Symphony or Damn≫道化師の仮面



   大通りから少し外れた、人気のない路地裏。
   ジャグリングの練習をする道化師と腰かけてそれを見守る少女。
  少 女: あなたっていつでも笑ってるのね。
  道化師: 皆に、君に、笑っていて欲しいから。
  少 女: 今日、私約束の時間に遅れたわ。怒らないの?
  道化師: 怒らないよ。
  少 女: 今日、パイを焼くのに失敗したからお弁当つくるのやめちゃったの。
      怒らない?
  道化師: 怒らないよ。
  少 女: 毎日、練習ばかりで辛くない?
  道化師: 辛くないよ。
  少 女: 明日、私ここに来ないかもしれないわ。そうしたら悲しい?
  道化師: (笑顔のまま)………………どう、かな。



 太陽が陰影も美しく、街と空をオレンジに染め上げている。通りに連なる露天商は
声を張り上げ、買い物かごを下げた女たちは声高に値引きの交渉をする。宿酒場は明
かりを灯し、この都市の一日はまだ終わらないことを告げていた。
 神殿から出たところで、ルディウス=ロッドは両手を上げて伸びをした。夕日に染
められて金の髪が鮮やかに輝く。ほう、と息を吐き出した彼の青く大きな瞳に、数人
の少女が走り抜けていくのが映る。
「ルディさん、今日はありがとうございましたぁ。」
「またよろしくお願いします。」
「あ、うん。さよなら。気をつけて帰るんだよ。」
 今日、呪文を教えた入信者の女の子だ。過ぎ去る背中に挨拶を返す。
 物語作家志望の彼。今日は書き上げた物語を持ってきただけで、見てもらったらす
ぐに帰るつもりだったのだが、常駐の高司祭にこれ幸いと講義を押し付けられたのだ
った。まあ無理もない。彼が信仰しているのは虚偽と伝承を司る神シャストア。有能
な信者は自らの手で物語を紡ぐべく旅に出る者がほとんどだ。つまり、神殿には人が
少ない。そこそこ呪文を習得していて、才能もある神官が暇そうにやって来たら、教
師を押し付けないわけがない。
 しかも彼は女性に物を頼まれると滅多に嫌とは言えない人物だった。高司祭様は当
然それもご存知で、ついでにもう一つ他の用事を頼まれたり。
 かくして、予定よりずいぶんと遅くなったルディである。
「うーん、まあいいか。どっかでご飯食べて帰ろっと。」
 もともと早く帰ったからといって予定があったわけでもない。呟きながら雑多な喧
騒の中に足を踏み入れる。『どこか』と言いつつ、彼の中ではすでに目的地は決まっ
ていた。マントを軽く翻してルディは歩き出す。と……。
「あの、困ります……。」
「いいじゃねぇか。俺たちと遊ぼうぜ。」
 品も個性もない。聞こえた男の声を、ルディはそう評した。剣呑な顔つきで声のほ
うを見る。建物の隙間、人の流れから取り残された場所にそいつらはいた。囲まれて
いるのは黒髪の美しい、おとなしそうな女性。三人の男に囲まれて、なす術もないよ
うだ。
 行き交う人々はそれに全く気付かないか、あるいは気付かないふりをして足早に通
り過ぎていく。自由であるがゆえに決して治安がいいとはいえないこのバドッカにお
いて、それはあるいは日常といえるかもしれない光景だった。この都市にいながら無
防備に歩いている方が悪いのだ。
 だが、そう割り切ることのできない人間だって、この街にもいる。法の神ガヤンの
信者だけではなく。……少なくとも今日は。
「その……ま、待ち合わせがありますから……。」
「へえ、それじゃそのお友達ともぜひご一緒したいね。」
「どんな娘なのかなぁ?」
「いつ来るんだろうね〜。」
 彼女がようやく搾りだした抵抗の声は、男たちのくだらない優越感を助長させただ
けだった。三人そろって、下卑た笑い声を上げる。そのうち一人の肩を、ルディは軽
く叩いた。
「こんな子だけど。何? 一緒に遊ぶ?」
 内面の怒りと不快感などおくびにも出さずにルディは微笑んだ。シャストアの信者
だけあって、演技は得意。街中で乱闘騒ぎなど起こしたくない。殴り合いは得意じゃ
ないし、そんなの美しくない。華麗であるべし、とはシャストア様の教えだ。女性に
害が及んでもいけないし、ここは穏便に済ませようと思った。
 突然の闖入者に男たちは驚いた様子で振り返ったが、その表情はすぐに薄ら笑いに
とってかわった。
「へへ、遊んでくれるのかい?」
「可愛い顔してるねぇ。」
「何して遊ぶ〜?」
「……………………は?」
 予想外の反応に、ルディは間抜けな声をあげる。そして男たちが言わんとすること
の意味を考え……。
 ぴき。
「おまえら、男と遊んで楽しいのかぁっ?」
「……へ? 男?」
 誰が? とまではさすがに口に出さなかったが。今度は三人組が呆ける番であった。
言われてみれば胸もないし、女にしては背が高いほうかとも思うが……高すぎると言
うわけでもないし(つまり男にしては低い)、その大きな瞳はやっぱり女顔だ。
 いまいち納得しきれていない男たちに向かって、ルディは努めて低い声で宣言した。
「そう、お・と・こ! まったくどこに目をつけてるんだか。分かったらさっさと消
えろよ!」
 こめかみをひくつかせながら、ルディは追い払うように手を振った。腹は立つが、
ここは女性の無事が最優先だ。
 しかし、ゴロツキ三人としてもここで引き下がれるはずもなかった。こんな女顔の
弱そうな奴に怖気づいたとあってはメンツに関わる。しかも三対一。相手がガヤンの
聖印をぶら下げているならともかく、ここで逃げるほうがどうかしているというもの
だ。
「けっ、カッコつけてんじゃねぇよ。女みたいな顔してるくせに。」
 だからそう啖呵を切った。そして、こんな頭の悪そうな奴に二度も馬鹿にされて黙
っていられるほどルディは温厚ではない。むしろプライドは高いほうだ。
(……絶対、泣かす。)
 心の中ではっきりと宣言する。ルディはわずかにうつむくと、怒りの表情のまま口
の端をかすかに持ち上げた。シャストアに仕える者の証であるマントを大きく払って、
