Reunion
(…of merely slight time)

 ――ナミダ、ノ、
     オト。
       ダカラ、ソバ……ニ。


[カルテNO.0044]
患者名:チルドレン'0620'
生年月日:198×年 6月9日
年齢:10歳
発症シンドローム:ソラリス×ブラム=ストーカー
入院年月日:199×年 4月27日
加療年数:現在、8ヶ月目
症状:記憶消去に伴う人格及び自我の崩壊。自律行動不能。
   ブラム=ストーカー能力(血の従者)使用による自傷行為(無意識下でのものと推測)
経過:入院当初よりの症状から、改善は一向に認められず。
   呼びかけに反応が確認できないため、精神科医による治療行為は不可能。
   今後も継続して栄養剤投与、生命維持を優先とする。


[199×年 12月24日]

 ――知らない土地を、大嫌いな海から逃れるように走った。
 後ろでお父様とお母様がわたしの名前を呼んでいたけれど、聞こえない振りをした。港から人通りの多い街中に飛び出すと、重そうなコートの群れに紛れ込んだ。
 迷子になってしまいたかった。だって、お父様とお母様がこれからしようとしている'儀式'を一緒にやりたくなかったから。
 緩やかに白い雪が降る中、行き交う人々の半分ぐらいは男の人と女の人が2人セットで幸せそうに歩いている。周囲を彩る流れる曲は陽気なだけのクリスマスソング、サンタの格好をした人が鈴をりんりんと振りながら、お客さんを呼びこんでいた。
 お父様とお母様の声が聞こえなくなったから、見失われたのだと気づく。だから走るのをやめた、本当はもうつかれてへとへとだったのだ。
「…………」
 止まれば目に入ってくるのは、赤と緑が中心の色使いの飾りたち。まだ午前中でライトは灯っていないけれど、すでに充分華やかで、きっと夜になれば目に鮮やかなイルミネーションになるのだろうとは、想像がつく。
 今日はクリスマスイブ。
 きっと1年で一番、笑顔になる人が多い日。だけど1年で一番、わたしが大嫌いな日でもある。3年前に大切な人においていかれた日だから……。
 わたしはひとりぼっちで、弔いを意味する黒のワンピースを身に付けて、とぼとぼと歩く。こんなお洋服ははやく脱いでしまいたかった……そう、去年のこの日に空っぽの棺の前で着たお洋服なんて、それだけでお兄様の死を肯定してるみたいで悔しい。

 ――3年前の今日、海で船が爆発する事故があり、大好きだったわたしの双子のお兄様は、昏い海の底へと消えた――

 お父様もお母様もそしてわたしも、一所懸命にお兄様を探した。行方不明者捜索が打ち切られてもずっとずっと、探し続けた……けれどもお兄様は見つからなかった。
 2年経った去年のこの日、お父様とお母様はとうとうあきらめて、お兄様のお葬式を出した。お家のそばの高台にはお兄様のお墓まで作られた。
 けじめをつけるため、もういつまでも哀しみに捕らわれないため、そんなのは天国の遥歌も望まない……そう説得されたけれど、お葬式なんて納得がいかなかった。だってお兄様は死んでなんかいないない、あんなに探した海の底で見つからなかったということは、生きているに決まっている。
 お葬式を出してしまうことで、お墓を作ってしまうことで、本当にお兄様がこの世界から消えてしまうのが……怖かった。
 お兄様は、姿も見えない声も聞こえない。大怪我をして冷たい海の底に落ちて、そう確かに沢山の人が死んでしまうぐらいの事故だったのだ。だからお兄様だって……そう結論付けたわたしが忘れて前に行くことで、お兄様が本当にいなくなってしまうのなんて、哀しいし悔しいし、許せない。
 お兄様がそばにいない未来なんて、わたしにはいらない。だってそんなのは嘘だから。ずっと一緒にいるんだって決めていたから、わたしたちは一緒に生まれてきたのだと信じている。
 ――忘れては、いけない、ことが、必ず、ある。
 だから今日の儀式は認められなかった。3年前の事故現場の港から、お花を流してお兄様の冥福を祈る……それは家族から'死んでしまった'お兄様を断ち切る儀式。
 去年のお葬式で着せられた黒のワンピース姿で新幹線を乗り継ぎ、わたしはこんな北国まで連れてこられた。いやだといっても、お父様もお母様も聞き入れてくださらなかった。それどころか辛そうな顔でしかられた。
 だから、お店で花束を買い港に向かう途中に、ほんの少しの隙をついて2人から逃げ出してきたのだ。わたしを探すことで、'儀式'の時間がなくなればいい、と。
 雑踏の中、ひとりで歩いていたらさすがに目をひくらしい。何人かの大人の視線が、すれ違いざまに突き刺さってくる。今日は普通の学校だと終業式だし、きちんとした服を着ているから、学校をサボって歩き回っているようには見られないかもしれないけれど、お父様たちとはぐれた迷子には見られてしまう可能性が充分ある。
 いけない、つかまってお父様たちのところに戻されたら元も子もない。
「お嬢ちゃん、どうしたの? 迷子かい?」
 そんなことを考えていたら、案の定声をかけられてしまった。親切そうな白髪のおばさんが、柔和な笑顔でこちらを見ていた。
「いいえ、違いますわ」
 そう否定してもあまり信じてくれていないのか、おばさんはわたしの前から動こうとしない。困ったな……どうにか理由をつけた方がいいのかなぁ、と周りを見回せば、商店街のアーケードの中、ちらりほらりと並ぶ屋台が目に入る。
「お母様に言われて、あれを買いに来ただけですわ」
 その中から一番好きな'大判焼き'の屋台を指差すと、お客様がいらした時の顔でにこりと笑顔を向ける。愛想よく笑っておけば、ひとまずの警戒が解けることをわたしは知っている。
「そうだったの。じゃあ気をつけてね」
「はい、ありがとうございます」
 そのままおばさんに背を向けると、わたしは大判焼きやさんの屋台へと駆け出していく。そして欲しくもない大判焼きを2つ、買う。振り返ればおばさんはもういなかった。
 粗末な紙袋に入れて手渡された暖かい物体を胸に、わたしは少し考え込む。これからどこに行こうか、このまま人目につくところを歩いていたら、遅かれ早かれ見つかってしまうだろう。今はお昼をまわったところ。少なくとも夕方ぐらいまでは逃げないと……儀式をするはめになってしまう。
 立ち止まっていても仕方がない。わたしはため息をつくと、全然知らない土地をとりあえず駅とは反対と思われる方角へと歩き出す。
 男の子と女の子の兄妹が、はしゃぎながら手をつないで通り過ぎていく。後ろからはその子達のお父さんとお母さんが笑いながら後を追う。
――
 だから、ジングルベルの聞こえない場所へ行こうと、思った。


