真冬の人魚姫

[Opening/Player 久遠寺遥歌/200X.01.16]

 薄暗闇――
 無機質なディスプレイがちらちらと瞬き、不確定な光を撒き散らしている。側面には柱のように透明の筒が規則正しく左右に並ぶ。うち2つには男と女が1体ずつ、どちらもまだ若い外見をしている。床には雑にばら撒かれた書物と、重要なのかどうでもいいのか白い紙に綴られた論文が足の踏み場も無いぐらいに敷き詰められている。
そのちょうど中央に、白衣に身を包んだ男は、いた。
突然の侵入者たる僕たちには背を向けたままで、男はのどかともいえる音調でしゃべる。
「あぁ、よくここまで辿りついたなぁ」
 男の名は、入生田成瀬(いりゅうだ・なるせ)――異端とも言える“クローニング”の論文を発表し、奇人扱いのまま表舞台の学会からは姿を消す。その後、FHを資金源として、爆弾などに利用可能な状態へのレネゲイト・ウイルスの圧縮、複製体作成技術についての成果をあげている男だ。
「こんばんは、入生田成瀬さん。既に研究は随分と進んでいらっしゃるご様子ですね」
 こんこんと、僕はガラスの筒を叩き彼の背中に言葉を投げる。ガラスを隔てた向こうには、一度だけUGNの作戦行動で一緒になった傭兵少女が、無表情に瞳を閉じている。
 事態は一刻を争う、そんな中での悠長な態度に仲間の1人から呆れたようなため息が出た。多分、如奈瑠璃(ゆきな・るり)さんだろうけれど、気にしない。
 僕は研究者として、いや……僕という存在として、問い掛けてみたいことがあったのだ――複製体作成の第一人者たる、この男に。
「ああ、お前がUGN側の研究者か……久遠寺遥歌(くおんじ・はるか)、だったかな?」
 キィ、と、錆びた耳障りな音で椅子をきしませ、中肉中背の男が体ごと振り返る。櫛を通していないであろうボサボサの髪に、青白い光を受けた白衣の腕が膝のところで組み合わされていた。
「お見知りいただき光栄です」
 僕は馬鹿丁寧な仕草で会釈をする。皮肉ではない、名前を見知られていたことは本当に名誉だと考えているから。
「最近俺について色々と調べてるやつがいると、小耳にははさんではいたからなぁ」
 視線を合わせもせず、男は拾い上げた論文に目を通す。振り返ったのはもののついでであったのだろう。世の動きに無関心な素振りで、その実詳細に情報は手元に届くようにしていたのだ。たいした人だと、尊敬はする。
「あなた個人に対しての興味ではありませんよ。ただあなたの研究テーマには興味はありますけどね」
「ふうん、そうか。で?」
 入生田さんは論文から顔を上げずに、さして興味なさげにこちらを促してくる。
「あなたは、複製体に人格はあるとお考えですか?」
 ぴくりと、僕の傍らで身をすくめるものの空気の揺れ。ああ、確か彼、天羽(あもう)さんは複製体の少年を拾い一緒に暮らしていたのでしたっけ。ナーバスな反応が14歳という幼さと、どれだけ複製体の少年を大切にしているのかを伺わせる。
 ……それでも構わず質問を続ける。これは自身を見つける問いだから。
「作られたばかりの複製体には、殆ど記憶が存在しないわけで。人格とは蓄積された経験によって作られると僕は考えているのですが……如何でしょう?」
 けだるさを感じてガラスケースにもたれれば、立ち込める薬液の香りが鼻を突いた。
「俺はそうではないと考えているよ」
 彼はあっさりこちらの意見を否定すると、組んでいた腕を解き空のガラスケースを示す。
「複製体は記憶が無くても、自分で考え判断し、独立して動いている。そうである以上、人格は存在していると思うぞ。まぁ若干はオリジナルの“行動傾向”と同じ方向へ行くようだがな」
 立ちあがり僕のそばまで来ると、彼は空になったガラスケースに手のひらをあて、こちらに向くとにやりと、笑った。
「……で、質問の解答はこういったところで良いのかな? “記憶喪失”の研究者くん」
「ありがとうございます。入生田成瀬さん」
 さすがだ。そんなことまで見透かされていたことに、もはや心地よさすら感じて僕はただ肩をすくめるだけ。
 それを皮切りに、後ろに控えていた天羽さんが進み出て、事件収束に向けての交渉を始めた――

