冬の贈り物

1.それぞれのオープニング(きっかけ)

 夜、10時29分。
 それは、都会の狭間――どこにでもあるようなビルの屋上の、そうそうどこにもないような出来事であった。
「くっ、どこだっ?!」
 ひとりの男がキョロキョロと辺りを見回している。背広姿に黒ぶちめがね……と冴えない外見の男であるが、それはカモフラージュだ。周囲に放つ眼光は鋭い肉食獣のものであり、盛り上がる肩の筋肉は年単位で鍛え上げられた逸品。
 そんな彼に相当激しいなにかがあったのであろうか、髪は乱れ、額には焦りを示す汗が浮かびあがっている。
 激しさといえば、それは戦いであるらしい――彼の不恰好に、人としてはありえないぐらいだらりと伸びきった右腕には、白い獣の毛と真っ赤な血がこびりついていることが、それを示していた。
「どこにいきやが……ぐぎゃあああああああああっっっっ!!」
 中で仕事をしている人間の8割も帰宅し静かなはずの空間に、耳を劈く男の悲鳴が反響した。悲鳴と同時に男の体は脳天からまっぷたつになり、闇の中を切り裂くように紅がふき出し線を描いていた。反響したのは割れた2つの体がそれぞれに叫びを奏でたせいであろう。
 ずざっ。
 男の体が地面につく寸前に、もう1体の白い影がそばに降り立った。胸元で構えた右腕にはやはり男と同じく真っ赤な紅。それが足元のコンクリートに滴り落ちていることから、つい今しがた染まったのだと想像できる。ただし彼は今2つに割かれた男と違い、彼は人と呼べる存在ではなかった。
 全身を覆う白い獣の毛。
 脳天にふたつ三角にそそり立つ耳。
 両の指先に鋭く生えそろった爪。
 それだけならば“大きな白い熊”という風体であるが、背中から生えた2つの翼がそれすらも否定した異形の生物たらしめている。
「ふー、ふー、ふー……」
 口元からあがる息は白く染まり、今が真冬なのだと物語っていた。
 白の獣は足元の無残な死体がもう動かないことを確認すると、納得したように頷いた。そして両の手をクロスさせて自分の体を抱きしめるポーズをとる。荒い息が少しずつ落ち着いていき、数拍後……そこには高校の制服に身を包んだひとりの青年が立っていた。
 彼の名は坂上光(さかのうえ・ひかり)。武蔵蓮沼高校の1年生であり、新興宗教アークライト教団の教祖の息子である。アークライトの教義に従い、日々慎ましやかに生きる彼の嫌いなものは“宗教”。
「……」
 無言でもう一度、先ほどまで命のやり取りをしていた背広姿の男を見ると、彼はきびすを返しその場から立ち去ろうとする、と……。
♪ rin lalan〜la riririnnran!! ........
 彼と死体の半身の間に転がる手のひらサイズの鉄の塊から、この真っ赤な饗宴の舞台にはまったく似つかわしくない景気のよい16和音のメロディが流れた。どこかの特撮のオープニングテーマだ。
「…………」
 光は、教団の教義に従い携帯電話の類は一切身につけていない。従ってこれは死体の男の持ち物となる。つまり特撮ソングは男の趣味なわけだ。
♪ rin lalan〜la riririnnran!! ........