 杜王市内の名のある大学病院。一般からは隠されたひとつの病棟にて、普段は物静かな辺りに焦りから生まれた怒号が飛び交っていた。
「大変です! “0620”の姿が見えませんっ」
 ナースステーションもない小さな病棟で、職員がいるのはこの病棟担当医室だけだ。そこの扉がけたたましく開き、あたふたと駆けこんできた白衣の若い男に対して、それを受ける初老の男の顔色も驚愕へと変わる。
「なんだって?! きちんと拘束しておいたはずではなかったのか?!」
 拘束、とは病人の治療にふさわしくない言葉だったが、初老の男はやすやすと口にする。……ここはそういう場所なのだ。
「はい……ですが、レネゲイトの能力で破壊して、病室から出てしまった模様です」
 深夜に自傷行為を行う以外は、昼間はなにごとにも無反応で扱いやすい患者……その油断があだになったのか、つい目を離した隙の出来事であった。
 若い男は自分の失態に対して下るであろう処分に怯えるだけで、逃げ出した患者の心など思いばかってやる気などサラサラなかった。
 心を思いばかる? 心などあの患者のどこにあるというのか、とまで思うし……それはもっともな感情でもあった。
 一方初老の男はもう少しだけ思慮があった。そう、患者の持つ能力――それは一般の人間を多数巻き込んで殺すことぐらい、容易い力だ。現在は自我崩壊のため、自傷行為以外の能力使用は認められないとはいえ、何を契機に暴発するかは予測もつかない。はやく確保せねば、とんでもないことになる。
「早急にUGNの東北支部に手配を! 探すんだ。“0620”の能力が暴走すれば、危険なことになる」
「はい、わ、わかりました」
 来た時と同じぐらいあわただしく、若い男は部屋を出て行く。部屋に残された初老の男は、イライラと組んだ足を揺すると煙草を口にくわえる。
「……まったく、ロクに意識も宿らぬ人形の分際で、困ったことをしてくれたものだ」
 そう、苦々しげに吐き捨てると、殆ど吸うことのなかった煙草を灰皿におしつけた。