両手を広げた。指先で、紡ぐべき赤の月の波動を手繰る。
「偉大なるかな、御身、夢に現(うつつ)を見いだし、現を夢となしたもう御方。」
 決して大きな声ではないのに、彼の声は男たちの耳に、何よりもはっきり届いた。
紡がれるのは神に捧げる祈りの詞。三人の顔から、さぁっと血の気がひく。
「ま、魔法……?」
 学べば誰でも使えるとはいえ、その習熟は容易ではない。一般人がそうそう扱える
ものではなく、また知識もない。何が起こるのか見当もつかず、三人の男は喉を鳴ら
した。その間も、ルディは歌うように彼の神への祈りを口にする。
「……願わくは、汝の力を鏡となして、我が心を現世に映し出さんことを。この手の
中に、赤く猛る炎を生ませたまえ……!」
 詠唱に続けて、術の名を叫びそうになるが、かろうじて心の中だけに止めておく。
どうも叫ばないとうまく魔法が使えない気がするのだ。小さい頃に読み漁り、舞台で
見た英雄物語の影響だろうか。ああいう話では、たいてい魔法使いは大きな動作で叫
びながら派手な呪文を打つのだ。しかし、現実はそうもいかない。とくに、彼が得意
とする呪文にとってそれは致命的である。
 ともかく、無事に魔法は成功した。ルディのかざした右の掌には炎が揺れている。
その出来に満足してうなずくと、彼はぐるりと男たちを見渡した。にっこりと、いた
ずらっ子の笑みを浮かべて。
「さて、どうするのかな?」
「う、うわ……!」
 どうするもこうするもない。火の玉なんか目の前に差し出されたら逃げ出すに決ま
っている。男たちは我先にと通りの人ごみに向かって走り出した。一様に顔を青くし
て、捨て台詞すら残さずに行ってしまう。
「は、つまらない奴ら。」
 肩をすくめてから、残された女性に向き直った。
「もう大丈夫ですよ。お怪我はありませんか?」
「え、あ、あの。それ……。」
 顔色をくるくると変えながら彼女は口をパクパクさせた。混乱した様子で、まるで
言葉になっていなかったが、ようやく震える指で一点を示す。ルディはきょとんとし
て、彼女が指すものを見た。掌に浮かぶ、炎の玉。
「ああ。」
 小さく笑うと、ルディは平然とした顔で燃え盛る炎に手を差し入れて見せた。その
途端、炎が掻き消える。
「幻ですよ。シャストアの御業(みわざ)を、見えたとおりに受け取ってはいけませ
ん。」
 だから術名を叫べなかったのだ。そもそも火の玉を出すような呪文なんてシャスト
ア神殿では高司祭にでもならない限り教わらないし、覚えたいとも思わない。知って
いたとしても、こんな街中で唱えるほど我を忘れはしない。今の呪文詠唱だってあん
なに長く唱える必要はなかった。ただのはったりだ。お前たちが相手にしているのは
魔法の使い手なのだと。虚偽を司るシャストアは、信者にありとあらゆる騙しの技術
を授けてくださる。演技しかり、幻の呪文しかり。
「まあ。」
 ほっとした彼女の口元に笑みがこぼれる。ふんわりとした、優しい空気に包まれる。
何だかくすぐったいような気持ちになって、ルディは慌てて言葉をつなげた。
「あ、えーと、落ち着かれましたか?」
「はい。……ところで私、あなたと待ち合わせをした覚えはないのですけれど、すみ
ません、どちら様でしょうか?」
 本気で転びそうになったルディである。
「いや、あれは助けに入るためのきっかけというか、追い払うための口実というか…
…。」
「あら嫌だわ、私ったら気がつかなくて。ごめんなさい。助けていただいてありがと
うございました。」
「あ、いえ。いいんです。そんな、別に謝ってもらうようなことじゃないし。そうだ、
よかったら家まで送りますよ。またあんなのに会ったら大変でしょう。」
 ルディの申し出に、彼女はちょっと困ったような色を瞳に浮かべた。
(そっか。これじゃ僕がナンパしてるみたいだ。)
 自分の台詞を反芻して、心の中で苦笑した。初対面の男に家まで送ってもらおうな
んて、そりゃあ普通は考えない。ただの親切のつもりだったけど、これは確かに警戒
する。それならガヤン神殿で警邏部の人に……。
「あの、お申し出はありがたいのですけれど、実は私、これから食事に行こうと思っ
ていたところで……。」
 ほーら、断られた。
「あ、そうだわ。どこかおいしいお店知りませんか?」
 あれ?
「それは……まぁ、知ってますけど。案内しましょうか?」
「お願いします。なにぶんこの街に来てから日が浅いもので。」
 その言葉を聞いて、ルディは納得した。バドッカの下町にいるにしては、この人は
すれていない。かといって、頭地区に住む金持ちのお嬢様が一人でこんなところを歩
いているとは考えにくい。よその土地から来たというのなら……それにしてもおっと
りしすぎているかもしれない。誤解されなかったのは嬉しいが、どうにも気の抜ける
相手だ。
 改めて彼女を見ると、まるで人を疑うことを知らない微笑を浮かべていた。
「まだ道案内を頼めるような知り合いがいないもので。助かります。あ、そうだわ。
まだ名乗っていませんでしたね。私、エレア=カルスと申します。」
「これは失礼。僕はルディウス=ロッド。ルディと呼んでください。」
 ふわりとマントを翻して一礼する。まるで芝居の一場面を切り出したような優雅な
動作だった。かと思えばおもむろに満面の笑みを向ける。
「僕は生まれも育ちもバドッカなんです。僕でよろしければいくらでも案内して差し
上げますよ。でもまあ、とりあえずは晩御飯ですね。」
「ええ。ありがとうございます。」
 小さく笑みを交わして、二人は歩き出した。大通りから少し外れ、住宅街へと向か
う道の途中。まだ通りの喧騒は伝わってくるが、多少は歩きやすくなる。目の前に、
木の看板がぶら下がっていた。『水晶の渚』亭。よくある宿酒場ではなく、地元の人
向けの大衆食堂のようだ。
 開け放たれた扉から、熱気と香ばしい匂いが手招きする。ルディはエレアを促すと、
