風色の翼≫霧の向こう

 何度目になるか。数えてもいないけれど、そろそろ両手の指では足りないはず。
 木々の合間を抜けつつ、思う。立ち止まってしまえば、もうこんなに苦しまなくてすむ
のに、とも。
 でも捕まれば、待っているのは死だ。だから逃げなくちゃいけない。誤解で殺されたの
では、育ててくれた母に申し訳ないから。
 そんなぐるぐる回る思考の渦にはまっていたせいか。
 反応が、遅れた。
「うぐ」
「きゃうっ」
 二つの悲鳴が重なる。間近に迫った樹をよけるだけで精一杯で、駆けてくる男には気づ
かなかったのだ。
 真正面からではなかったものの、ぶつかって立っていられるほど軽い衝撃でもなかった。
硬い革の鎧に金属製の胸当てをつけた男とでは、重量差は倍近い。脳震盪を起こさなかっ
ただけでも幸運と言えた。
 男は一瞬ふらつきはしたが、倒れなかった。体格と、鍛錬の差。
 すかさず振り下ろされる剣を、すんでのところで転がって躱す。が、反動で起き上がる
までがやっとで、続く横薙ぎの一閃まではよけきれない。
 血と髪が数本、舞った。人間の守護神たる神々がすまうという、双子の月の片翼を担う
赤の月よりなお紅い血。全てを歪ませ、狂わせ、不幸と悲劇をもたらすという黒の月より
なお深い髪。
「浅いかっ!」
 左腕をかすめただけで、致命傷には遠い。男は瞬時に見てとり、振り抜いた剣を強引に
引き戻す。
 振るのでは力は込めやすいが、どうしても動作が大きい。ならばと、切っ先を一直線に
向ける。突いた方が予備動作も少なく、確実とみたのだ。
 止めとばかりに放たれた必殺の一撃は、しかし当たらない。見切ったのではなく、疲労
が足にきて態勢が勝手に崩れただけだったが。
 だがそれは、偶然とはいえ命を救った。なまじ渾身の力を込めたために、剣はその先の
太い幹に深々と食い込んでしまった。いずれ抜けるだろうが、距離を取る貴重な時間を生
んだことには違いない。
 まだ、生きよということか。
 ごめんなさいと、結果的に身代わりになった樹に心の中で頭を下げて。
 悲鳴を上げる両足を、なだめすかして森のさらに奥へと向けた。

 滝壷の周囲には、まだ大きな岩がごろごろしている。
 その一つに、イリースは座っていた。
「母さま……」
 ぽそりと呟いたその言葉を、聞くものはいない。当の本人はといえば、口にしたことさ
え気づいていなかった。
 傷は出血の割に大きくなく、痛みもそれほどない。既に血は止まっているし、およそ二
巡り(14日)もすれば痕も残らず癒えるだろう。
 でも心の傷は、そうもいかない。
『お前の父は、決してゲルーシャなんかじゃないよ』
 母は毎日のように語った。もちろんそうだと信じている。だけど、周りはそうは見てく
れない。今日出逢った人間たちのように。
 ゲルーシャとは、黒き歪みの月を信奉する、かつては同族であったもの。であるがゆえ
に、憎悪は他の種族にも増して強い。不倶戴天の敵どころか、存在することさえ認めない
ものも多くいる。顔を合わせればまず確実に命のやりとりになるのが通例だ。
 黒き月の加護を得た彼らは、鮮やかに映える緑の瞳を失った。かわりに、崇める月に相
応しい漆黒の眼球を手に入れた。白目さえない闇のそれはすなわち、裏切りの証。
 イリースの瞳は黒かったが、眼球そのものがそうというわけではなかった。しかし不明
の父親が、実はゲルーシャではないかと疑う要素とは成り得た。本物のゲルーシャでさえ
あまり見かけない、瞳と同じ色の髪も、黒の月に魅入られているのではと思わせるに足る
事象であったから。
 偶然に過ぎないと弁護するものたちも、もちろんいた。けれど母はかたくなに父の名す
ら挙げることを拒み、ただ否定を続けるのみ。
 遠からずして、母娘は部族を離れた。自らの意思で。
『お前はエルファなのだから』
 何度聞かされたことか。
 疑うつもりは、毛頭ない。でもそれを、納得させられるだけの物証もない。だから他人
が信じてくれるかは、賭けだ。未だかつて、配当の生じたことのない賭け。
『そんな瞳をしたエルファがいるものか』
 表現こそ違えど、二言目にはそんな言葉が返ってくる。エルファは崇める月と同じ、緑、
もしくはそれに近しい瞳を有するものがほとんどだから。そう、たとえば母のように。ゲ
ルーシャと見紛うほど深く濃い闇の瞳をたたえるエルファは、部族の長でさえイリースの
他に知らない。まして本物のゲルーシャに遭遇したことのないものにとって、いかなる説
得が意味を持つというのか?