 ――声をかけられるたびに、そこから離れるように走って逃げた。
 もう道なんて全然わからない。人のいない方へいない方へと走っていれば、少し外れたところに、寂れた公園を見つけた。立ち入り禁止の看板が縄ではってあるから、公園としては機能していない場所なのだろう。中に入ってみれば、ブランコは鎖が外れて落ちていたし、うんていも倒れており、滑り台も階段が抜けていた。
「はぁ、はぁ……ここだと落ち着けるかしら……」
 胸を押さえると鼓動がドキドキとうるさい位に割れ鳴っている。今日は普段の倍以上は、走ったはずだ。
 5センチほど積もった雪を払い、湿気た木のベンチに腰掛けてみた。服が汚れてしまうだろうが、こんな嫌いな服に構う気もなかった。
 白い息を吐いて天を仰げば、ちまちまと降っていた雪は止まり、夕焼けの赤はぼそぼそとした雲に阻まれ、なんだかすっきりしない空模様だ。時計を忘れてしまったから時間はわからないけれど、あと少しして日が完全に落ちれば、交番にでも行こう。
 お父様とお母様は、怒っているだろうか……それとも、心配してそれどころではないだろうか。
 お兄様がいなくなってから、2人は特にわたしを大事にするようになった。手放したくないという気持ちが強く強くと伝わってくる。お父様たちだってお兄様をなくして寂しいし、哀しいのだ。
 ……そんなことはわかっている。
 わたしは、きちんと話し合わずにただ駆け出してきてしまったことを、少しずつ後悔し始めていた……戻ったらちゃんと謝らないと。
「……」
 しばしすれば、心臓の鼓動も落ち着いてくる。息も整ったところでわたしを襲ったのは、強い寒さだった。寒いのは苦手、だってわたしの中であの冬の海の水の冷たさが蘇るから。
 ……寒い。
 ベンチに靴まで載せて膝を抱えると身を縮こまらせる。自分の体をくっつけあうことで、少しでも体温が逃げるのを防ぐように、コートの前を開けて、ぴったりと膝の部分を胸につける。それでも寒さは一向に収まらなくて、途方にくれた。
 ――冷たいのは、冬の海。昏い、紺黒のぬめりがわたしとお兄様を取り囲む。お兄様を最後に見たのはわたし、投げ出されて木につかまって浮いていて……わたしが目をさましたら、力尽きたお兄様が木から手を離し目の前から消えた。
 わたしは、死んでしまっても後を追うべきだったのだ。いいえ、死ぬはずなどなかった。だからなおさら、追うべきだった。
 ……たった1人でこんなところに残されて、わたしはどうしようとしていたのか。なにも出来ないくせに、ひとりだと、なにも……涙を零すぐらいで。
「……お……兄様………………」
 黒のタイツに染みが落ちる、ひとつ、ふたつ、みっつ……沢山。
 10歳になって……わたしは、あの事故の意味が理解できないわけではない年齢になってしまった。
“お兄様が生きている可能性は、きっとゼロに限りなく近い”
 そんなことに、気づいていないわけじゃない。
“お兄様が、わたしと同じオーヴァードで、死なない体だという保証がどこにある?”
 意地なのかもしれない、わがままなのかもしれない。
 ……そう。
 お父様とお母様は、あの事故でお兄様が消えたことを過去にして、哀しみから立ち直ろうとしている。けれどわたしが口にすることで、また哀しみと悔悟の淵へと引きずり戻しているのだとしたら?
 最近、お父様たちはわたしを精神科のお医者様に連れて行く。そのお医者様がお父様たちに話していたのは、わたしがあの事故のショックから立ち直れず、現実が見えていないということ――弱いのは忘れようとしているお父様とお母様ではなくて……わたしだと。
 お兄様の笑顔は、もう戻らないのだ。
 お兄様に頭を撫ぜてもらうことは、ありえないのだ。
 お兄様と一緒に歌うことは、もう叶わないのだ。
 お兄様と………………。
「お兄様……お兄様……の……ひっく……嘘つき…………」
 認めたくない思いが心に降り積もる時、わたしは唯一のよりどころとなる“約束”に取り縋る。“ひとりにしない、おいていかない”という、あの人と交わした約束に。
 最近は、こうやって心がくじけそうになることが多くて……特にお医者様から頂いたお薬を飲むとそうだから、渡された薬は飲んだ振りをして川へと投げ捨てている。
「嘘つき……嘘つき……ひっくひっく……お兄様の…………バカ……お兄様、お兄様……」
 膝に瞳をつけて声をあげて泣きじゃくる。お兄様を過去にして前に進むことが、大人になるということならば、わたしはこのままこの時間で立ち止まっていたいと望む。
 やっぱり、認めたくなんかない――お兄様を忘れるなんて、絶対にいやだ。
 心が捕らわれていようが、そのことで正常な心身の発達を阻害しようが……わたしは、お兄様を想い大好きでいる自分がいい。それ以外の自分なんて、わたしじゃない。
 忘れない、忘れない、忘れない、忘れない、忘れない…………だからお兄様、叶歌の前に、どうか現れてくださいませ。
 ……たくさんのことを、本当に。
 …………生まれる前から、あなたに伝えたいと思っていたことは、たくさんあるはずで。それを伝えきるために、同じ瞬間にこの世に生まれたのだから。
 お兄様。
 いないなんて、絶対嘘ですよね、お兄様。まだ、十分の一も伝えきれてないですのに。
「お兄様……ひっく……ぇぇ……お兄様ぁぁ……」
 ほんの僅かでも心がくじけたあとは、自分に対して赦せないという気持ちで満たされる。それを赦してくれるのは、お兄様だけ。
 あなたにあえない限り、わたしはいつか、罪を犯してしまう。
 忘却という、罪を。
――……」
 そうやって際限なく泣きじゃくるつもりだった。けれどそれは無理だった。