家に帰るかのような気軽さで中に入った。
「いらっしゃ……! なんだ、ルディか。奥が空いてるぜ!」
 厨房から一人の男が顔を覗かせた。茶色がかった髪は短く刈り込まれ、料理人らし
い清潔な印象を与える。彼はルディに向かって叫びながらも手ではフライパンを返し
ている。夕食時だけあって、店はなかなか忙しいようだ。
「ありがと、クオ兄! よかった、早く座りましょう。」
「ええ。……あの、お知りあいなんですか?」
 言われるままに歩きながら、エレアが小首をかしげた。ちらりと視線が厨房に走っ
ている。
「今の? 僕の兄なんです。四人兄妹で、僕が三番目。」
「で、あたしが四番目のリディスフィアといいます。はじめまして。お店、混んでる
んで相席でいいですか?」
 ひょっこりと二人の後ろからエメラルド・グリーンの瞳をした少女が現れた。肩口
で切りそろえられた淡い金髪がさらさらと揺れている。身長こそエレアに並ぶほどあ
ったが、まだあどけなさを残す笑顔が、彼女がまだ子どもであることを示していた。
頭に巻いたバンダナと軽快な服装が活発さを物語っている。
「ああ、リディアも来たんだ……。一人で来たのかい?」
「うん、そうだけど?」
「もう日が暮れてるじゃないか。危ないだろ?」
「別に平気だってば……。」
「こら、おまえら。早く座らないと席取られるぞ。あと美人のおねーさんをほったら
かしにするのはよくないな。」
 言い合いになりそうなところで、先ほど厨房から顔を出した男が丸盆の縁でルディ
の頭をこづいた。
「! ク、クオ兄っ。今、角で殴ったな!」
「さささ、お嬢さん。どうぞこちらへ。」
「あ、はい。ありがとうございます……。あの、ルディさん大丈夫でしょうか……。」
「あ〜、もう平気平気。ちょっとなでただけで大げさなんだから。」
 かなり調子のいい事をいいつつ、クオ兄と呼ばれた男  クイナード=ロッド  
はエレアを席に案内した。その向かいに妹を先に座らせるルディ。まだ後頭部を押さ
えている。
「大丈夫か? ルディ兄さん。」
「うー、ありがと、リディア。……ま、確かにエレアさん無視しちゃったよね。すみ
ません。」
「いえ、そんな。お気になさらず。」
 どちらかというと兄妹のやりとりを楽しそうに見ていたエレアは、にこやかに首を
振った。そのやりとりの間にクオがコップに入った水を置いていく。
「さて、ご注文は? 何でもいってくれ。」
「ってクオ兄さん、厨房を開けていいのか?」
 この忙しい時間に。あきれた妹の台詞の、男っぽくくだけた話し方と生真面目な内
容の両方に対して、クオは肩をすくめて見せた。
「ま、あまりよくはないな。でもせっかくルディが綺麗な彼女を連れて俺の店にきて
くれたんだから、『きちんと』サービスしてやらないとな。」
「あ、いえ、あの……それは……。」
「違うよ、クオ兄。エレアさんとは今日会ったばっかり。変な奴らにからまれてたか
ら送っていこうと思って。」
「そそそ、そうなんです! ルディさんとは先程お会いしたばかりで、別に、そんな
……。」
 勘違いされたら迷惑だろう、とルディは語気を強めた。それにあわせてエレアが赤
い顔で力いっぱいうなずく。…………そこまできっぱり否定されると、ちょっと寂し
い。確かにそうなんだけど、そこまで必死にならなくてもいいのに。しくしく。
「ははは、そう落ち込むなって。」
「え、あの、私、何か悪いことしましたかしら。」
「いや、悪くないです、全然……。」
 とか言いながら、ちょっといじけたふりをしてみたりする。
「ちょっと店長、いい加減に厨房に戻ってくださいよ!」
 テーブルの間をくるくる動き回っていたウエイトレスが悲鳴に近い声をあげた。
「あー、悪い悪い。すぐ戻るって。で、注文は?」
「おすすめはないの?」
「ん? そうだなぁ、今日は海老のいいのが入ったから……。」
「て〜ん〜ちょ〜!」
「わぁかったって! それじゃ適当に作るぞ。そちらさんもそれでいいか?」
「あ、はっ、はい。」
 エレアがうなずくと同時にクオは厨房に戻っていった。途中でかけられる文句や世
間話に相槌を打ちつつ、注文を頭の中で繰り返し、ウエイトレスの非難の視線に謝罪
する。あわただしいことである。
「お忙しいときに来てしまって悪かったかしら。」
と、赤い顔をようやく元に戻してエレア。
「いや、エレアさんは客なんだからそんな気を使わなくても……。そもそもクオ兄が
厨房を抜けるのが悪いんだし。」
 人がいいのか、ちょっとずれているのか。判別に苦労するところだ。どうも調子が
狂うらしく、シャストア信者にあるまじき無難な答えを返すルディであった。
 妙な間があいてしまう。
「あ、そうだ。ちゃんと紹介しないとね。エレアさん、この子は妹のリディスフィア。
リディア、こちらはエレア=カルスさん。バドッカには最近来られたそうだよ。」
 場を取り繕うべく、ルディが立ち上がって互いを紹介した。それにあわせて挨拶を
する二人。
「はじめまして。リディアちゃんでいいのかしら?」
「リディでかまいませんよ。リディアなんて呼ぶのは兄さんたちだけ……というより、
兄さんたちだけで十分ですから。」
 エレアの言葉に、リディはきっぱりと言い放った。女性の愛称はア音かエ音で終わ
るのが一般的である。しかし、ここバドッカは新しく、さまざまなところから人が集
まった都市である。特に定まった慣習もない。わざわざ「リディア」などと呼ばれる
と、女であることを強調された気になって嫌だった。
「そう、分かったわ。よろしくね。」
「ありがとうございます、エレアさん。こちらこそよろしくお願いします。」
 握手する二人を見て、ルディは席についた。コップの水を一口飲んでから、思い出
したように隣の妹を見る。
「リディア、ファル兄は?」
「さあ? 家にはいなかったけど。」
「それじゃあ、またペローマ神殿に泊り込みかな。」
 長兄ファランディオの名に首をひねるリディを見て、吐息をつく。その様子に、エ
