風色の翼≫序章

序章 かくて翼、集う


(飢えは生き物を狂わせるって、親父が言ってたなぁ。)
 2本の足を必死に動かしながら、オクシード・トリスは思い出す。彼の父親はすでに
月に召されて久しいが、言葉の一つ一つはオクシードの頭に焼き付いている。常に意識
しているわけではないが、こうした時にふと思い出すのだ。つまりは、実体験が伴った
時である。
 彼は、かれこれ1メイル(km)ほど走っていた。荷物さえなければたいした距離では
ない。体力には自信がある。だが、右手には父の形見であり、ジェスタ神の祝福を受け
たアックスを握り、左手には盾を持っている。そして何より、彼の身を守る金属鎧。そ
の重さときたら、子ども一人抱えて走っているようなものだった。走れるだけでも立派
といえよう。さすがに、その足は鈍くなっているようだったが。
「キャウンッ!」
 背後から衝撃が襲った。大きなものではなかったが、オクシードは舌を打つ。ちらり
と視線を移すと、野犬がざっと10匹以上。これでも半数近くに減っていた。にごった
唾液を撒き散らしながら彼の後を走っている。いや、もう追い抜かれるか。
「なっ……!?」
 わずかな痛みが左手に走る。一匹の野犬が、自らの牙が折れんばかりの勢いでかみつ
いたのだ。すべての力をかけたのであろうその牙は、時には剣の一撃すらはね返すはず
の鋼を食い破った。オクシードの身体を傷つけるには至らない。しかし重みがバランス
を失わせる。
 ぐらりと、体が傾いた。
 野犬が一斉に飛びかかる。
(やばい……!)
 喉元めがけて迫り来る牙。とっさに盾を動かそうとするが、左手の重みはまだ消えて
いなかった。動けない。右手のアックスでは間に合わない。
 思わず目を閉じそうになった、その時。

 ヒュッ……!

 鋭い音が空気を切り裂く。
 目の前の獣に深々と刺さる、矢。
 生まれた一瞬の隙を、オクシードは逃さなかった。どんな時も諦めず勝機をつかむこ
と、これも彼の父親が語ったことだ。
 一歩踏み出し、バランスを取る。右手のジェスタ・アックスを大きく一閃。
「犬は犬らしく……。」
 赤いしぶきが飛ぶ。
「骨でもしゃぶってろ!」
 数さえ多くなければ、野犬など恐れるほどの敵ではない。オクシードは防御を鎧に任
せて、斬りまくった。時折かすめる痛みは無理やり意識の外においておく。渾身の力で
斧を振るうたび、野犬は1匹、2匹と倒れていく。
 何匹かは、ようやく己が身の危険を感じて立ち去ったようだった。しばらく斧を振り
つづけてから、オクシードは回りに1匹の野犬もいないことに気が付く。
 途端に消える緊張感。体のどこかに潜んでいた疲労が一気に彼を襲った。足の力が抜
け、膝が地面につく。
(そうだ、さっきの矢……。)
 誰かが助けてくれたはずだ。礼を言わなければならない。だが、もう辺りを見渡す余
力もない。
「死んだの? …………無様ね。」
 遠くから、女の声がした。ずいぶんな言いようだと思ったが、答えるより早く、彼の
意識は闇におちた。