 30秒鳴り響いたところで曲は2ループ目に入った。光は血がこびりついた携帯電話を拾い上げると……躊躇なく、受信した。
『…………ぁ』
「お前の仲間は俺が始末した、じゃあな」
 短くそうとだけ言って切ろうとしたら、それを引き止めるように向こうから少しだけ慌てたような声がした。
『いつも見事なお手並みですね、坂上光さん』
 若い男の声だ。そして光にも聞き憶えがある。
「あ、どうもー、UGNの方ですねー」
 先ほどワイルドに決めていた声とは打って変わって、妙にへこへこと下手に光は電話の相手に答える。
『今回の依頼も速やかにクリアしていただき、感謝しています。ご苦労様でした』
「あー、いえいえ、とんでもないです。はい」
 後頭部にあてた指でぱりぱりと頭をかく様が、余計に媚びているようにみえた。といってもここには、彼を目視できるものなどいないのだが。
『早速なんですが、またお仕事をお願いしたいのですが……』
「あー、はい。今度はどいつを暗殺すればいいんでしょうかー?」
 まるですし屋の板前が“次はどいつを握りましょうか?”そんな調子で彼は聞く。暗殺が日常な様子は、些か現実離れしているはずだが、電話の相手もそんな場所に生きている人間だ、まったく意に介さずに話を続ける。
『白金戦(しろがね・いくさ)、というFHのエージェントがいるのですが、彼の抹殺をお願いいたします』
「はい、わかりましたー」
 ぷつ。
“そいつがどんな男なのか”とか“どこにいるのか”とか、そんなことはまったく確認せずに彼は電話を切った。
 いつものことだし、それで仕事は完遂出来ているから問題など一切ない。相手がFH所属であれば倒す、ただそれだけだ。
 終わった仕事にはもはや興味はない、そして次の仕事の指令も下った。彼は、自らは決して所持しない携帯電話を足元に落とすと血の惨劇に背を向けた。 屋上の扉を出て階下へ降りよう、そしてつかの間の日常に帰るのだ。
 がちゃ。
 ノブをひねった。それで扉が開き、ここから退場するはず……だった。が、鍵がかかりひらかない。当たり前の話である、ビルの内部にある会社はその殆どが終業している時間なのだ。
「…………」
 しゅんっ。
 軽い音を立てて彼の背中から翼が生える。そして屋上のフェンスによじ登ると、12階の階下へと身を躍らせた。

 ――数日の間。
 インターネットの“日本の新しい都市伝説”ページの掲示板にて“関東M市、羽の生えた美少年現る!”な書き込みが数件、あったとかなかったとか。
 それはまた、別のお話で、ある。

『……というわけで、だ。“ブライト・エンジェル”君』
「はい」
 インターネットに“羽の生えた美少年”の噂話が流れ始めた次の日……時刻的には3時間目の授業中だ。武蔵蓮沼高校の視聴覚室にて、ひとりの少年が画像の映らない画面に神妙な顔で向かい合っていた。
“ブライト・エンジェル”こと天羽央樹。
 武蔵蓮沼高校2年5組、出席番号はあいうえお順で2番。ダークブルーのサラサラの髪に窓から差し込む光で艶を持ち、そのコードネームに相応しく“天使の輪”を描く。生真面目さを思わせる瞳は黒目がちで、濃紺のブレザーには“着られている”と言えそうな小柄さは、高校2年生というには幼すぎた。それもそのはずで彼の実年齢は14歳だ。本来であれば中学2年生をやっているはずなのである。UGチルドレンである彼は、指令でこの武蔵蓮沼高校に潜入しているのだ。彼が潜入した当初は、UGチルドレンはまだひとりだけであり、UGNに協力体制をとっていたイリーガルも殆どいなかったのだが、今やこの高校にオーヴァードは有象無象に存在していることがわかっている。
 この武蔵蓮沼高校は関東地方有数の“特異点”として、UGNから監察対象にあげられているのだ。
 もちろん“協力的なイリーガル”を発掘したのは、一番早くに潜入していた央樹の功績に負うところが大きい。そんなわけで、彼は優秀なエージェントとしてUGN関東支部の上層でもその名が聞かれ始めている。
 今日は、そんな彼に上層部のひとりから直々に指令が下っている。テレビの画面は黒のままで声だけがスピーカーから漏れてくる。所謂“サウンド・オンリー”というやつだ。
 ひとしきりの褒賞言葉の後で、ようやく話は本題に入った。央樹は今一度背筋をぴぃんと張る。