 ――わたしの目の前に、1人の男の子が立っていたから。

無音の存在  こんなに寒い場所なのに、白くて薄でのシャツとズボン……いや、服ですらないパジャマのようなものを身につけた男の子は、こちらが泣くのをやめてしまうぐらいに、異様な雰囲気を放っていた。
 泥で汚れたはだしの足。
 右腕と裾からのぞく足首は包帯だらけで、所々赤い染み。
 顔も、右眼からこめかみにかけて包帯で隠されるように巻かれていた。
 左腕は、ほどけかかった包帯を取り巻き、袖から見える手首は無数の注射針の痕で、紫色に変色していた。
 大怪我をしていると、一目でわかる。ならばどうしてこんな子がここにいるのか、わたしにはわからなかった。本来であれば病院がこの子の居場所のはずだと、容易に想像が出来る。
 そこまで異様な風体であるというのに、この子は気配ひとつ感じさせない。そう、呼吸しているのかすらわからないぐらいの、無音の存在。
――……」
 男の子は、こちら側を向いていた。けれどわたしを見ていると言い切れる自信はもてなかった。長めの前髪からのぞく左の瞳は光なく鈍い紅で、何処も見えてない……そう、感じさせた。
「あなたは……ひっく……どなた……ですの?……」
 膝を抱える指を硬く硬く握ると、恐る恐る声をかけてみた。もう涙は止まったけれど、しゃくりあげるせいで上手にしゃべれないのが、なんだか恥ずかしい。
――……」
 男の子は微動だにしない。吹き抜ける風が髪と包帯をなびかせて、止まる頃には僅かに髪の流れを変えたぐらいで、なにひとつ動きはない。
「……わたしは、久遠寺叶歌、といいます……あなたのお名前……は?」
 わたしの方は随分と呼吸が落ち着いてきて、ほぼ普通の話調で話すことが出来るようになった。だから名前を名のってみたけれど、相変わらず男の子はなにひとつ反応を返してくれない。だからどうすればいいのか、わたしは途方にくれる。
 ただ、不思議と。
 怖いとか、向こうに行って欲しいとか、そんなことは思わなかった。
 そう、それよりもむしろ――
――……」
 自分でも理解ができず扱いきれない感情が胸に生まれたと同時に、包帯の男の子は動き出す。
「足、ガラスが危ないですわ」
 そう注意を促しても、彼はかまわず地面に転がる割れたガラスをはだしで踏みしめて、こちらへと向かってくる。地面には血の足跡が、てんてんとついた。
 ……痛いはずなのに、彼の表情は欠片も変わりはしなかった。
 そしてベンチのそばまで来ると、隣に腰掛けて背中をわたしの肩にもたれ掛けさせてきた。
 もちろん、なんの断りも無く、ふいに。
 けれど、いやじゃなかった――先程の、望みに育つ前の感情の芽は“そばに来て欲しい”だったような気がするから。
 男の子は本当に痩せていて、よりかかられても羽根ほどの重さすらない。それがまた現実にいる人なのかどうかと、わたしの確信を揺らしていく。けれど、この男の子はちゃんといるみたいだ。目を閉じて耳を澄ませば、本当にかすかだけれど、空気の動く音がする。
 ――呼吸、命の動き、が。
――……」
 なにも言わない男の子。
 傷だらけの姿と注射器の痕は、病院を抜け出してきたのだろう。もしかしたらすぐにでも戻らないといけない子なのかもしれない。
 ……わたしはどうすべきなのだろう、ほんの少し、悩む。
 けれど、この子の背中が当たる部分がほんのりと暖かくて、離れたくないと、感じる。もう少しだけでもこうしていたい。
 だから、このまま。
「足、痛くはありませんの?」
――……」
「ここは寒いですわね」
――……」
「わたし、冬は嫌いなんです」
――……」
「けれど、あなたは、暖かいのですね」
――……」
 本当に、なにも言わない。それはわたしがひとりだけで演じるお芝居のようだった。顔を覗き込んでみたら、僅かに上を向いた紅い瞳には、どんよりとした雲がじわじわと形を変える様が映りこむ。
 静止。
 瞬き。
 ああ、よかった。やっぱり生きている人だ。
「あなたの……お名前は?」
 もう一度聞いてみる。
――……」
 1分ぐらいは我慢して待ってみた、けれど返事は無かった。お話が出来ない人かもしれない。もう聞くのはやめよう。
 ベンチに紅い血がたまり、不規則に地面に落ちる。ガラスをふんだ足は、ざっくりと切れていた。見た目よりも遥かに酷い怪我なのかもしれない。やっぱり人に知らせたほうがいいのだろうか……。
「足を、見せてくださいな」
 手にもった小さなかばんから、白いレースのハンカチを取り出す。投げ出されたままの男の子の足の土を払い、刺さったガラスを出来るだけ取り除くと、ハンカチを巻いた。本当は消毒とかをした方がいいのだろうけれど、今は出来る限りのことをしてあげるしかない。
 手当てをしている間も男の子は無表情のままで、動きといえばたまに瞬きをするだけだった。
 血だらけになってしまった指をティッシュでふくと、わたしは再び男の子の背中に肩がふれるように腰掛ける。今度はこちらから寄り添うように、ぴったりと。
 どうしてこの男の子のそばにいたいと感じたのか、理由が全然わからない。そんな風に思える人は、今までお兄様だけだったから。
 泣いている時にいてくれたから?
 そばに来て欲しいと思う前に、来てくれたから?
 ………………わからない。
 けれども、この人にはなんでも話せそうな自分がいて……それは懐かしくて、心地よい、こと。
「わたしには、大好きな人が、います」
――……」
「その人は、いまはわたしのそばにいなくて。これから会えるかどうかも、わかりません」
――……」
「だけど会えると信じてます。お兄様は生きていると、わたしは信じています」
