出し口に出ていた紙コップに手を伸ばした。
「そうなのですか。では、わたくしの見間違いですわねぇ」
 しばしの沈黙のあと、まだ合点が行かないという口ぶりで、彼女は続ける。
「先程、久遠寺さんが妹さんといらっしゃったのを、お見かけしましたもので、てっきり……」
――?!」
 ぐしゃ。
 紙コップを取り落としたのは、風邪から来る手の震えではない、絶対。
 覚醒――風邪でぼけた思考回路が正常に書き換えられていく、感触。
“複製体”/“欠落ではなくて、最初から存在しない、記憶”/“空虚の、白”
「あらあらぁ、零れてしまいましたわぁ」
 床に広がる茶色の液体を、小さな足が避けるようにあとずさる。そんな彼女に、視線は床のままで低い声で問い掛けてみる。
「桐生さん……いつ、どこで……叶歌さんと僕をごらんになりましたか?」
 僕は研究所にいた、ずっと、土曜日からずっと、研究所に、イタ。
 確か土曜日に叶歌さんから電話が来て、また彼女との対話を拒否して、いやそれ以前に僕は――僕は、一体、何処から始まったのだ?
 思い出すな、不毛な思考回路を、記憶が無いなんて、嘘だから。ちゃんと存在している、僕は、ちゃんと、ここに……いる、
「はぁ。本当につい先程、研究所の前でですが……とても久遠寺さんと妹さんに似てらしたので、てっきり……」
 ……よね? 叶歌……さん。
 桐生さんの言葉の続きはもういい。そして自分の体調を省みず僕は廊下を駆け出す。行く先は、研究所の前――そこにいる、叶歌さんと“久遠寺遥歌”を確認するため。

 例えそれが、全ての終わりにつながるのだとしても。


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