『白金戦、というFHのエージェントがいるのだが、彼は思想的にも能力的にも非常に危険な存在だ』
「白金、戦……ですか」
 確認するようにその名を口にする。もちろん、彼は聴いたことのない名前だ。
『その彼が、この武蔵蓮沼市で活動を始めたという情報が入った。“ブライト・エンジェル”君、キミの今回の仕事は、彼の居場所をつかみ抹殺することだ』
「はい、わかりました」
 彼の起こそうとしている事件の阻止ではなく、いきなり存在の抹殺を指示してくる辺り、相手は相当大物なのであろう。央樹の握り締めた拳が、緊張でますます硬く強くなる。
『この件については、武蔵蓮沼支部の方でも薬王寺君の指示で、何名かのイリーガルに仕事の依頼を出しているはずだ』
「そうなんですか……」
 いつもであれば、央樹の方に薬王寺支部長から指令が下り動き出すが、今回、自分に接触してきているのは名前すら初めて聞く関東支部の上層の人間だ。これはどういった意味を持つのだろう。
『指令は以上だ。それではよい知らせを期待しているよ。“ブライト・エンジェル”君』
「あ、あの……ひとつ確認をさせていただいてもよろしいでしょうか?」
 話が終わり途切れそうになる通信に向かって、央樹はおずおずと口を開いた。
『……なにかな?』
「今回、ボクへの指令が支部を通じてではなく、こういった形で取られたというのは、なにか意味があるのでしょうか?」
『…………』
 無言になる画面に対して捕捉するように央樹は言葉を継ぐ。
「例えば、支部の指示で動いている方とは別で……こちらからは、接触してはいけないのでしょうか?」
 そのように問いかけながら、答えがそうではないことを願う。
 幼い頃に両親を亡くした後は、UGNの施設の中で育ちチルドレンとしての教育を受けた彼にとって、情報収集など人と接する事で力を発揮する作戦行動は苦手なのである。もちろん生真面目な彼は、そういったこともまっとうしようと努力はするが、効率的には得意としている者に役割りを担ってもらった方がスムーズにコトが進む。
『いいや。ひとりで作戦行動をとるも、協力して当たるも、全てキミに一任されている』
「そうですか、わかりました」
 その後、適切な挨拶を交わし、通信は終わった。
「ふー」
 ぷつん。
 画面が途絶えると同時に、小さく可愛らしいため息が漏れた。もちろん、緊張の解けた央樹のものだ。腕時計を見れば11時25分……丁度あと5分で4時間目が始まるタイミングだ。ちなみにこの指令を受けるために3時間目に具合が悪い、と抜けて来ている。この高校の上とUGNはつながりがあるため、このまま早退し作戦行動に移ることも可能だが、学校の授業は出来る限りキチンと出ておきたい自分もいる。少しだけ考えて、ひとまず教室に戻りそこで出来る事から作戦行動をはじめていくことにした。
「急いで戻らないと……あ、ここも片付けなきゃいけないな」
 通信のためセットされていたテレビ電話のシステムをテレビから外し、準備室へと運ぶ。全てを片付け終えて視聴覚室を後にした時点で、授業開始のチャイムが鳴ってしまった。慌てて鍵をしめると央樹は自分の教室へ向けて駆け出した。

 天羽央樹が駆け抜けた廊下に面したある教室――具体的には彼の隣のクラスである2年4組であるが――その中ではひとりの女生徒が、その友達に対していたわりの言葉を投げていた。
「御手洗さん、大丈夫?」
「げほげほんっ、けほっ……あ、あー、橘さん、ありがとぉ……」
 激しい咳のせいか涙ぐんだ目の御手洗が、いたわりの言葉をくれた隣の席の橘京華に対して辛うじてお礼の言葉を返した。
 橘京華。
 武蔵蓮沼高校のイリーガルであり、学生業の傍ら探偵も営む。しかも齢17歳にして、人妻……と、その生業を並べただけでもかなり出鱈目な人物であるが、そう一笑する人を吹き飛ばさんが勢いで彼女は日々の生活をパワフルに邁進している。人が良く物怖じしない性格は、果たしてそれが探偵業に向いているのかは疑問であるが、周囲に明るい雰囲気を沿える好人物だ。
「風邪、ひどいみたいだね。早退しなくて大丈夫?」
 とんとんっと、背中を叩いてやりながら、京華は御手洗に心配げな視線を向ける。風邪を引いているのは御手洗だけではない。教室のあちらこちらから不健康極まりない音が響く……咳、くしゃみ、鼻を啜る音の大合唱だ。どうやら風邪が大流行りしているらしい、すでにダウンして欠席している生徒も多いのであろう、席にも空きが目立つ。