――……」
「お兄様はこの世界からいなくなってません。だってわたしが“消えないで”って願っているんですから」
――……」
 わたしの紡ぐ言葉に、返るのは空気の僅かな流れだけ。だけど、言葉を尽くして慰めてくれる人より、遥かに優しい癒しをわたしに与えてくれる。
 否定は無い、肯定も無い。
 ただ、あるがままのわたしの言葉を、水を吸い込む布のように、吸収してくれる。
 ――これは、わたしのひとり舞台、観客は男の子。
 舞台の上で、わたしはわたしを取り戻す。
 わたしにとって大切なことは、お兄様を忘れないこと。お兄様がこの世界に存在していると、信じていること。
 ……例えわたしひとりでも、信じていること。
「あなたにも、待っている人はいますか?」
 こんなに酷い怪我と、なにかに蝕まれてしまったせいで閉じているココロ。果てしなく苦しい何かを、この男の子が抱えているぐらいの想像はつく。
――……」
「待っている人がいるのだとしたら、絶対に還ってあげてくださいね。その人のために、あなたのために」
――……」
「わたし、お歌を歌うんですよ、お兄様と一緒に」
――……」
「今も、歌っていいですか?」
――……」
 男の子はやっぱり答えない。けれどわたしは胸のところで手を置くと、綺麗な声が出るように喉を整える。そして、お兄様がわたしをおいていってから、一度も歌うことの無かった曲を口ずさみ始めた。
「♪ ひとつの言葉は夢 眠りの中から 胸の奥の暗闇を そっと連れ出すの」
――……」
 ――これは、わたしのひとり舞台、観客はたったひとりの男の子。
 けれど何故か隣にお兄様がいて、一緒に歌ってくれている気がして……。
「♪ 見たこともない風景 そこが帰る場所 たったひとつのいのちに たどりつく場所」
 ……歌が終わる頃にはちょっとだけ、涙が零れていた。
「ご清聴を、ありがとうございました」
 肩越しの背中に、わたしはそうお礼を行って頭をたれる。本来であれば立ち上がり、ドレスをたくし上げて上品に挨拶をするべきなのだろうけれど、相変わらず、この男の子の背中に肩をつけていたかったのだ。
 くぅ、とお腹のなる音がする。そういえば今日はずっとなにも食べていなかったのを思い出す。逃げるのに必死で、そんなところまで気が回らなかった。
 かばんを探れば白い袋に押し込められて、2つの大判焼きがひしゃげた状態で顔を出した。もちろんすっかり冷めている。
「おひとつどうぞ、冷めてしまっておいしくないかもしれませんが」
 ひとつを差し出すが、当然男の子は受け取らない。予想はしていたけれど……もしかしたらこの子は、物を食べることすら判らないのかもしれない、と。
「こちらを向いてくださいませ」
 それは無理な話か。
「ええと……失礼いたしますわね」
 大判焼きをいったんベンチに置くと、男の子の膝を持ってずるずると90度ばかり移動、わたしと並んで座れるようにした。男の子は抵抗しないし体も軽いから、あっさりとすんだ。
「こうやって、手に持って……」
 自分で大判焼きを持って口元まで動かしてみるけれど、男の子は膝に置かれた大判焼きを見ようともせず、じっとしたまま。それでもわたしは行動を続ける。ちゃんと最後まで見せてあげたいのと、いいかげんお腹がすいて限界なのと、理由は両方。
「それで、お口で“ぱく”」
 口にしたとたん、クリームの冷たい甘さが広がる。大判焼きはあんこよりもカスタードクリームの方が好き。けれど売っていないお店もあるのが残念なところ。
「“ぱく”“ぱく”“ぱく”」
 そんな擬音を口にしながら、わたしの中の小さな大判焼きはたちまちその姿を消してしまった。もちろん、男の子は終始無反応。
――……」
 自分の分を食べ尽くしてしまえば、男の子膝の上に乗った大判焼きも欲しくなる。けれどそれはあげたものだからと我慢をして、わたしは男の子の指に手を伸ばした。ふれてみれば、やっぱり暖かくて……だけど、まるで綿がつまったお人形のもののように、そこには意志という確固たるものが感じられなかった。
「失礼いたしますわね……こうやって、手で持って……」
 指を重ねたままで、そっと大判焼きまで動かしてその指で茶色にこげたお菓子をつまませる。他人の指は力加減が難しい……つぶしてしまったら、指がクリームだらけになってしまう。
「それで、口元に運んで……」
 つん、閉じられた唇で、大判焼きが止まった。
「お口を開けてくださいませ。こうです……こう」
 あーんと、誇張するように口を開いてみせてみた。男の子は前を向いたままで反応が無い。
「こうです、お口を開けてぇ……」
 開いている左手で男の子の唇に触れて、開くように指で動かしてみれば、予想通り素直に半開きになる。そこに近くまで持ってきていた大判焼きを押し当てる。
「それで……“ぱく”……あ、そうですわ。お上手です」
 ほんの僅かだけ、大判焼きは削れていた……食べてくれたのだ。わたしは嬉しくなって、思わずぽん、と手を打つ。そのとたん、哀れ大判焼きは男の子の指を離れ、地面でくしゃりとつぶれてしまった。
「あらあら……ごめんなさ…………」
 ふ、と……わたしのお詫びの言葉が止まる。
 覗き込んだ角度の関係かもしれない、そうつまりは気のせいなのかもしれない。
 けど。
――……」
 ほんとうに少しだけ、男の子が笑ってくれた気が、した。
 とたん……胸が、嬉しいで一杯になった。こんなことは、お兄様が消えてからなかったから、3年ぶりだ。
「おいしかったですか」
――……」
「それは、よかったですわ」
 地面に落ちてしまった大判焼きも、きっと報われたと勝手に思い、わたしの唇も微笑を形作る。