 眼を開いた時、最初に見えたのは白木の天井だった。
鎧の感触はない。肌に触れる布はさらりとして心地よく、自分の使い古した毛布でな
いことは確かだ。では、ここはどこだろう?
「ああ、よかった。目が覚めたのね。」
(違う……。)
 声に視線を動かしながら、オクシードは困惑を深めた。気を失う寸前、聞こえてきた
のはもっと……硬くて薄い鋼のような声だった。
 今、ベッドの横でこちらを覗きこんでいるのは、そんな危うさからは遠いところにあ
る微笑。銀色の長い髪は背中におろし、小さな顔を縁取っている。女性との付き合いな
どろくにないが、目の前にいるのは美人といわれる部類だろう。所作の一つ一つが上品
で、一瞬ここは貴族の屋敷だろうかと考える。それが錯覚であることは、すでに分かっ
ているのだが。彼女の背景は飾り気のない棚と木の壁と……つまり、彼が暮らしていた
のと同じような、ごく平凡な部屋だった。
 瞬きしたまま動かないオクシードを見て、彼女は穏やかな声で語りかけた。
「大丈夫。ここは、そう、まだ名前も決まっていない村なのだけれど……村の施療院よ。
怪我はほとんどないけれど、疲労がひどいようね。ゆっくり休んでいくといいわ。」
 彼女は沈黙を不安と解釈したようだ。微笑みとゆっくりした口調で状況を説明する。
「あ、はい。どうも……。あの、それで……。」
「ああ、名前がまだだったわね。私はラフィリア・ブルクスト。サリカ神にお仕えして
います。」
 ようやく上半身を起こしたオクシードにラフィリアが言葉を重ねる。だが、その内容
はまたもや彼の疑問とは別のものだった。
「あ、オレ……自分は、オクシードと申します。えっと、それで……。」
 かちゃり。
 彼の言葉は、今度は扉が開く音によってさえぎられた。しかし、それは彼の疑問に対
する答えをもたらすものでもあった。
「ラフィリア様、水、替えてきまし……。」
「ああっ!」
 扉の向こうから現れた人影を、オクシードは思わず指差した。
 落ち着いたというよりは抑揚のない声。ナイフの鋭さはわずかになりを潜めていたが、
確かにあの時聞いた声だ。
 年齢は自分と同じくらいだろうか、と見当をつける。頬にかかる赤い髪は不ぞろいで、
やはりどこか不安定さを感じさせた。体つきはあまりにも華奢。ぶかぶかの上着からの
ぞく濃紺のインナーはぴったりと彼女の肢体を包み、その印象を強めていた。ひょっと
したら普段つけている装備品より彼女は軽いかもしれない。
 瞳の色は……最初、よく分からなかった。こちらを向いていなかったのではない。形
のいい鼻に引っかけるようにして、色の入った小さな眼鏡をかけていたのだ。眼鏡とい
っても、どうやらガラスがはまっているのではないらしい。もし本物のガラスが入った
眼鏡ならば、レンズの片方だけでも彼の鎧を新調しておつりのほうが多い。彼女がかけ
ているのは、……たぶん、タマット神殿で売っているものだ。
(普通は、裏の人間しか使わないものだって……いやいや、必ずしもそうというわけじ
ゃないし。)
 と、そのサングラスはやはり小さかったのだろう、彼女の瞳が垣間見えた。オクシー
ドは息を呑んだ。高い空のように青く、夕日よりも赤い。妖瞳なのだ。青い右目と赤い
左目。主張しあう二つの色は、決して美しい取り合わせではなかった。均整の取れた目
鼻立ちすら異様なものに見せてしまう。これを隠すためのサングラスだったのか。
(でも……。)
 その色は、〈悪魔〉を破り、人間を導きたもう月の色ではないか。隠すことなどない
のに。
「……ラフィリア様、教授が畑のほうで待っています。」
 一人興奮するオクシードを完全に無視して、彼女は水の入った手桶をテーブルに載せ
た。
「ああ、そうだったわね。それじゃ、後をお願い。」
「分かりました。」
 やはり抑揚にかける声でうなずく。だが、それはいつものことなのだろう。ラフィリ
アは特に気にした風もなく部屋を出ていった。
 小さな部屋に、オクシードと彼女だけが残される。
「あ、あのさ……。」
 オクシードの言葉など聞こえないかのように彼女は寝台から3歩ほど離れた位置に下
がり、棚に寄りかかった。いつのまにか手にはクロスボウが握られている。
「き、君が助けてくれたんだよね。その、弩(いしゆみ)で。ありがとう。おかげで助
かったよ。オレはオクシード・トリス。よかったら……。」
「別にあなたのためじゃない。」
 きりきりと弦を巻く音。視線はこちらを向かない。弦の張り具合を確かめるように指
ではじく。
「ラフィリア様のお言葉に従っただけ。」
「でも、助けてくれたことには変わりないよな。じゃあやっぱり礼は言わなくちゃ。」
 笑顔と共に紡ぎだされたその言葉に、初めて少女の双眸がオクシードを捕らえた。ほ
んの一瞬だけ表情が動いた、ような気がした。ふいと彼女は再びクロスボウに目を落と
す。
「……ラフィリア様は、なんて?」
「え、ゆっくり休んでいけって言ってくれたけど……。」
「………………そう。」
 呟くようにいうと、クロスボウを窓に向けて一度構える。気がつくと、そこには1本
の矢が装填されていた。
「ただし。」
 赤と青の瞳が鋭さを増した。引き金に指をかけたクロスボウがオクシードを正面から
とらえる。
「ラフィリア様に害を成すときには、命はないから。」
「そんなこと、するわけないだろ!?」
 驚きと武器を向けられた焦りで声が大きくなる。何を心配しているというのだろう。
心底から声を張り上げるオクシードの否定を聞くと、彼女は「それならいいけど」とだ
け小さく呟いた。
 彼女の行動は明らかに無礼であったが、詫びるでもなく友好的な態度に移るでもなく、
彼女はそのまま立っていた。その態度があまりにも板についているので、当然のことの
ように感じてしまう。オクシードの言葉は、なぜか控えめな口調になっていた。
「あの、それで……名前、教えてくれないかな。よかったら。」
「何故?」
「え、いや、まあその。せっかく知り合ったんだし、記念っていうか、助けてもらった
のに名前も知らないままっていうのもなんだし、ほら……。」
「荷物、棚の中だから。服は洗っているから明日までそれ着てて。」
 言い募るオクシードにそれ以上の関心を払う気が起きなかったのだろう。それだけ元
気ならばついている必要はない、と判断したようだ。彼女は自分の言うべきことだけ口
にして、扉に向かった。
「え、あ、ありがとう。で、その……。」
「タリア。」
 扉が閉まる寸前に聞こえた、それが彼女の名前だと気付くのに、オクシードはたっぷ
り100数えるほどの時間をかけていた。