 数時間後――
 事件は入生田成瀬の“体”の死亡という形で収束した。入生田は複製体をオルクスの能力で端末として操り、立ち回っていたらしい。僕たちとの戦いが不利と判断すると、端末と呼び捨てた自らの体を放棄し、オリジナルであろう意識体は何処かへと逃れてしまった。
 深夜1時を回る頃、UGNの研究所室長に対して報告を済ませ、僕は帰路へとついた。帰らずそのまま研究所の仮眠室に泊まるという手もあったが、叶歌(かなた)さんに帰ると伝えて出てきたのだ、そんなことをしたら次の日になにを言われるやら。
 ……結局、当日中には帰れなかった訳で、所詮彼女も寝ているのだろうし、帰宅することに意味があるとは思えないが。
 叶歌さん――久遠寺叶歌は僕の双子の妹、らしい。
 曖昧なのは過去の記憶が僕の中からごっそりと欠けているからだ。喪失したのか、最初から無いのか、僕にはわからない。
 もう半年近く前、あれは9月になったばかりだった。当時は歌片遥(うたかた・よう)と名乗っていた僕は、UGNがらみで叶歌さんと接触した。その後、紆余曲折を経て僕の名は久遠寺遥歌に変わり、彼女の元で暮らすこととなる――10年前の海難事故以来、行方不明であった久遠寺家の長男、久遠寺遥歌として。
 遺伝子的に見て、僕が“久遠寺遥歌”であることは間違いが無い。けれども幼い頃の記憶が無い僕にとっては、そうだと言われても“久遠寺遥歌”という存在は、遠い他人事でしかなかった。
 何歳(いくつ)からであったかは忘れたけれど、東北支部で御子神命加(みこがみ・めいか)というUGNエージェントの元、レネゲイト・ウイルスのコントロールやら、その内容の解析などに従事していたのが、僕“歌片遥”の記憶の全てだから。
 結局“久遠寺遥歌”として、ここにいるのも、UGNからそうするように指示を受けたからであって、僕の意志じゃない。ただまぁ、東北での今までの暮らしに拘るほどに思い入れがあるわけも無く、今の研究所の室長ともウマがあうため留まることは吝かではないけれど。 
 それでも、いきなり久遠寺家で家族の顔ができるほど器用ではないから、どうしても距離を置くように日常生活を進めてしまう。それが叶歌さんを寂しがらせてしまうことには気づいていても……記憶が無い状態で兄として振舞うのは、なんだか彼女に嘘をついているようで、僕自身が割り切れない。
 叶歌さんは出会ってすぐに、僕が兄だと見抜いていた。その理由は僕が“自分と兄と両親しか知らない歌”を知っていたからだと言っていた。

 ――その歌は、ただ1つだけ僕が憶えていた“記憶の欠片”だった。

 その他の部分が欠落なのだとしたら、取り戻したいと願って……いた、最初は。けれど今は……願っても取り戻せないのではないかと感じはじめている。
 そう、双子の妹である彼女と辿った半年の生活の中で、なにひとつ思い出せることは無かった。糸口はたくさんあるはずなのに、僕の精神の奥底には掠りもしなかったのだ。
 複製体は、通常オリジナルの記憶を殆ど持たない、だから……――今日の入生田さんとの会話で、ますます僕を追い込みだす、そんな思考。