レアが瞬きした。
「そう言えば四人兄妹だとおっしゃっていましたね。ペローマ様にお仕えしていると
なると何か学問を?」
「言語学をやっているんですよ。あちこちの国の言葉の辞書を作るんだって。」
 知恵の双子神のうち知識と理性を司る神がペローマである。ペローマに仕えるもの
は正しい知識によって導かれた知恵こそが真実であり、世界を理解する手がかりだと
考える。自然、学者が多くなる。エレアの言葉もそこから来たものだ。
「辞書、ですか。すごいことをなさっているんですね。」
 微妙に歯切れの悪いエレアのもの言いに、ルディはくすりと笑った。
「共通語があって大陸中の人間は意志が交わせるのに、無駄なことをしてるなあっ
て?」
「あ、いえ。無駄だなんてそんな……。」
 否定の言葉を紡ぎだそうとする彼女をさえぎって、ルディが芝居がかった口調にな
る。
「いくら意志の疎通ができるといっても、その国の文化を知るには共通語は役立たず
といわざるを得ない。物語、詩、慣用表現などは原語であってはじめて分かる部分が
多い。共通語があるばかりに、我々はかえって互いの文化への理解を怠っているので
はないか? ……だそうです。」
 どうやら兄の口調を真似ていたらしい。
「その意見には僕も賛成ですね。物語を紡がんとする者の立場で言わせてもらえば、
共通語はどうしても美しさに欠けています。」
「なるほど……。興味深いお話ですね。」
「でもそれでひたすら家か神殿にこもりっきりというのは体に悪いと思うけど。」
 肩をすくめてリディが話を締めくくった。まるでオチをつけたかのように聞こえる
が、本人はいたって真面目である。
「ところでエレアさんは……あ、サリカ様ですか。」
 信仰する神を尋ね返そうとしたリディだったが、服のすみに縫い付けられた聖印に
気付く。白と黒に塗り分けられた円は、ガヤンやペローマと同じく青の月に住む、記
憶と信念の神サリカの印だ。
「ええ。前にいたところでは子どもたちに読み書きを教えていたんです。」
「それがまた、どうしてバドッカに?」
 ルディが興味を覚えて尋ねた。商売をしている人なら分かるけど、読み書きの先生
がわざわざバドッカに来る理由は思いつかない。
「父が怪我をしたので、看病に。父はバドッカの市場まで野菜を運ぶのが仕事なんで
す。」
「……ルディ兄さん。」
「あっ、ごめんなさい! 悪いことを聞いて……。」
「かまいませんよ。怪我といっても本当にたいしたことはありませんし。」
 立ち上がって謝罪するルディに、エレアは相変わらずの笑顔で答えた。そこへウエ
イトレスがテーブルの間を縫ってやってくる。
「おまちどうさま! 海老団子のスープとミックスフライね。…………ルディ。」
「何?」
 同年代の顔見知りなので気安いものである。皿を各人の前に並べながらウエイトレ
スがにやりと笑いかけた。
「両手に花ね。」
「………………片方、妹だけど。」
「アハハ、そりゃそうね。ね、このフライにはここの葡萄酒がぴったりなのよ〜。一
緒にどうかしら。」
「また、商売上手だねぇ。どうせおごってくれるわけでもないんでしょ。」
「やだ、ルディ。女の子におごらせるなんてあんたはまさかしないでしょう?」
「はいはい。しませんって。エレアさん、飲みますか?」
「あ、はい。ありがとうございます。」
「ちょっと、リディの分もちゃんとグラス持ってきたのよ?」
 既に3つのグラスを並べているウエイトレス。ちなみに未成年が酒を飲むことは禁
止されていない。
「いや、あたしは……。」
 嫌いというわけでもないけれど、あまり自分から飲もうとも思わない。そんなにお
いしいかなあ? というのが正直な感想だ。まあ、そんな子どものうちから酒の味に
目覚めるようではリャノの信者になったほうがいいかもしれない。
 両手を振って遠慮するリディに、ウエイトレスはグラスを突きつけた。
「私の酒が飲めないって言うの?」
 にっこり。何故に素面でここまでからむのか。相手はほとんど身内とはいえ一応客
である。
「え、え〜と……。」
「ああ、もう。リディアを困らせるなって。」
「ひどーい。なら私は困ってもいいっていうのね!」
「なんでそうなるんだよ!」
 女性に対しては今ひとつ強気になれないルディ。ゆえにどうしても遊ばれがち。は
っきり言って無茶苦茶である。
「あーもうっ! クオ兄! ちゃんと店員の教育しといてよっ。」
「あ、あのう……やめてあげてください。嫌がってるじゃありませんか。」
 泣き言が入りだしたルディを見かねて、エレアがおずおずと切り出した。大げさな
動作で嘘泣きしていたウエイトレスは、ぴたりと動きを止めると、きょとんとした顔
つきで自分に声をかけてきた女を見る。
「あ、あはは。冗談よ、冗談。あー、びっくりした。リディみたいな反応するのね。」
 いきなり引き合いに出されて憮然とした顔をするリディ。
「生真面目だってことよ。うん、仕方ない。綺麗な彼女に免じて勘弁してあげよう。」
「だから、彼女じゃない……。」
「なんだ、お前ら。ずいぶん盛り上がってるな。のけ者にするなよ。」
 前掛けで手を拭きながらクオまで出てきた。気が付けば周りのテーブルはほとんど
空になっている。一体どれだけ話し込んでいたのやら。
「おいおい、そのスープは新作の絶品なんだぜ。冷めないうちに喰ってくれよ。」
 まだ一口も手をつけられていない皿を見てあきれ返るクオだった。
「あ、すみません。いただきます。」
「……店員のせいだよ、クオ兄。」
 ルディが大きくため息をつく。

 …………出会いは、そんなものだった。




「で、ここがシャストア神殿。小さいけど舞台もあるんですよ。」
「ずいぶんとにぎやかなんですね。」
 翌日。ルディはエレアを連れてバドッカの市街を歩いていた。彼らが住んでいるの
は顔の形をした都市の右目にあたる部分。名前もそのまま右目地区。一つの地区だけ