「あちらの畑に比べてここの麦は実入りが全体的に良くないようです。水路の整備を見
直したほうが良いかもしれません。それまでは難儀でしょうが水を汲んできてもらう必
要がありそうですね。まあ、乾燥には強いですから枯れる心配はないでしょうが。あと
肥料の配分も……。」
 手ぬぐいを首に巻き、腕まくりした農夫達は、目の前で土の様子を見る男に深くうな
ずいた。周囲の農夫達と違い、一人くすんだ色をした上着を着込んでいる。食糧班班長、
それがこの村での男の肩書きだった。しかしその諭すような口調と、幅広い知識から、
周りの人間は『教授』と呼んでいる。
「ヴァートさん、畑の具合はどうですか?」
 名前で呼ぶのは、彼女を含めて数名だろう。
「これはラフィリア様。お呼びだてしてすみません。」
 新緑の瞳が声の主を見上げる。膝についた土を払って立ち上がると、長く垂らした銀
の髪から長い耳が飛び出した。森の民エルファの証である。が、普通エルファは森の中
で独自の社会を形成し、人間社会と交わろうとはしない。
 彼は、素質を見出され、森から連れ出されたウィザードであった。白き輪の月より召
喚した〈天使〉の力を借りて魔術を操る者。ウィザードとして修行を積んだ時点で、見
た目が変わっていなくとも、彼はエルファではなくなったのである。それでも心に刻ま
れた自然を愛する心は失われなかったようで、今はこうして作物の面倒を見ている。
「ちょっと水路のほうに問題があります。収穫が終わって休耕地になったら整備したほ
うがよろしいでしょう。」
「そう……。ああ、確かにこのままでは水が来ないわね。この辺りは少し傾斜している
から。うかつだったわ。」
「しかし全体的には豊作といってよさそうですよ。天候は良好ですし、病気もありませ
ん。」
「ええ。サリカ神が見守ってくださっているのですね。収穫が終わったら感謝祭をしま
しょう。」
 安心したような口調に、ヴァートは曖昧な笑みでうなずいた。サリカは青の月に住ま
う豊穣の女神。ラフィリアの言葉は人間ならば当然のものであった。しかしウィザード
はいかなる存在も崇めはしないし、エルファは緑の月に祈るのである。とはいえ、どう
いう形にせよ自然の恵みに感謝するのは喜ばしいし、当然のことである。
「それでは皆さん。お仕事頑張ってくださいね。また見に来ますから。」
「はい。多すぎて困るほどに収穫して見せますから、期待していてください。」
「あら、それは楽しみだわ。」
「さて、それでは私は新しい水路の位置の案でも練りますか。」
 穏やかな笑みを残して去っていくラフィリアを見送り、振り返ったところでヴァート
は苦笑しつつため息をついた。こちらの仕事はいくらでもあるというのに、見向きもせ
ずに駆けていく人影が二つ。何やら衝突しているらしく叫び声が聞こえるが、その内容
は端から見ればひどくどうでもいい事で、遊んでいるようにしか見えない。
「水路の整備にはあの2人もぜひとも協力してもらうとしましょうか。体力があまって
いらっしゃるようですからね。」