「おいしかったですか」「――……」
 わたしは、誰かに見つけられるまで、この男の子と一緒にいようと決めた。
 ベンチに並んで腰掛けて、その子の肩の部分に頭を乗せる。着ていたコートは薄着の男の子にかけてあげた。だってわたしはもう寒くない、この男の子は暖かくて体をくっつけていたらコートなんていらない。
 何を話そうか、考えなくても言葉が出てくる。学校のこと、お歌のこと、お友達のこと……そしてなによりお兄様のこと。
 男の子は相変わらず、なにも返しはしなかったけれど、わたしはひとり満足だった。誰かがそばにいてくれることで、胸の中には優しさと愛しさが育つ。
 生まれてから7年間、わたしのそばにはお兄様がいて、それは当たり前のことだった。わたしは本当に幸せだったのだと、気づく。そしてまた、幸せになりたいと、強く願う。

 やがて、空は翳る――もうしばらくで、夜が来る。
 けれど話しつくせない内に、お別れの時間はやって……きた。

「あ、いたぞっ。あそこだ……」
 そんな怒号にも似た声がしたかと思うと、わたしたちの周りを黒服の男たちが取り囲む。
「な……なんですの?」
 わたしの心臓の鼓動がいっきに跳ね上がった。彼らの目的はわたしと後ろの男の子、どちらなのだろう。わたしの家はどうやらお金持ちといわれるらしく、誘拐などには気をつけるようにと、お母様には重々言われていたし、後ろの男の子も曰くありげではあるけれど、迎えに来たお医者様というには、彼らの雰囲気は物々しすぎた。
 どちらにしても、男の子は怪我をしている、わたしが守らなくては、いけない。
「“0620”を発見しました……いえ、ひとりではありません」
 独特の雰囲気をかもし出す彼らの内のひとりが、胸ポケットから携帯電話を取り出すと、どこかへと連絡を入れ始めた。彼はちらとわたしを見ると、続けた。
「一般の少女と一緒です。はい、能力による攻撃行動は特に確認できません……少女の様子も正常です……処理の方は如何いたしましょうか?」
 その間に別の男がひとり、隣の男の子の手をひいて立たせる。そのやり方が乱暴でわたしの癇に障った。男の子の反対の腕をとると、その男を鋭く睨みつけた。
「その子をどこに連れて行くおつもりですの?」
「お嬢ちゃん。この子はうちの病院を脱走してきててね、病院に戻らないとまずいんだよ」
 猫なで声の前に一瞬、面倒くさそうな顔をしたのをわたしは見逃さない。
「どちらの病院ですの? あなたたちは本当に、お医者様ですか? とてもそうは見えませんわ」
 男の子の腕にしがみついたままで叫ぶように指弾。
――……」
 男の子はなにも変わらず、左右の腕にわたしと男をぶら下げているだけだ。
「少女が少し興奮気味です。やはり記憶処理を……」
 電話の男がそう言ったのと同じタイミングで、男の子の体の周りを紅い霧のようなものが取り巻き――その姿を儚く煙らす。
「え?」
 見間違いなのだろうかと、わたしは目をこすってみた。けれど男の子の体はぼんやりと消えるように揺らめく一方で……それを見続けると、どうしてか体の全身が芯の部分から怖気立ってきた。

 ……キモチワルイ、ワタシ、ト、オナジ、チカラ。ダカラ、ワタシモ、キエヨ。

 そんな、自分の意図しない感情が、泡のように生まれては消え生まれては消え。体から力が……生きる力が抜けていく。
 そして悔しいことに……とうとう手を離してしまった。
「……まずいぞ“0620”の回収を急げ。車を回せ、早く」
 電話をしていた男が携帯電話を閉じ、辺りの男に指示を出す。へたり込んだわたしと男の子の間に立つように、黒服の男が入ってくる。それは何故だかわたしを庇うような動きに見えた。
 男の指示の後すぐ、サイレンを消した白い救急車が公園の入り口に止まる。男の子は黒服に伴われながら、わたしから離れていく。だけどまだ心臓の鼓動が早くて、立ち上がることが出来ない。
 ――あれはなんだったのか、自分を消してしまいたいという、恐ろしいまでの衝動は。
 息を整えて連れ去られる男の子をちゃんと見れば、紅い霧なんて無かった。やっぱり見間違えていただけだったのだ。
 それでも、追うのが怖い。悔しいけれど、怖い。もしまた、あの霧を見てしまったら……。
 だからわたしは、おとなしく男の子が離れていくのを見ているしか、ない。
 追い立てられるようにして、救急車に男の子が乗せられる刹那――
――……」
 振り返った男の子は、ほんの少しだけこちらに向けて右手をあげた。
 ……差し出してくれたように、見えた。
「! お…………」
 その仕草に、わたしの心がなにかを生み出す。言葉として叫ぼうとするけれど……そうなる前に、男の子は救急車に乗せられてしまった。
「……あ……………………」
 追わなくちゃいけないと、焦燥感に後押しされて立ち上がる。けれど救急車の脇から飛び出してきた人のせいで、わたしの足は止まってしまった。
「叶歌ぁ!」
 わたしを探していたお母様が、顔をくしゃくしゃに崩すと、こちらへと駆けてくる。その間に救急車はサイレンを鳴らして走り去っていく。
「……よかったわ、無事で。救急車が止まっていたから心配したのよ? 怪我は無いの?!」
 お母様に抱きしめられながら、わたしの心はここには無かった。
 あの男の子が誰か、とうとうわからなかったけれど、そんなことはどうでもよくて……もっと大事なことを、果たせなかったのだ、わたしは。
 自分の弱さが悔しいと、後悔していた。
 ――3年前の、紺黒の海と同じように、追えなかった自分に、涙を零しながら。


[カルテNO.0044]
患者名:チルドレン'0620'
生年月日:198×年 6月9日
年齢:10歳



経過:199×年 12月 24日、病室を脱走。1時間46分後に保護。
   その次の日以降、若干であるが自律行動が見られるようになる。
   その主たるものは、捕食行動。
   覚醒前の唯一記憶であった'歌'も思い出したと推測される。
   今後、状況に応じて精神科医の問診も開始する。


[200×年 1月23日]