で街としては十分な大きさがあるため、とりあえず近場から案内することにした。
 シャストアの分神殿の前には、次の巡りにやる芝居の立て看板が大きく場所を取っ
ていた。『道化師の仮面』というそれは、どうやらこの神殿オリジナルの脚本らしい。
「お芝居があるんですね。大きな街だとやっぱり面白そうなことがたくさんだわ。」
「芝居に興味があるんですか?」
 看板の前で立ち止まるエレアに、少し嬉しくなるルディ。
「興味というか……あまり見たことがないので、どんなものかと。」
「それなら今度ご招待しますよ。」
「あ、そういえばルディさんはシャストア様の信者でしたね。ひょっとして、出られ
るんですか?」
 期待と感心の眼差しで見つめられて、ルディは苦笑いした。
「まあ、端役ですけど。昨日来たらいきなり頼まれちゃって……。」
 演技については学んだが、演劇にはあまり今まで参加しなかった。あくまで目指し
ているのは作家だからだ。ところが、今回、急に人が足りなくなったらしい。しかも
ルディがいつも世話になっている高司祭が監督だった。彼が駆り出されるのは必然と
いえよう。
 頼まれて承諾したものの、今ひとつ乗り気になれなかった。だがそんなルディの心
境に気付かず、エレアは単純に感心していた。
「私、きっと見に行きますね。」
「それならあとでチケット差し上げますよ。」
 わずかとはいえ芝居に参加するし、まがりなりにも神官である。チケットの一枚や
二枚、簡単に融通できる。
「いいんですか? ありがとうございます。楽しみだわ。」
「喜んでもらえると僕も嬉しいです。ま、僕は本当にちょい役ですけど。」
 そんなに期待されても急場しのぎで駆り出された『その他大勢』に過ぎないんだけ
ど……。それでも見に来てくれるといわれると嬉しいものだ。……うん、かなり嬉し
いかもしれない。
「じゃ、その話はまたあとで。次はどこに行きましょうか。サリカの分神殿はさすが
にもう知ってますよね。」
「ええ、父もお世話になりましたから。」
 サリカ神殿は教導所と集会所としての役割のほかに、施療院の役目を果たしている。
双子の月におわす主要八神の信者で神官のうちから治癒魔法が使えるのはサリカ信者
だけだ。
「そう言えば僕がエレアさんを連れまわしててよかったんですか?」
「大丈夫です。こっちに来ているのは私だけじゃありませんから。父の怪我にかこつ
けて皆で出てきたんですよ。」
 ほころぶ口元に手を当てながらエレアが答えた。その分だとどうやら父親の怪我と
いうのも本当にたいしたものではなさそうだ。ルディはつられて口の端を持ち上げる。
「それじゃあ……。」
 続けて案内したのはガヤン神殿。もしバドッカに住むのであれば、入市税を納めた
り、戸籍登録に来ることになる。そうでなくとも何か問題が起こったときにはやっか
いになるかもしれない。場所を覚えておいて損はない。
分神殿とはいえ、スラムを抱える両目地区の神殿の規模はかなり大きなものだ。鎧
を着込んだ信者の出入りも自然に行われている。その中に、見知った淡い金の髪。
「……あれって……。」
 目を丸くして指差すエレアに、ルディはため息混じりに深々とうなずいた。そんな
二人の様子に気がついて、件の人物が駆け寄ってくる。
「ルディ兄さん、エレアさん。どうかしたのか?」
 緑の瞳で問いかけてきたのは、リディスフィア=ロッド。ガヤン神殿に来るなんて
何かあったのかと言いたいらしいが、エレアにしてみればそれはこちらの台詞である。
「私はルディさんにこの辺りを案内していただいていたの。……で、リディちゃんは
どうして……。」
「あれ、言ってませんでした? あたしはガヤン様にお仕えしているんです。まだま
だ勉強中の平信者に過ぎませんけど、成人したら警邏部に勤めたいんです。」
 あっけらかんと言うリディに、驚かないはずがなかった。ガヤンは法と契約を司る。
だから商人にも信者は多い。それゆえの信仰なら別にどうということはない。が、女
性で警邏部を志望……普通はいない。犯罪者と向き合う危険な仕事だ。ちなみに、バ
ドッカのガヤン神殿は殉職率がリアド大陸一ともっぱらの噂である。
 力をこめて希望を語る妹と、目を丸くしたまま動けないエレアを、苦いというか情
けないというか、とにかく妙に乾いた笑いで見守るルディだった。
 夢があるというのはいいことだ。でも、それが危険なことだったら反対するのが家
族ってものだろう。二人の兄ともども猛反対したっけ。それでもリディの意志は固か
った。頑固なまでの思いに、最初に折れたのはルディだった。あきらめたというより
は、シャストア信者のサガで、おもしろそうというか「そういうのもありかなぁ」と
か思ってしまった。そういう人間としては、この状況に笑う以上の対応策が見つから
ないのである。
「そう……た、大変でしょうけど……頑張ってね。」
 エレアはぎこちなく返事をした。信念を重んじるサリカの信者としては、彼女の思
いを肯定してやらねばならない。だが……これが精一杯の反応だったようだ。
「そ、それじゃあ、またね。」
「ええ。失礼します。」
「そうだ、リディア。暗くならないうちに帰るんだぞ。」
 そうしてガヤン神殿を後にし……。
 他の神殿や普段の買い物に便利なお店、ミュルーンの伝令ギルドなどを案内してい
った。それだけの場所を回れば、もう日が暮れる。街のあちこちからおいしそうな匂
いが漂う頃だ。
「エレアさん、ご飯食べていきましょうか?」
 辺りを見渡しながらルディが尋ねた。一日歩きつづけて、疲れているかもしれない。
「あ、そうですね。クオさんのお店にまたうかがってもよろしいかしら。」
「もちろん。」
 うなずいてルディは『水晶の渚』亭を目指してきびすを返す。今日はじめてのエレ
アからの積極的な提案にほっとした。うなずいてついてくるだけの彼女に、無理やり
連れまわして嫌な思いをさせていたりしたらどうしようと密かに気が気ではなかった
のだ。