 賭けに破れれば、待っているのは剣の、ときには魔法の返礼。割りに合わないことこの
上ない。だからイリースは、諦めて逃げることにしている。戦って勝つだけの技はなく、
万が一にでも傷を負わせようものなら、誤解でない理由まで与えてしまうから。
 気がつけば、葉擦れのささやき一つにも脅える日々。豊かな森の恵みのおかげで生きて
はいるものの、何をしているというわけでもない。母の遺してくれた魔術書を読み進め、
ある程度扱えるようになりはしたが、それとても目的意識あってのことではなかった。
   みんな死んでしまうのに、どうして生まれてくるんだろう。
 ふと、そんなことを考えてみる。
 草木は虫を育み、虫は獣を育み、獣は死して草木を育む元になる。それが円環。
 エルファは陽当たりの悪い位置にある草木を移し変え、増え過ぎれば虫を殺し、数の減っ
た獣は狩らずに護る。円環を維持するために。それぞれ、役割を分担して。
 みんな、生きて、やることがある。
 母の氏族が成す役割は、心の救済。悩み、苦しみ、あるときは病にまで侵される精神を、
癒すこと。わたしもそうありたいと、母からいくらかの術を学んだ。
 だけど、出逢う相手にはことごとく敵視される。
 果たすべき役割さえ全うできない無力なわたしは、じゃあどこで何をすればいいんだろ
う。賞金稼ぎに捕まって、彼らの充足感を満たしてやればいい? それとも緑の月を捨て
て、本当にゲルーシャになってしまえばいい?
 違う、と思いたい。でも。
 円環のどこかに、わたしのいる場所は、ある?
 その問いに答えてくれる人は、いない。答えがどこにあるかもわからない。そして何よ
り、答えを知ることが恐かった。肯定意見は、思い浮かばないから。
 円環に貢献できるとしたら、それは……。
 よぎったイメージが言葉という形を取る、直前。
「ゲルーシャ、か?」
 男の声が、イリースの耳を打った。
 びくんと、身体が跳ねる。すぐさま声の方に向き直り、短剣を仕込んである左の籠手に
手を添えて、
「違います……」
 無駄とは思いつつも否定し、足を軽く立てる。男との距離はおよそ10メルー(約10メー
トル)あまり。不用意には動けないが、逃げられる可能性がないほど近くもない。いつで
も走り出せるように備えながら、イリースは男を注視した。
 年はおそらく、30代半ばから40になるかどうかといったあたり。重そうな革の鎧にがっ
しりとした身を包み、右手には森の中でも使いやすい程度の長さに抑えた抜き身の剣。見
るからに森での活動を想定した格好で、しかも年季が感じられる。猟師だろうか。
   逃げ切れ、る?
 背負っている弓が、一番の厄介ものだ。最悪、滝壷に飛び込んで川を下るという道を取
らざるをえないかもしれない。こんなことなら泳ぎの練習しておくんだったと、ちらりと
思う。今さら遅いけれど。
 男は数瞬、じっと目を見て  
「なら、いいんだ」
 剣を鞘に収めた。
   え。
 まさか信じるとは思っていなかっただけに、イリースは次の行動に困った。敵対的な挙
動に対しては、反応できるように身構えていたのだが。
「信じて、くれるんですか?」
 自分で言っておいて馬鹿なことを聞いている。そう思いはしたが、問わずにはいられな
かった。
「正直、完全に信じたわけじゃない」
 川辺に歩を進めつつ、男が答える。何気なさを装ってはいても、警戒を解いていないの
はイリースの目にも明らかだった。
「が、今のところオレを殺そうって意識はなさそうだからな……。ゲルーシャだと判断し
てつっかかって、返り討ちにあうのも性に合わん」
 腰に下げた水袋を外して、川に浸す。
「だから、信じたことにしておく。それだけだ」
 にやりと笑うその顔には、油断はないようだ。
 つまりゲルーシャだとしても、歯向かわないなら手は下さない。と、そういうことらし
い。少なくとも、イリースの能力を見切るまでは。
「そう、ですか……」
 納得した。むしろそんな理由の方が安心できる。
 張っていた肩の力を少しだけ抜いて、籠手から指を離した。どうやら不慣れな剣を抜く
必要はなさそうだ。エルファと認められなくても、命を狙われるよりは遥かにいい。