「う、うんー、なんとか……ね。橘さんはいいわよねぇ、風邪引きそうにもなくて」
 “バカは風邪を引かない”――いや、後半の台詞は決してそんな厭味ではないのだが、何故か若干であるが“バカにされている”という感情を拾ってしまう京華である。しかし目の前の辛そうな御手洗がそんなことを考える余裕などないはずだと思い直し、再び優しい言葉をかけ始める。
「辛そうだよ、御手洗さん。本当に無理はしちゃダメだよー」
「うん……風邪っていうか、インフルエンザが流行ってるみたい。多分それね……げほっ、げほんけほんっ、えっくしゅっ……はぁあうう」
 ハンカチで口元を押さえて大きくくしゃみ。勢いで机につっぷす御手洗に対して、どうしたものかとおろおろとしてしまう京華である。
「……橘さん、うん。げほほっ、大丈夫だからぁ。そろそろ先生くるし……けほっ、ね」
 申し訳なくなった御手洗がそう言いながら、教卓の方に目を向けると始業のチャイムから3分遅れで4時間目担当の社会科講師、柊暁(ひいらぎ・あかつき)が入ってきた。彼女も実はオーヴァード、武蔵蓮沼高校は生徒のみならず教師までもオーヴァード率が高いのである。
“きりーぃつ、れいっ、ちゃくせーきっ”
 そんな号令の後、通常であれば授業が始まるはずであるが、柊は教卓に肘を付きしかめっ面で教室を見回しているだけだ。
「あのぉ、先生?」
「ひのふのみのよの…………むぅうううっ、ひとり、たりねぇっ」
 怪訝そうに声をかける一番前の席の生徒を無視して、柊が数えているのは空き席だ、数え終えた時点で彼女の眉がますますしかめられる。
「……げふ……えっふ」
「けほけほけほ……」
 その間も咳き込みのアンサンブルは止まらない。
 ばんっ!
 しかし柊が手にしていた現代社会の教科書を教卓に叩きつけると、嘘のように静まった――いや、みんなビビって一所懸命に咳を押さえ込んだのだ。体にはすこぶる悪いことに。
「ひとりっ!」
 びっ。
 そんな静まりかえった教室空間で、人差し指を立てた柊は吼える。
「あとひとり休めばっ、学級閉鎖っ! もちろん早退でも可! 今あたしがそう決めたっ!!」
 その台詞には、教室中の生徒があんぐりと口をあける。つまりこの不良教師は、とっとと学級閉鎖にでもなって授業をサボりたい、あからさまにそうほざいているわけだ。
 柊暁――さすが、武蔵蓮沼高校イチ、授業が“ワーディング”で止まる女教師である。
 そして再び始まる咳の大合唱の中、柊はその人差し指をびしりっと、とある生徒に突きつけて、叫ぶ。
「かーがわっ。てめぇ、顔色悪いぞぉ? インフルだな?」
 ひどい決め付けもあったもんだ。
「違いますよぉ、オレ、昨日までインフルエンザで休んでて、今日ガッコきたばっかっすよぉぉー」
 指を指された香川という男子生徒は、うひょおと言わんばかりに首を竦めるとそう返す。もちろんそんなことを柊に言っても無駄だと知りつつだ。
「いーや、その辛気臭い顔は、どー考えてもインフルだっ」
「勘弁してくださいよぉ。これ、地顔っすー」
 だーっとマンガ的表現で言うところの“滝涙”な顔で、香川は更に無駄な抵抗を試みる。
「ちっ、しょーがねぇなぁ。あーりとくっ、じゃあお前が帰れっ」
 つきつけた人差し指は、その斜め隣に座るまた違う男子生徒、有得へとターゲットを変えた。
「か、か、帰れですかぁ? 柊センセー」
 あわあわと焦る有得はクラスでも数少ない健康優良生徒らしく、京華と同じく未だインフルエンザ・ウイルスに汚染されていない。そんな彼に帰れとはひどい言い草だ。
 授業開始よりすでに10分が経過――どう考えても、こんな不良教師を飼っている武蔵蓮沼高校は、おかしい。けれど柊の授業を受けてほぼ10ヶ月、そんなことには慣れっこな2年4組の面々である。
「だぁ、つかえねぇなぁ……じゃあ、仕方ねぇから授業はじめんぞぉ?」
「あー、あのー、柊先生」
 ようやく諦めた柊が黒板に向かったタイミングで、ひとりの女性とから手が挙がる。
「あぁ? どした? きょーかちゃん」
 橘京華、その人である。
「めずらしーね、あんたが具合悪いなんて」
「いえ、わたしじゃないんですけど……」