「今からならまだ混んでないと思いますよ。クオ兄も喜びます。気に入っていただけ
ました?」
「え、ええ……。」
 エレアの顔を覗くと、何故か頬に朱がさしていた。夕焼けのせい、ではない。これ
は、ひょっとして……。
(なるほどねぇ。これはシャストア様に仕える身としては、お手伝いしてあげないと
ね。)
 にやり。
 不敵な笑みを浮かべるルディであった。歩きながらことさら陽気な声になる。
「エレアさん、あさってとかあいてますか?」
「あ、はい。別に何も……あ、でもそろそろお買い物をしないといけない頃かしら。」
「それはますます好都合。」
「え?」
 小さくエレアが尋ね返すが、ちょうど目の前に目的地が現れた。にぎやかな笑い声
と鼻孔をくすぐる香り。そのざわめきにまぎれてルディは返事をせずに扉をくぐった。
「やっほー、クオ兄。今日も来たよ。」
「はいはい、その辺に座っとけ。ん?」
「あ、その、お、お邪魔します。」
 クオに視線を注がれて、エレアはぺこりと頭を下げた。そのしぐさにクオは手を頭
にやって苦笑した。
「邪魔なわけないさ。うちの料理を食べに来てくれたんだろ? ありがたいね。美人
が常連になってくれるのは大歓迎だ。」
「いえ、そんな……。」
 『美人』といわれたことについて謙遜の言葉をあげようとしたらしいが、エレアは
普段以上に言葉に詰まっていて、何が言いたいのかさっぱりというありさまだった。
その様子さえ可愛らしいのだが。
「でさ、クオ兄。あさってって暇?」
 唐突にルディが切り出す。料理人も従業員も少ないこの店で年中無休は無謀である。
二巡りに一度、輪の月の日は休業日と定めていた。安息日ではない辺り、サービス業
だ。
「まあ確かに仕事はないけど……何か用か?」
「エレアさんの案内、交代。」
 そう言って、自分の目線ほどの高さにある兄の肩を掌で軽く叩いた。いきなりの事
にきょとんとするエレアとクオに、ルディは何故か満面の作り笑いで答える。
「口地区の市場のことならクオ兄が詳しいでしょ。エレアさん買い物したいって話だ
し。それに僕はほら、芝居の稽古もあるしさ。高司祭様に頼まれたら断れないよね。
というわけでクオ兄、任せた。」
「ああ、まあ……構わないけど。」
「うん。エレアさん、ごめんねー。僕が案内するって言ってたんだけど、これから稽
古が忙しくなるから。」
 にこにこーっと、内容とは正反対の表情で吐く台詞は、いかにも『何かたくらんで
ます』と言っているのだが、エレアはまったく気付かない。
「え、いえ、その、こちらこそ、忙しいのにごめんなさい。だ、大丈夫です。この辺
はもう案内してもらったし。」
 顔を赤くして、ルディにだかクオにだかよくわからない台詞を紡ぎだす。
(うぅん、大当たり。)
 ルディが心の中でうなずく。そんな弟の意図に気付かないクオはやっぱり笑顔のま
ま、エレアをなだめた。
「いやいや、市場は一度言ってみた方がいいって。新鮮なものがそろってるし、たま
に珍しいものもまぎれてたりしておもしろいぜ。そうだ、今度新鮮な魚の見分け方を
教えよう。」
「でも、ええと……。」
「気にするなって。それともオレじゃ不満かな?」
「とんでもないです! あ、ええと、その。……すみません。ありがとうございます。」
(舞台があんまりロマンチックじゃないけど……仕方ないか。)
 がんばってきてね、とルディは心で呟いた。




  少 女: そう、わかった。私に会えなくてもあなたは平気なのね!
  道化師: ……平気じゃ、ないよ。
  少 女: ウソ。じゃあ何だっていうの?
  道化師: 分からない。そりゃきっと、平気でなんかいられない。でも、君の
      ことだから、多分悲しむことは何もない。
  少 女: ……私もわからないわよ。それってどういうこと?
  道化師: つまり、君が来てくれなくても僕はここでこうしているだろうって
      こと。
  少 女: 何よ、それって結局私がいなくても平気ってことじゃない!
  道化師: 違うよ、そうじゃない。言っただろう? 僕がどうして笑っている
      のかって。
  少 女: 笑っている、わけ……?




 シャストア信者が自分で舞台を設定した物語を覗きに行かないなどということがあ
りうるだろうか。答えは否である。というわけで次の巡りの頭、白き輪の月の日。当
然のごとくルディウス=ロッドは頭地区の市場をうろついていた。
「よう、……ええと、……兄ちゃん! おもしろいもんがあるよ、見てかないか!」
「こっちもおもしろいもん追っかけてるところだから今はいいよ。」
 露天に並べた雑貨の向こうから、行商人らしい親父が声をかけてきた。「よう」か
ら「兄ちゃん」までの間がいささか気になるところではあったが、ルディはとりあえ
ず気にしないことにした。口地区は商人と買い物客でごったがえしている。うっかり
していると目的の人物を見失ってしまいそうだ。行商人にはひらひらと手を振って別
れを告げようとした。が、
「そう言うな、ルディ。これは確かになかなか興味深い。」
 こんな人の多い場所ではまず聞かないだろうと思っていた声に振り返る。
 厚手の敷物の上にごちゃっと並べられた商品の前で、一人の男が手をあごに当てて
しゃがみこんでいた。ひょろりとした印象で、いかにも体を動かすのが苦手そうだ。
実際にそうであることもルディは知っている。そんな彼がわざわざ口地区まで出向い
ていることに驚いて、ルディはその名を呼んだ。
「ファル兄! めっずらしい、どうしたの?」
 ファランディオ=ロッド。過日エレアの前でも話題に上ったペローマの神官である。
淡い金髪は妹のそれと似ていたが、こちらはあまり手入れされていないようだ。汚い
という程ではないが、もう少し気を使ってもいいのではなかろうか。
 出歩くのが珍しいと真っ向から言われて、ファルは苦笑しつつ愛用のノートを取り
出した。何でも気付いたことはすぐメモできるようにと肌身はなさず持ち歩いている