 UGNによって隠されていたデータを洗い出すのは、予想していたよりもずっと容易かった。そう、今まで手に出来なかったのが、不思議なぐらいに。
「……やっと、わたしが手にして良いと判断されたのでしょうね」
 誰が? と、考えるのは腹立たしいことで。手にした資料を書類入れにしまうと、物憂げに肩をすくめた。
 放課後の教室、夕方5時はそろそろ下校時刻で、ここにはわたし以外の生徒はいない。お兄様も1時間以上前に帰られた。良かった、この情報は見せたくはないから……こんなお辛い過去のことは。
 お兄様の過去の足取り……。
 海難事故の後、UGチルドレン“0620”として約2年4ヶ月間過ごす。9歳10ヶ月の時点で、FH研究者“ファナティック・アルケミスト”立案の賢者の石精製プロジェクトに巻き込まれる。施設の21名のチルドレンたちに能力を使い殺し合いをさせて、その極限の状態から賢者の石を生み出させる……それがプロジェクトの目的。そしてお兄様はその中でただひとり生き残った。
 以降“歌片遥”としての存在がデータ上に認められるまで、1年2ヶ月の空白がある――その間のことについて、以下が隠されていた情報(モノ)。
 事件後、この件に関することを全てについて、つまりUGチルドレンとして生きた、海難事故以降の生活全ての記憶を消去した結果、お兄様の心は崩壊し……自ら生きることが出来なくなった。なにも、なにも出来なくなってしまったのだ……。
 以前、あの人が言っていた“僕にはなにもありませんから”その本当の意味をわたしは知る。ここまでの深い闇を、たったひとりで彷徨っていた上での言葉であったのだ、と。
「……お兄様」
 一度しまった資料を取り出し視線を走らせれば、胸の奥が苦しくなる。その時助けてあげられなかった自分に対するどうしようもない怒りが、疼くように生じた。
 助けて、あげたかった……。
 それでも1年2ヶ月という時間をかけて、お兄様は戻ってきてくださった。何がきっかけになったのか、資料からは判らないのだけれど……その強さがあったから、わたしたちはこうして再びめぐりあえた、それは確かなこと。
 ――大事にしよう。絶対にあの人のことを、大事にしてあげよう。
 過去は変えられないから、後ろを向いて悔やむぐらいならば前を向こう。今、あの人はそばにいてくれるのだから。それでもたまに湧き出る悔しさと怒りは、わたしが自分で受け止める。それを糧に、大切にする力へと変えていくのだ。
 ……お兄様の過去を知って、本当によかった。そう、思う。
 キーンコーンカーンコーン……。
 時計を見れば17時15分、これが最終のチャイムだろう。
「そろそろ帰りましょうか」
 最近、嬉しいことにお兄様は、放課後に教室から出る際は必ず声をかけてくださる。大抵は研究所に立ち寄られるから一緒に帰ることは殆ど無いけれど、以前はこちらがなにも言わなければ、黙って勝手に帰ってしまっていたから、それから考えれば随分と距離が縮まってきている。
 明日は土曜日でお休み。お兄様も研究所には出かけずお家にいらっしゃると言っていた。執事の瀬能さんにおいしい焼き菓子でも焼いていただいて、ゆったりと2人で過ごそう。
 穏やかな気持ちで資料を鞄にしまうと、わたしは教室教室を出た。