 いい、はずなのに。
 どうしてこんなに、胸を通り抜けていく風の音をうるさく感じるんだろう。なぜこうも、
斬るような痛みが心の臓を苛んでいるんだろう。服の上から押さえたところで、風の通り
道は埋まりもしない。
 水を詰め替え終えた男は、そんなイリースに目をやって、何かを言いかけた。が、開い
た口よりも早く空気を震わすものがあった。
 硬いもの同士がぶつかる音。続いて、何かが弾ける音。かすかな呻き声。
 視線をやると、木々の隙間からかろうじて人影が見えた。それだけなら、イリースはむ
しろ巻き込まれるのを恐れて逃げていたかもしれない。だがわずかに揺らめく炎まで目に
入ってしまっては、無視して立ち去るわけにはいかなかった。放置してもさして支障のな
い石畳とは違うのだ、ここは。
 二人が走り出したのは、ほぼ同時だった。

 そこで行われた戦いがどれほどのものであったかは、おびただしい血の量が何より雄弁
に物語っていた。胸焼けするほど強烈な匂いが鼻をつき、草木はどす黒く濁った赤で彩ら
れている。そこに倒れているのは、人間が三人と、化け物が一体。
 振り向いて走り去りたい衝動をこらえて、イリースは化け物に目をやった。体躯こそ蜥
蜴人であったが、イリースの胴回りほどもある腕は六本、それよりさらに一回り太い脚は
四本。鋭い鉤爪は鈍い銀色の光を放ち、血糊がそれを妖しく飾りたてている。半開きの口
からはやはり朱に染まった牙が覗き、黒光りするぬらりとした鱗は全身を覆い包んでいた。
無傷であればどれだけの戦闘力を誇ったか、想像するのも恐ろしい。まだ息はあったが、
黒曜石を思わせる瞳は急速にその輝きを失いつつあり、力を振るうどころか立ち上がるこ
ともできないようだった。傷口のほとんどが焼けただれていることから、先ほど見えたの
は武器に纏わせた魔法の炎のゆらめきだったのかもしれない。
 人間の方は、イリースを狙っていた一団だった。頑丈そうな鉄の鎧を着た男は、既に死
んでいるようでぴくりともしない。すぐそばに転がっている斧もその周囲も激しく変色し
ていて、どうやら一番の死闘であったようだ。
 逆に化け物と離れたところに倒れている男は、比較的傷も少ない。右腕には魔法の煌め
きを宿す腕飾りがあるところからするに、後方から呪文で支援する役割だったのだろう。
近づいてみると、わずかながら胸が鼓動しているのも見てとれた。致命傷となるほどの傷
痕も見当たらず、助かりそうだ。
「まずいな……」
 一方で、最後の一人を見ていた猟師風の男が呟く。そこで倒れているのは以前にイリー
スとぶつかった剣士で、こちらも生きているようだ。
 何がまずいのかと、イリースはそばに寄って、剣士の異様さに気づいた。
「……毒?」
 全身が小刻みに痙攣し、瞳孔は不自然なまでに大きく開かれている。呼吸は全力で走っ
たときとはまた違う荒々しさで、吐く息にはどこか腐臭じみた匂いが含まれていた。肩に
は噛みつかれたと思わしき傷口があり、他と違って血だけでなく紫を溶いたような鋼色の
液体が付着している。
「ああ。間違いない」
 顔にいくつか浮かぶ青紫色の斑点を指差して、男が説明する。
「この症状が出始めたら、長くは保たない。……あんた、解毒の術は?」
 イリースは首を横に振った。解毒どころか、傷口を塞ぐ呪文さえ知らない。
「……なら、仕方ないな」
 溜め息混じりに吐き捨てる。決してイリースを責めている口ぶりではなかったが、だか
らといってそれが救いになるわけでもなかった。
「解毒剤は……ないんですか?」
「ある」
 即答しておいて、男は苦笑いを浮かべた。
「あるんだが、場所は村のペローマ神殿だ。ここから往復するにしても、こいつ担いで走
るにもしても、時間が足りん」
「なら、わたしもらってきます」
 放っておけばいいのにと、思う。誤解でとはいえ命を狙ってきた、同族でもない相手を
助けてやる義理はない。ここで彼が死んでも、誰も責めはしないはず。
 だのにどうしてわたしは、そんなことを言ってしまったのだろう。
 男は一瞬訝しげにイリースを見たが、すぐに紙とペンを取り出した。
「神殿に着いたら、これを見せろ」