 施療院の一室。
 テーブルの上に、朱と金で塗られた陶製の小さなポットと、取っ手のないこれも小ぶ
りなカップが並んでいた。ふるいをひっくり返したような奇妙な台の上に置かれたポッ
トからは湯気が立ち昇っている。
 少女の白く細い指がポットを持ち上げると、そろいの柄のカップに中の液体を注いだ。
かすかに緑がかった湯が二つのカップに満たされる。カップが温まると中の液体をふた
をしたままのポットに注ぎかける。ふたについた穴と隙間から湯が中に入り、茶葉が開
くと共に香りが広がる。しばらく蒸らした後、再びカップに中身を注ぐ。今度は琥珀色
の茶が現れた。
 カップのひとつを目の前の男に差し出す。見上げるほどの長身と引き締まった肉体。
青い瞳には不敵な色を浮かべている。異国風ではあるが上品で小ぶりなカップを手にし
た様子は、一見するとアンバランスな取り合せだった。
「珍しいじゃないか。とっておきなんだろ? これ。」
 カップを受け取った男が、立ち昇る香りに口笛を鳴らした。この辺りでは見かけない
形のティーセットも、琥珀の茶も大陸中央部で使われる品だった。ここファーネンス王
国は海に面し、大陸との交易もあるとはいえ、簡単に手に入る代物ではない。
 男の言葉に、少女はほんの少し、栗色の瞳に楽しげな色を浮かべた。白い指を棚に向
ける。棚に並んだ茶器の片すみに、真新しい袋があった。新緑の地に青いインクで大陸
の言葉が書かれている。
「ああ、新茶が手に入ったのか。いいね。」
 少女がうなずく。優雅なお茶の時間。時の流れが緩やかに感じる。……と。
『新入りが入ったって!?』
「いい男?」
「女の子だよな!」
 ばたーん!
 綺麗に重なった声と共に扉が大きく開かれた。まず顔を出したのは、秋だというのに
露出の多い衣装を纏った長身の女性。勢い込んで尋ねると、高く結い上げた黒髪の先端
が腰のあたりで元気に跳ね、青い瞳が期待に輝く。直後、彼女を押しのけた男も黒い髪。
つりあがりぎみな目元がよく似た二人だ。
「キャロル、ラディ……デリカシーとかプライバシーって言葉、知ってるか?」
「いい男と美味しいもの以外は興味ないっ!」
 キャロルと呼ばれた少女は、背景に朝日でも背負ってそうな勢いで断言した。それか
ら思い出したように人差し指を立てる。
「あ、ディーもかっこいいよ。」
「ふっ、当然。」
 ウィンクするキャロルに、彼――ディアーク・ブリュンヒルド――は鼻で笑って答え
た。それを聞いているのかいないのか、キャロルはディアークの腕を力いっぱい揺すっ
た。
「で、新入り君は?」
「女の子だよなっ!?」
「残念だったな、ラディ。ついでに新入りでもないぞ。タリアが拾ってきただけだろ
う?」
「なにぃ〜!?」
「そーなの? ま、何でもいいから何処にいるの?」
「二つ向こうの部屋。」
「分かった、ありがとー!」
 礼もそこそこに来た時と同じ勢いでキャロルは部屋を去っていった。当てが外れたラ
ディは頭を抱えて立ち尽くしている。が、ディアークの背後に座っていた栗色の髪の女
性に気がつくと、表情を一変させた。
「やあ、シェレルさん。『妹』がお騒がせしてすみません。それにしても相変わらずお
美しい。ぜひオレともお茶を飲んでいただけませんか?」
「コラ『弟』! お姉さんと呼びなさい。」
 飛び出していったはずのキャロルが顔を覗かせて再び去っていった。美人を目の前に
しながらも、その捨て台詞を甘受することは許されないものであったらしい。ラディは
思わずあとを追って駆け出した。
「何言ってんだ、妹。」
「お姉さん、でしょ!」
「妹だろうが! そっちこそ兄を敬え。」
「誰が兄なのよ……。」
 声は次第に遠のいていく。開いたままの扉を眺め、ディアークは肩をすくめた。
「せっかくの茶が冷めちまったな、シェラ。」