 3日前に降った雪は、あっさりとその姿を消してしまい、雨の後のようにじくじくとした地面を作っただけだった。今日はなんとなく歩いて帰りたい気分で、神里さんにはその旨を伝えておいた。
 お家まではゆっくり歩けば、30分程度。学校を出て、駅前から繁華街と反対の閑静な住宅地を抜けるルートは、落ち着いていて好きな道だ。5分も歩いた頃、駅前の雑踏から離れてすぐの公園のベンチで、わたしは見知った顔を見いだした。
「お兄様ぁ」
 1時間程早く学校を出ていたから、いまの時間にここにいるのはタイミング的に不思議だけれど、そんなことは本人に聞けばいいことで。もちろんそちらへと駆け寄っていく。
「う、叶歌さん」
 近づいたわたしに対して、お兄様はびくっと身をすくめると、右腕で何かを隠す素振りを見せた。
「叶歌……さぁん?」
 相変わらずの“さん”づけ。隣に腰掛けながら、その部分に目を走らせた後、ちらと上目遣いにプレッシャーをかけてみる。
「随分遅いお帰りなんですね、もう5時半ですよ?」
 呼び捨てで呼びなおすことからは逃げるようにして、お兄様は話を始める。
「お兄様こそ、もう随分前にお帰りになられたはずなのに、どうされたのですか?」
 もう一度、コートに隠された右腕を確認するように覗き込めば、お兄様は視線から逃れるようにくるりと90度体を回転させる。わたわたとそんなやり取りがしばらく続いた後で、お兄様は諦めたように右手に持った紙袋を差し出した。
「はい、おひとつどうぞ」
 ため息混じりに勧められたのは、こげ茶色のまぁるい大判焼きだった。中にあるのは2つで、ひとつはかじりかけ、お日様の色をした甘いクリームがとろりと顔を出している。
「まぁ、ありがとうございます。お兄様♪」
 かじられてない方を手にとれば、まだ暖かい。口をつければ、香ばしい皮のあと零れるもったりとした感触。クリームの甘さのバランスが絶妙で、玉子が効いたコクも合格。食べたことがないお店、しかもかなりにグレードが高いお味だ。
「まったく、タイミングが悪いったら。苦労して買ったのに……」
 軽く膨れながら食べかけの方を口にするお兄様に、わたしはにこにこと微笑んで見せた。
「おいしいですわね、お兄様」
「そりゃそうですよ。ひとり限定2個までで、つくられるタイミングで行かないと、そうそう手に入らない『縞猫屋』の大判焼きですからね」
 ぶちぶちと文句を並べ立てるように、この大判焼きの素性を話してくれた。
 なるほど、それを買いにいき並んでいたから、この時間にここにいたわけだ。家に帰るまで我慢できずに食べだしていたお兄様がなんだか可愛くて、くすくすと笑ってしまった。
「大判焼きはクリームがおいしいですわよね」
 邪道だといわれることが多いけれど、そんなことはない。ほくほくぽってりのクリームと香ばしい皮のとりあわせは、冷たい洋菓子にはない魅力がある。餡子も好きだけれど、やっぱり大判焼きはクリームだと思う。
「そうですね」
 ため息をやめてふと大判焼きを口から離し、お兄様はわたしの肩に背中をくっつけてきた。そばにいれば、この形で身を寄せ合うのが昔からの2人の癖で……そういえばお兄様は、ちゃんとこんなことを憶えていてくれたのだと、今更ながらに気づく。
「お兄様もクリームの大判焼きが好きなんですね。さすが双子ですわ」
 そう言った後で、ふと、わたしはこの状況に既視感を憶え、4分の1ほど残った大判焼きから口を離した。
 ……ええっと、大昔にこうやって2人で大判焼きを食べたこと、ありましたかしら?
 少し記憶をほどいてみたけれど、お兄様が一緒にいた頃は外での買い食いはお行儀が悪いと厳しく言われていたので、そんな機会はなかったはずで……。
「どうかしましたか?」
 考え込んだわたしの気配を察知したのだろう。振り返りルビーレッドの瞳がわたしを覗き込んでいた。
 紅の、瞳――あら、やっぱりこんな感じ、憶えがある?
「なんでもありませんわ、お兄様。ええっと……冷めてしまいますわよ、大判焼き」
 そう言いながら、まだ暖かいきつね色にちまちまと口をつけるのを再開する。せっかくお兄様が下さったのだ、暖かい内に食べてしまおう。
「冷めてしまうと硬くなっておいしくありませんから。だからお兄様は、寄り道をされてたんですわよね」
――そうでもないですよ」
 ふと、ルビーレッドが細められて光を遮り、瞳の中には優しい影が落ちた。
「冷たくても、おいしいものはおいしいです」
 そうやって静かに笑う顔を見たところで、わたしはわたしで既視感の正体をつかめた感じが、した。
 ああ、そうだった、こうやって大判焼きを食べたことは確かに、あった。
 ……光の入らない紅い瞳の男の子と。
 だけど、優しい影を映していて……寄り添えば心が暖かくなった。なんでも話すことが出来て――離れたく無いと感じた。
 懐かしい、はず。
 離れたくない、はず。
「……お兄様だったんですのね」
 あれは確か、10歳のクリスマスイブのこと……あなたが闇を彷徨っていた頃の出来事。
 ――それでも、逢いに来てくださったんですね。
 ――くじけそうだったわたしの心を、引き上げてくださったんですね。
 やっぱり、お兄様はお兄様だ。
「……なにがですか?」
 怪訝そうに首を傾げるお兄様。もちろん、憶えていらっしゃらないのだろうけれど……それでもこの味覚と言葉が、あなたの中に欠片を残しているのだと感じさせてくれる。良かった。あの時の男の子の顔は、やっぱりちゃんとした笑顔だったのだ。
「いいえ、なんでもありませんわ。お兄様」

 ――もしかしたら、あの時のわたしの歌を辿って、還ってきてくださったんですか?

 もしそうだとしたら、気づいてあげられなかった哀しみよりは、あなたがここにいる助けになれたことの方をわたしは誇りに思う。
 最後まで食べきってしまった後で、もう一度笑顔と共にお礼をちゃんと伝えた。お兄様の背に頭をのせて天を仰げば、もう夜の帳が降りている。6時をまわったのだろう、冬は日が落ちるのが本当にはやい。
「ご馳走様。やっぱり1個だと物足りないですね」
 くしゃりと紙袋をつぶしながら、お兄様。
「この大判焼き屋さんは、もう閉まってしまいましたの?」
「ええと……今からだと、運がよければ7時の焼き上がりが食べられるかもしれませんね。買いに行きますか?」
「そうですわね」
 ちらとこちら見る瞳は、行きたいと言っている。そんな意思表示を受け止めて、わたしは口元をほころばせ、こたえた。
「今度はわたしがご馳走しますわ、お兄様」
「少し歩きますよ、いいですか?」
 鞄を抱えて立ち上がるお兄様はまだ遠慮がち。だから続くようにわたしも隣に並び、コートの裾をつかんで促す。
「ええ、かまいませんわ。さ、お兄様、案内してくださいませ」
「わかりました」
 控えめに喜びを浮かべて、お兄様は駅の方へと足を踏み出した。

 ………………。
 ねぇ、お兄様。
 あなたには、なにも無いわけではありませんわ。
 あんなに深い暗闇の中にいても、ちゃんとわたしの元に来れたのが、何よりの証拠です。
 ……もしまた、なにも見えなくなったら、わたしの名前を呼んでくださいね。今度はわたしがあなたのそばに行きます。
 あなたがいるだけで、わたしが手にしていけるものを、あなたにお伝えしますから。

 ――空っぽになんかならないように、いつでも、わたしがあなたの中にいますからね。


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