 京華は隣の席の御手洗を示すと続けた。
「御手洗さんが具合悪いみたいなんで、早退させてあげていいですか?」
 御手洗の体調は柊が来てからの10分で悪化の一途を辿ったらしい。もはや顔をあげることも出来ず、机に頬をつけてぐったりとしていた。
「あぁ、御手洗ちゃん、ホント具合わるそーだな。無理しないで帰んな」
 御手洗のそばまで寄るとその顔色を確認し、いたわるように柊は言った。こんなところだけは教師の顔だ。
「あぅ……先生……けほけほけほほっ」
「ほーらほらほら、とっとと教科書鞄に詰めて、帰る帰る」
 ちゃきちゃきと言い切る柊に押されるように、御手洗はもぞもぞと緩慢な動きで自分の鞄を膝に乗せてひらき、教科書を鞄に詰めようとして、どさどさと取り落としてしまった。
「あ、あうあうあう、御手洗さん大丈夫?」
 本人以上に焦る京華がそれらを拾い上げると適当に鞄に押しこむ。その鞄を自分で背負うと反対の腕で御手洗に肩を貸し、立たせた。
「柊先生、わたしも早退します。御手洗さんおうちに送ってあげないと」
「あー、はいはい。どーせ学級閉鎖だから気にしないで送ってあげな」
 いい加減なことを言いながら、柊はひらひらと手を振る。それを真っ向から信じた京華は安心しきると、うんっと強く頷いて元気良く言い切った。
「はいっ、そうしますっ。御手洗さん、行こう」
「あ、あの……ひとりで帰れる……けほけほけほっ」
 そんな健康な状態で学校を出るのはあからさまにサボりだと思う、大体学級閉鎖はただの柊先生の願望だし……そう言おうとした御手洗の声は咳で閉ざされてしまい、とうとう京華と2人で帰宅することになった。

 歩く気力も体力も殆どない御手洗を、引きずるようにして自宅まで送り届けた時点で、時刻は12時を20分ほどまわっていた。
「おなかすいたなぁ、お弁当、どこかで食べようかなぁ」
 いつもならお昼休み、学校の屋上で広げているお手製のお弁当が入った鞄を背に、京華はぶつぶつと考えながら街中を歩いていた。
 街中でも、もちろんインフルエンザが猛威を振るっている。病院帰りなのか白いマスクをした親子連れや、妙に火照った頬のOL、そうかと思えばベンチでへたり込むサラリーマンなど……そこかしこから咳き込む声が響きわたる。こんな場所を歩いているだけで、すぐにでも感染してしまいそうだが、京華にはどこ吹く風で、相変わらず元気な足取りでそんなウイルス空間を渡り歩く。
「今日のご飯、どうしようかなぁ……正人さん、最近仕事が忙しいみたいだから、スタミナつくものがいいのかなぁ」
 旦那さんの健康を一番に考える、奥さんの鏡のような少女である。
「……あ、そーいえば、髪切りたいんだった、うん」
 ショウウィンドウに写った自分の姿を確認してふとそんなことも言い出す、唐突な少女である。
「うんうん、髪、切ろうっと」
 お腹がすいたとか、旦那さんの健康はどこへやら。京華は手近な美容院を見つけると、腰までの長い黒髪をなびかせながら真っ直ぐに入店していった。
 武蔵蓮沼高校の制服姿のままで、どう考えても学校のあるの時間帯に美容院に入ればサボりと見られるだろうに、彼女は周囲の視線など気にしない。勧められるままに椅子に腰掛けると、背中の美容師さんににこやかに言い切った。
「あ、ばっつりやっちゃってください」
「これ全部切っちゃうんですか? 痛んでるわけでもないのに……綺麗な髪ですよ?」
 高卒すぐぐらいの京華とさほど年の変わらない男の美容師は、少し戸惑ったように京華の髪を櫛で梳かす。
「えぇ、お任せでー。おねがいしまーす」
「は、はぁ、わかりました」
 しゅかしゅかしゅか……。
 霧吹きで長い黒髪をしとらせると、美容師はまずはおおざっはに肩の辺りまで京華の髪を切り落とし始めた。
「どんなになるかなぁ、楽しみ楽しみー」
 長年延ばしたであろう髪に未練などなさげで、上機嫌の京華は変わり行く自分のシュルエットにただワクワクと胸を躍らせている。
 京華の鞄の中で携帯電話が鳴るが、当然本人が出ることはない。ちなみに電話をかけてきたのは、武蔵蓮沼支部支部長の薬王寺結希である。
 ――UGNより京華への依頼は、未だ本人の耳には到達していなかった。


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