ものだ。彼はそこに挟んであった海草紙でできた乗船券をルディに見せる。
「今度また実地調査に行くことにしてね。そのための船を手配しに来たんだよ。」
 言語学は書物だけではなく実地での調査が非常に重要だ、とファルは常に明言する。
そして発言どおり、必要となれば遠い国でもノートを抱えて出かけていくのだ。そん
なに丈夫ではないのに、なかなかの根性である。
 ルディはその券に書かれた行き先を見て首をかしげる。
「あれ? トルアドネス帝国に行くの? この間、論文書いたんじゃなかったっけ?」
 かなり幅広い研究をしているファルは、一つの言語に対して考察を済ますとすぐに
別の言語に取り掛かる。飽きっぽいのかと言うとそうでもなく、たまにまた以前の研
究内容に立ち返ったりしていて、はっきり言って何をやっているのかルディにはよく
わからない。
 とにかく、ここで帝国に行くというのは珍しいことだと思った。
「いや、帝国からまた移動して紫の群島へ行こうと思う。」
「紫の群島!?」
 バドッカのあるグラダス半島からは大陸のまるで反対側である。あまりの遠さに目
を丸くする。しかも帝国は、建国帝の戦死により表立った動きは収まったものの、建
国戦争に始まる強硬な版図拡大の影響は今なお大きく、同盟を結んだドワーフ軍の条
件により、赤の月信仰を徹底的に排除しだしたことも重なって、国境も国内も殺伐と
した空気に満ちていた。
 ファル自身は青の月に従う者であるが、それにしても外国人がのうのうと横断する
には今の大陸中央部は危険であろう。そこまでして研究に打ち込むなんて……。
「ひょっとして、今の大陸の情勢がわかってないなんて事はいくらなんでもないよね
え?」
 この研究バカの兄ならありえないオチではあるまい。思わず人差し指を立てて確認
してしまった。
「こらこら、いくらなんでもトルアドネス帝国が何しているかくらいは分かってる
ぞ。」
「ふうん。またずいぶんと頑張るんだねえ。」
 苦笑するファルとため息をつくルディの間に、商人の声が割り込んだ。
「おいおい、見てくれるのかい? 目の前で話しこまれちゃ商売にならないよ。」
「ああ、すまない。ほら、ルディ。これ。」
 一言謝ると、ファルは隅の方に置いてあった仮面を手に取った。凹凸はほとんどな
く、眼と口の部分は細い切れ込みで笑顔を表現している。頬には涙型の模様。嬉しい
のか悲しいのか分からなくなるような、道化の仮面。
「何これ? シャストア様?」
 一般的に描かれるシャストアは簡素な仮面をつけた道化師だ。ルディはそれを指し
て仮面を眺めた。しかしただの仮面に、シャストア信者のルディはともかく、ファル
が興味を示すだろうか? 不可解な面持ちで解説を求める。
「ご主人、これはルークス聖域王国のものだろう?」
「おや、よくお分かりで。ただこれは人からのもらい物でね、何なのかは実のところ
よく知らんのですわ。ただのみやげ物ってわけでもないんでしょうがね。」
 商人の言葉に確信したらしく、ファルは得意げな瞳で語りだした。
「これは『ルドゥス』だな。」
「……ルドゥス?」
 自分の名前に良く似た単語だったので、思わず繰り返してしまう。
「『遊戯』という意味だ。本来、シャストアの祭礼に行う劇や演技の事を指す言葉だっ
たが、転じてその劇でつける仮面を指すようになったんだ。神殿の外に出るとは珍し
い。実物ははじめてみるよ。」
「へえー。お客さん物知りだね。さすがはペローマ様の信者だ。」
「ルドゥス、ね。なんか親近感わくんだけど。」
 奇妙に惹かれるものがあった。名前が似ているとか、シャストアに仕える身だから
というだけではなく。なぜかは分からなかったけど。
「おじさん、これもらうよ。」
「まいどっ!」
「ところでルディ、何かを追いかけてると言っていなかったか?」
 硬貨を支払っているルディに対して、自分で引き止めておきながらファルが尋ねた。
買い物を済ませたルディの手が一瞬止まる。
「ああっ! そうだよ、こんなところで話し込んでる場合じゃないんだった!」
 慌てて辺りを見渡すが、当然目の届く範囲に求める人物はいない。
「うあっちゃー。どこいったのかなぁ。」
「なんだ? 誰かと一緒だったのか?」
 のほほんと言う兄に対して、文句をぶつけてやろうかとルディは振り返り……ポン
と手を叩いた。
「ファル兄なら分かるよね、クオ兄の居場所。」
「なんだ、クオを探しているのか。……で? 呪文で探せと?」
「だってファル兄のせいで見失ったんだよ? 責任はとってくれるよね。」
 聞いた限りでは理はかなっている。確かに自分のせいらしい。仕方ない、とファル
はうなずいた。ペローマに祈りを捧げる。
「すべてを知る知識の神よ、我が求めるものの在処を教えたまえ。…………倉庫? な
んでまたそんな人気のないところに。いや、周りに何人かいるな。」
 《方向探知》の呪文は術者に対象の居場所を知らせてくれる。脳裏に浮かんだ情景
に、ファルは訝しげな声をあげた。その腕にルディがしがみつく。
「ファル兄! 場所どこ!?」
「ここをまっすぐ行って突き当たりを右、そこから三番目の道の奥……。」
「右に行って三番目ね!」
 それだけ確認すると、ルディはマントを翻し、全速力で駆け出した。周りに『何人
か』いるだって? それはどう考えても二人がうまくいったという状況ではないだろ
う。黒髪の麗人を目当てにからまれたか?
「やっばいなぁ。一対一なら体力あるから平気だろうけど、それ以上となると……。
クオ兄って喧嘩できたっけぇ?」
 ここでかっこいいところを見せられる兄ならば大歓迎のハプニングなのだが、クオ
が料理以外のことをしている姿が浮かばないのである。大体、クオがここでこけるだ
けならまだしも、場合によってはエレアが危ない。それだけは不許可。
「ったく、なにやってんだか!」
 悪態をつきながら角を曲がる。右に行って、三番目……!