 研究所から徒歩で30分、閑静な高級住宅地の中に久遠寺家はある。未だ入院中の両親(久遠寺家の当主とその妻、つまり叶歌さんの両親は、8月の終わりに事故に巻き込まれて大怪我で入院中である)を除けばこの家には、叶歌さんと執事の瀬能さんと僕しかいないから、広すぎるともいえる。
「もう寝てるんでしょうね」
 持たされている鍵で中に入ると、なるべく音を立てぬよう気遣いつつドアを閉める。1階台所は電気がついている。瀬能さんは起きているのだろう。そういった気遣いには未だ慣れることは出来ないから、気が重くなった。
 鉛のような重さを胸に2階に上がれば、冷えた空気の廊下で息を呑んでしまった。僕の部屋の前でドアにもたれ、毛布に包まった1人の少女が眠りこけていたからだ。
「叶歌さん……」
 ため息。
 僕の帰りをこんなところで待っていたのか。そうだ、この人はこういう人なのだった。
 いつから待っていたのやら、傍らに置かれたマグカップのミルクティは、とうに冷たくなっていた。起こしたものか、そのままベッドまで運ぶか……僅かな逡巡の後、手にもったコンビニの買い物袋を床に置くと、ゆっくりと彼女の体を抱きかかえる。
 丁寧にブロウされた素直な髪がさらりと揺れて、あまやかな香りを周囲に放った。
「ん……おに……い様?」
 毛布が床に落ちた拍子に、叶歌さんが目を覚ましてしまったらしい、薄っすらと瞳を開けて深夜の廊下の淡い光に明るい茶色の瞳をしばたかせた。相当長い時間待っていたのだろうか、普段は桜色の頬が寒さからか色をなくしている。
「つかまっていて下さいね。部屋のドア、開けますから」
 そうとだけ言って、バランスを崩さないように気を遣いながら彼女の部屋のドアノブに手をかけひねった。
「……お帰り……なさいませ」
 彼女はというと、僕の腕の中でほやほやと笑顔を見せる。まだ寝起きでぼんやりしている様子なので、そのまま続けて眠れるようベッドに寝かしつけた。
 必要最小限のものしかない簡素な僕の部屋と違い、叶歌さんの部屋は全体を暖色でまとめられ、彼女の趣味のものが品良く空間を彩っている。そこには17年間の軌跡が、ある。
「はい、ただいま。そしておやすみなさい」
 短くそう答えながら布団をかけ、背を向けたところで、コートの袖口をつかまれた。振り返ると穏やかに笑う彼女と目が合う。
「お仕事は、終わりましたの?」
 布団の中からの問い掛けに、僕は首を縦に振る。叶歌さんもまた、オーヴァードでありUGNの仕事を手伝うこともあるイリーガルだ。僕が今回関わった仕事のことも熟知しているので、説明はそれだけで事足りる。
「では、明日の土曜日は予定、あいていらっしゃるんですね?」
 そういえば、今日は金曜日にも関わらず学校の開校記念日で休みだったが、見事つぶされたのだった。
「……明日は」
 少しだけ考えてこう続けた。
「研究所に行きます。今日の仕事の後始末があるので」
 仕事自体は先程の報告で完了している。本当言うと、明日はなんの予定もない。だけど彼女から離れていたかったのだ、僕は。
「まぁ……そうですの……」
 寂しげに眉根をひそめられた。いたたまれなくて視線を逸らすと、袖口の手も解いた。あまり長話をしていると結局は眠れなくさせてしまう、そんなことを言い訳に。
「おやすみなさい。あと、手先が冷えて眠れないのなら、どうぞ。湯たんぽ代わりにはなるでしょう」
 ポケットに入れていた暖かい缶烏龍茶を枕もとに置くと、今度こそ背を向けて僕は部屋を後にすることにする。
「ありがとうございます……あ、お兄様」
 無愛想に振り切った僕の背中にかかるのは、それでも優しい旋律。
「……お帰りなさい」
 それはレネゲイト・ウイルスに侵された者たちが、ジャーム化せずに人として帰還した際におくられる言葉。そんな想いまでわかっていて、なにも答えず部屋を出たのは、今はその言葉が胸に痛かったから、だ。
「はぁ」
 自分の部屋に入ろうともせず、先程まで叶歌さんがいた場所に腰を下ろすと、手近なコンビニの袋から取り出したサンドイッチにかじりついた。冷えた物体は食の快楽を満たすことも無く食道を伝い落ちていく。
 思うことは今日の入生田さんとのやり取り……。
 ――複製体には記憶は無くても人格がある。
 ――僕は、人格を持ち、自分の意思で行動をする。
 ――複製体はオリジナルと同じ遺伝子を有している。
 ――戻らない記憶は、欠落ではなく、始めから無いものだとしたら?
 複製体に人格が無いのだとしたら、人格があると自分で信じている僕は、オリジナルであるとの確証が持てたのだろうか。
 世間にはひた隠しにされてはいるが、UGNやFHの生体技術の発展は目覚しいものがある。オーヴァードであり、ましてや過去に大事故に遭っているのだ“久遠寺遥歌”は。何処でどう拾われてコピーを作成されているやもしれない。
「……僕は、入生田さんになにを望んでいたのでしょうね」
 苦笑いしたところで、誰からも返事はない。今の入生田さんは、また別の端末と呼ばれる自分の複製体の中で研究に没頭しているのであろうし……もうひとり、この問いに答えてくれそうな叶歌さんは眠っている。
「僕が複製体だとしたら“久遠寺遥歌”の本体……オリジナルは、どこにあるのやら」
 自嘲気味に呟いて、目にかかる前髪をかきあげてみる。
“複製体”
 調べれば調べるほどに、踏み込めは踏み込むほどに、自分の存在は希薄となっていく。全ては記憶喪失によるものだ。いっそ入生田さんの如く記憶すら本体に塗りつぶされてしまえば、こんな思いもしなかったのだろうに。
「………………」
 冷えたパンを飲み下そうとして飲み物を探したら、先程叶歌さんに預けたのしか買ってこなかったことに気づく。仕方無しに階下に降りた。
 深夜まで起きていた瀬能さんは、なにも言わず僕に暖かいお茶を用意してくれる……そんな優しさを受諾する権利が自分の中に見つけられなくて、僕はただうつむくだけだった。


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