「はぁ。マジで男だよ。つまんねぇ……。」
「やほー! 元気ぃ〜?」
「…………え、あ。げ、元気っす!」
 突如乱入してきた陽気な女の声。共に入ってきた男は気の抜けた声をあげて姿を見せ
るなり立ち去ってしまった。なんだったのだろうか。疑問を抱きつつも、明るさを振り
回した挨拶をされ、オクシードはその場の勢いで返事をした。右手をチャッとあげて挨
拶……はいいものの。
「そっか、元気か。うんうん。」
 じぃっ……。
「な、何か用っすか?」
 入ってくるなり顔を見つめられて、混乱するオクシード。上がった右手を下ろすタイ
ミングを失ってしまった。で、彼女は一体何なんだ? 少なくとも施療院の人間ではな
さそうである。
 ふいに少女は満面の笑みを浮かべてオクシードの手を取った。無理やりその手を握手
の形にする。
「うん。よかったよかった。大歓迎。」
「あ、ありがとうございます!」
 ……よく分からずに返事をしているに違いない。
「私はキャロル。キャロル・バークレーよ。」
「あ、オレはオクシード……。」
「オックス君?」
「いや、できればシードって呼んでくれないか?」
「ふーん。ま、いいや。よろしくね!」
 太陽のように明るい笑みを浮かべ、キャロルは握っていた右手にもう一度力をこめた。
今度はオクシードも能動的に握手に応じる。
「ところで、さっき一緒に入ってきた人は?」
「ラディ? 私の双子の弟よ。」
「誰が弟だっ!」
 突然の叫び声に振り向くと、ベッド脇の窓から男が身を乗り出していた。黒尽くめの
服に黒い髪。双子だといわれれば誰もが納得するだろう。にぎやかなところも似ている
ようだ。窓から部屋に入ってきそうな勢いでオクシードに詰め寄る。
「いいか、オレはラディ・バークレー。そこのバカの兄だ。間違えるなよ。」
「間違えてるのはあんたでしょ。お・と・う・と!」
「いい加減にしとけ、妹!」
「……で、実際のところどっちが正しいんだ?」
「私よ!」
「オレだ!」
(訊いた俺がバカだったか……?)
 言い争っている当人達に尋ねたところで正確なところが分かるはずもない。オクシー
ドはそっとため息をついた。その耳に乾いた音が響く。
「あー、キャロル君、ラディ君。施療院ではあまり騒がないでくれたまえ。」
 既に全開の扉を律儀にノックした男は、法の神ガヤンの紋章を身につけていた。
 ノリと勢いだけで会話していたオクシードは、ようやく事態を説明してくれそうな人
物の登場にほっとする。
「あら、ごめんなさい。おじさま。」
 キャロルは綺麗に半回転して戸口に立つ男に微笑んで見せた。オクシードをつかんで
いたはずの手は素早く胸元で組まれ、小首をかしげた姿はなかなかに愛らしい。自分の
見た目を利用する事を知っているようだ。
 男も思わず苦笑した。
「分かったならいいんだが……。その『おじさま』というのは勘弁してくれないか? 
確かに君から見たらおじさんだろうが……。」
「だって名前の呼び捨てだと怒るでしょ? やっぱおじさまでしょ。」
 キャロルの言い分にため息をひとつつく。30代半ばと見えるその男は、誠実そうなま
っすぐな瞳が印象的だった。すらりとした立ち姿、隙のない振る舞い。身分のある立場
なのか、ひょっとしたら軍人なのかもしれない。
「オクシード君といったね。疲れているところを悪いが少し話をさせてもらってもいい
かな?」