 頷いて、何言か殴り書きされた紙を受け取る。
「さっきの、川辺にいてください」
 それだけ言い残し、返答も待たずに走った。ここでは、場所が悪いから。
 川のそば、空が広々と見えるところで、イリースは足を止めた。そして、憶えたての呪
を紡ぐ。自らの姿を氏族が祭る祖霊と化す、本来であれば〈導き手〉と称される高位の者
にしか伝えられぬ技を用いるために。
 彼女が纏う姿は、鷹だ。
   時間は、どれだけあるんだろう。
 変化に伴う急激な虚脱感の中で、大事なことを聞き忘れたのに気がついた。だがそれを
確認に戻る時間さえ命取りになる、かもしれない。
 息を大きく吸い込んで、今や翼と化した両の腕を大きく広げる。風は幸いにも村向きだ。
高度を取れば、風に乗るだけでも相当の速度が稼げるはず。
 一度だけ深呼吸して、イリースは土を蹴った。

 火照った身体に、少し冷たい風が心地好い。
 イリースは大きな幹に背を預け、目前の光景をぼんやりと眺めていた。戻ってきたとき
には息をするのも苦しかったが、どうにか呼吸も落ち着いた。まだ身体中が悲鳴を上げて
いるものの、喘ぐほどの苦痛はない。
 薬が効いたのか、剣士は眠っている。飲ませる直前まで顔の七割以上を占めていた青紫
色の斑点は、もう半分もなくなった。呼吸も穏やかなもので、男の見立てによれば半日ほ
どで毒は抜けるという。もっともこれほどの怪我では、毒が抜けてもしばらくは歩くこと
すら至難の業だろうが。
 どうして彼を助けようと思ったのか、助かるとわかってようやく気づいた。
 認められたかったのだ。自分が何らかの役に立つことを。
 信じたかったのだ。自分が何らかの役に立てることを。
 それを利己主義以外に何と呼ぶのか、イリースは知らない。
「さて……あとはこいつらが目を覚ますのを待つだけだな」
 一通り手当てを終えた男が、こきこきと手を回す。
「オレは待つが。お前さんはどうする? 命の恩人だからな、結構な金になるだろうぜ」
 そうかもしれない。
 けれど、イリースは首を横に振った。
「この人のために、やったわけじゃないですから」
 お金なんて、もらえない。自分のために、身体を酷使しただけだから。
 それに  もっと重要なものを、もうもらったから。
 吹けば飛ぶような、わずかばかりの自信という名の夢を。
「……これから、どうする?」
 たっぷり二呼吸後。
 男は説得の言葉と意義を見出せず、話題を切り替えた。
「捜して、みようと思います」
 樹を支えに腰を上げ、少しだけ近づいた空へ目をやって。イリースは、答えた。一言一
言、自分に言い聞かせるように。
「わたしがいられる場所。わたしができること。わたしがしたいこと  」
   そして、わたしを必要としてくれる人。
 見つかるのか、そもそも存在するのかさえもわからない、あてのない目標。九割方待っ
ているのは絶望だと、恐れて目指すことさえ避けていたそれを、今なら追いかけられそう
な気がする。もしかしたらと、ほんの少しだけ希望をもっている自分がいる。
 悪夢でない夢も、あると思いたい。
「だから  森を、出ます」
 いつか、円環にわずかでも寄与できるだけの技と心が身につく日まで。
 空から男へと、身体の向きごと視線を移して、頭を下げる。意を伝える言葉が、湧いて
こなかったから。
 身体を起こすと、男は軽く左手を挙げていた。意図を計りかねて小首を傾げるイリース
に、同じようにと身振りで示す。
 こう? と挙げた手の平を、男が力強くはたいた。驚いて見上げた視線が一瞬絡んだも
のの、そのまま男は何も言わずに川辺に戻っていく。口元に小さな笑みを浮かべて。
 その後ろ姿に、気づかないと知りつつイリースも笑みを返した。まだ余韻の残る左手を
軽く押さえて、声はかけずに背を向ける。いるべき場所は、ここではないから。それがど
こかは、今はわからないけれど。
 歩き始めた少女の髪を、柔らかい風が揺らす。夜の闇よりなお色濃いそれが、歪みに捕
われた証でないことを、今は彼だけが知っている。

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