「っとと。」
 目の前に広がる光景に、ルディは慌てて今曲がったばかりの角に隠れた。そこから
改めて顔を覗かせる。
「うるせーな、てめえには用はないんだよ。」
「さっさとそっちの娘を置いて消えた方が身のためだぜ!」
 こちらに背を向けて三人の男が叫んでいる。続いて鈍い音。すでに殴り合いになっ
ていた。男の声に聞き覚えがある気がして、ルディは首をかしげた。
クオは自分からも殴りかかり、男たちをエレアから離そうと奮闘している。だが、
やはり三人を相手にしては辛そうだ。
「きゃああぁぁっ!」
 記憶をたどっているうちに、クオのあごに一人の拳がヒットした。エレアが思わず
目を閉じて叫ぶ。だがクオはその場で踏みとどまって殴ってきた男に蹴りを入れる。
そこへ別の男が殴りかかり……。
「やばっ。」
 ルディは飛び出そうとして……首を横に振った。その場で精神を集中する。
「あらざるものにかりそめの姿を与えたまえ……《完全幻覚(パーフェクト・イリュ
ージョン)》!」
 叫んで右腕を振り下ろすと、ルディの目の前にガヤンの聖印を鎧にしるした男が現
れた。その幻はルディの操るままに乱闘騒ぎに割り込んでいく。
「こら! 貴様ら、何をやっとるか!」
 幻の一喝は、調子に乗り出した三人組の心臓をわしづかみにするには十分だった。
握った拳を引っ込めると、跳ねるようにして走り出した。好都合ではあるが、根性の
ない奴らである。あきれかけて、ルディはこの三人組のことを思い出した。
「この間の……。」
 エレアと初めて会ったときにからんでいた奴らだ。
(前回の仕返しってか? ふざけてるね。)
 懲らしめ方が足りなかったようだ。そのまま放っておこうと思っていたが予定変更。
憮然とした表情で、ルディは幻覚を操った。ガヤンの男はゴロツキ三人を追って走り
出す。あまり早いとはいえない逃げ足に、幻のガヤン信者は簡単に追い付いた。そこ
で、ぐにゃりと幻は姿を変える。
「ぎゃあぁぁっ。」
「た、助け……!」
 二、三個の灰色のかたまりが甲高い声をあげて三人組を背後から襲った。人間の子
供ほどもある、巨大なネズミ。その名も大ネズミというそれは、街中に潜む危険な生
物といえば五本指に入るものだ。錯乱した男たちにはそれが幻だと疑う余地もなく、
完全な恐慌状態に陥った。一人はつまずいて地面に倒れ、残る二人に至っては放心状
態でうずくまっている。
 見るも哀れな男たちの様子に、満足したかのように大ネズミは空気に溶けた。
「ったく……、思い、知ったか……。」
 壁に背中を預け、ずりずりとしゃがみながらルディは呟いた。魔法の集中を解き、
大きく息を吐いた。魔法は己の体力を代償とする。高度な呪文であればあるほど代償
も多い。五感のすべてを騙せるほどの幻に、ルディの疲労はピークに達していた。し
ばらく休んでいないと、動けそうにない。


「どうした、大丈夫か?」
 ガヤン本神殿へお使いに出ていたリディは、しゃがみこんで震えている三人の男を
見つけて声をかけた。
「あ、あ……。」
「ネ、ネ、ネ、ネズ……。」
「落ち着いて。何があったんだ?」
 いたわるような少女の声に男たちは救いを求めて顔を上げ……、その服に縫い取ら
れた蜘蛛の巣の図案、すなわちガヤンの聖印に目をむいた。
「うっぎゃあぁ〜!」
「お助けぇー!」
 一目散に走り出した男たち。呆然とそれを見送りながら、リディはぼそりと呟いた。
「……なんだったんだ、今の?」


 もたれかかった壁の向こうから、泣き出しそうな声が聞こえた。
「クオさん! しっかりしてください!」
 地面に倒れたまま起き上がらないクオの上に、熱い雫がぱたぱたとこぼれた。
「あ、あ……。あんたは怪我ないか?」
「私は大丈夫です。すみません、私のせいでっ。今手当てを……。」
 エレアは涙を拭いもせずにハンカチを取り出して、口元ににじんだ血をふき取って
やる。その手は小刻みに揺れていた。「ごめんなさい」と小さく何度も口にする。
 あまりに悲痛なその態度に、クオはきしむ身体を無理やり起こした。痛みを無視し
て明るい声を引っ張り出す。
「やめてくれよ。まったく、かっこ悪いところ見せちまったな。」
「そんな事ありませんっ!」
 苦笑まじりに頭を掻いたクオだったが、両手を握り締めたエレアの剣幕に目をみは
る。興奮して熱くなっているエレアはそれに気付かず、言葉を続けた。
「かっこ悪くなんてありません! 誰よりも、かっこよかった! あなたが一番…
…!」
 そこまで言って、ハッと右手を口に当てる。一瞬で顔が真っ赤になった。うつむい
て、手の中のハンカチをいじる。その口がもごもごと動いた。
「え……?」
 クオが、頭にやった手を下ろして、目の前の女性を見つめた。突然、意を決した瞳
が目の前に迫る。
「だって、だって私……、あなたが……!」



 熱いものが一筋、ルディの頬を伝った。



「あ、れ……?」
 掌に落ちたそれを眺め、ゆっくりと首をかしげる。ずきりと、小さく胸が痛んだ。
これは、何?
(なんで……。)
 悲しいことなんて何もないはず。物語は望んだ結末を迎えた。大好きな人たちに、
ハッピーエンドを送りたい。そう願って、それが叶って。そう、大好きな人たちに。
好きな、人……。
「ッ……!」
 涙目のままルディは吹きだした。今ごろになって気が付いた、そのことがおかしく
て。
(…………本当に、何やってるんだか。)
 まるで道化で、道化にはもう出番はなくて。ぽっかりと胸にあいた穴に笑いかける。
ふと、左手に持っていた仮面に目を落とした。笑っているのに、どこか悲しげな道化
師。今の自分のようだ。さっき感じた親近感、あれは予感?
 ああ、だけど……。笑っていたいのも嘘じゃない。彼女が笑顔の物語を見ていたい
のは本当のことだから。だから、笑顔でいられるように、心からおめでとうを言える
ように。この気持ちは僕だけの秘密だ。
 誰が見ているわけでもなかったけれど、涙を隠そうと、ルディは仮面をつけて天を
仰いだ。
「バカだねぇ、僕も。」
「……ルディ?」
 後を追ってきたらしい。ファルが座り込んでいる弟を不思議そうに見下ろした。
「どうした? クオには会えたのか?」
「ああ、うん。もういいんだ。」
「いいって……。」
 状況が何一つ掴めず、口を変な形に歪める兄を見て、小さく笑う。仮面を頭の上に
押し上げ、もはやいつもどおりの笑顔でルディは手を伸ばした。
「ちょっと起こしてくれない? もう疲れちゃって。」
「あ、ああ。」
 疑問符を浮かべながらもファルがその手を取った。反動でルディは一気に立ち上が
る。ぽんぽんとほこりを払い、今度は逆にファルの手を引いた。
「さて、お邪魔虫は見つからないうちに退散しないとね。」
「何のことだ?」
「あ、そうだファル兄。今度の実地調査、僕もついていってあげる。」
「『あげる』って……。おいおい、さっきの台詞をそのまま返すぞ?」
「平気だって。赤の月の信者だってばれなければいいんだよ。」
 気楽そうにからからと笑うルディ。ファルはため息混じりに肩をすくめた。それを
見て、また笑う。
(そうだ、エレアさんに上げるチケット、二枚用意しないとね。)



  道化師: だって君が笑っていてくれるなら、それだけで、こんなに嬉しいこ
      とはないんだ。

                              END

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