 双月暦800年。後のグラダス半島の歴史書から言葉を借りるなら、『二十三国時代』
の末期。覇権を争い、復讐に燃え、大義を掲げ、さまざまな国家が興っては潰えた。23
というその数は最も多かった時の半島にあった国の数だという。
 しかし781年。半島の北東部にあった7つの国が協約を結び、ソイル選帝国が生まれ
た。突然の大国の出現に、周辺の国々は恐れを抱き、対抗すべく合併・併呑を進めた。
それはソイルからもっとも離れたこの土地も例外ではなかった。
 グラダス半島南東部には現在3つの国がある。森と海に囲まれた豊かなるファーネン
ス王国、その北方に位置する小国、メイゼル王国、そして内陸のマルディエ帝国である。
この三国のうちで唯一完全に他国に囲まれたマルディエ帝国は、長い戦乱にあって自然
と好戦的な政治をとっていた。ソイルの脅威に対抗しようと、海沿いの二国を同盟では
なく侵略によって得ようとしたことからもそれは伺える。
 しかしマルディエによるファーネンス侵攻は決して芳しいものではなかった。ファー
ネンスは南と西を海、東をエルファの土地であるラジスの森と境しており、他国と直接
面した土地が少ない。そのため軍を集中させることができ、防御が容易なのである。軍
隊も優秀であり、むしろ侵略する側に回っていてもおかしくはなかった。そうなってい
ないのはひとえに数年前に即位した若い国王の考えにあった。
 国王フェルディ・ファーネンスは亡き先王と違い、温和な性格であった。戦争などせ
ずにすむならしないに越したことはない、重臣に向かってそう明言したほどである。そ
れが戦乱の世の中に良いか悪いかは判断する人間の立場によるところであるが、国内の
産業を強化することに力を注いだ政策は、農民達には受け入れられた。兵として借り出
されることが減れば、それだけ作物の収穫率が上がるのである。
 そんな国王のやり方に共感したのか否かは定かではないが、ファーネンス王国内に一
人の女性が立ち上がった。戦争のない平和な世界を目指して。生まれた場所が違おうと
も、崇める月が違おうとも、……分かり合いたい。
 何にも染まらぬ心で。
   ――何処にも等しく吹き渡る、色なき風のごとく。
 平和を目指して羽ばたく。
   ――すべてを包む、優しき翼で。


 女性の名は、ラフィリア・ブルクスト。
彼女が作った組織の名を『風色の翼』という。
「我々の組織はまだ小さい。ラフィリア様の志を理解してくれるならば、ここに留まっ
てもらえないだろうか?」
 真正面から見つめられて、オクシードは自問した。親父ならどうしただろうと。答え
が出るのは早かった。それに……。
「あの子……タリアも?」
「ああ、彼女は創設当初からラフィリア様のそばにいるよ。」
 この言葉で、決定だろう。
「それで、どうかな?」
「はい、よろしくお願いします!」
 『風色の翼』に、新たなメンバーが一人、加わった。

CONTENTS][NEXT