縁“えにし”

 199×年の春、都内某所――
 部屋の片隅にある白い綿菓子のような煙から、唐突に現れた女が、部屋の主たる壮年の男に対して艶然たる笑みと共に軽く会釈をした。

「お久しぶりですわね、入生田先生」
「ああ、“ファナティック・アルケミスト”(あんた)か。お元気なようで、なにより」
 入生田と呼ばれた汚れた白衣姿に貧相な体格の男は、彼女の方を振り返りもせず出迎えの台詞だけを吐く。愛想があるわけではなく、さりとて疎ましく思っている訳でもないようで、女はそんな彼の態度には慣れっこなのか、ベージュのスカーフで束ねて左肩に流した黒髪を肩から払うと、上品な仕草でコートを脱ぐと腕に掛けた。
 膨大な資料がファイリングされた本棚を左右後方の三方側に背負うようにして置かれたデスク、そこにはやはり大量のレポート用紙が無造作に散らかされている。傍らのノートパソコンには全てのデータきちんと入力されているのだろうに、わざわざ打ち出す、ないしは手書きで残してしまうのは、まだ彼がデジタル化に完全に対応し切れていないのと……単に片付ける必然を感じないからである。
「お時間、よろしいでしょうか?」
 女の言葉の端々には、相手に対する礼儀と親しさが感じられる。派手な化粧気はないが整った目鼻立ちと銀縁の眼鏡が、清潔な美しさをかもし出している。入生田より5歳ほど年下に見える彼女が彼と並ぶと、まるで大学の助教授と優秀なその助手と言う風情だ。
 ……ある意味、近い。
 彼女は入生田成瀬と同じ組織に所属していて、短期間ではあるが彼に“仕事”の手ほどきを受けたのだから。
「まぁ、話によるなぁ」
 くだらない話であれば、時間など1秒たりともとられたくない。悠然とした態度とは相反するそんな感情を女は感じ取り、手早く1枚のフロッピーディスクとA4サイズの封筒を差し出した。
「先日お話いたしました“賢者の石プロジェクト”の対象者のデータです。どうぞ」
「ああ、後で見ておく……と言ってもなぁ、そんな名前の羅列を見せられたところで、なぁんの意味もないけどなぁ」
 封筒は受け取らないままで、入生田から零れたのは気のない色。どちらかというと“くだらない話”と判断したらしい。
「そうですわね。今回のプロジェクト、やはりご興味は沸きませんこと?」
 1年前から、FH内部で秘密裏に計画されたプロジェクトの舵取りをするのは、目の前の“ファナティック・アルケミスト”の二つ名を持つ彼女だ。
 まだ幼い多数のオーヴァードを極限状態に晒し、その中でのレネゲイトウイルスの上昇及びエフェクトなどの表に出る能力の成長を測定する。更にその際に、宿主のオーヴァードを喰い合いながら純度を増すという“賢者の石”、その急造を目論んでもいる。
 実験サンプルとしては、敵対組織であるUGNのチルドレン訓練施設を使用する。その下準備として目標の施設には1年以上前からFHエージェントを教官として仕込んである。現在のところ、それは非常に巧みに根付いており、気取られている気配はない。
 データを収集しかつ敵対組織の弱体化も狙う、そんな一石二鳥の作戦、とのことだ。
「能力の成長というものには、それなりに興味はあるがね」
 こぽり、と。
 彼に相槌を打つようにして入生田の右斜め後方で、ダークブルーの液体で満たされたフラスコが気体の泡を作り吐き出した。
「……やり方がお気に召さない、ですの?」
 言葉を継ぎ足さない師に向かって、女は首を僅かに傾けて視線を送る。
「いいや、いや。ただこれは、あんたの“実験”だ。俺のもんじゃあ、ない」
 お膳立てをされて“ハイ、どうぞ”と渡されてもつまらない。どうせであれば、様々な下準備から楽しみたいというのが、入生田のスタンスだ。
「あら。わたくしはいつでも入生田先生にお戻りいただければ、と願っておりますのよ」
 その言葉に嫌味はない。彼女は入生田成瀬を尊敬しているし、今だって本当にFH内の充実した設備で共に研究を進めたいと考えている。そう、目指す方向はかなり似通っていると、彼女自身は信じているから。
 ――入生田に言わせればまったくもって“違う”のであるが。
「……ふぅむ」
 もはや言葉を続けるのが億劫で、灰皿に押し付けられた吸殻をくわえ火を入れる入生田。そんな彼の行動から、現在の感情を汲み取った彼女はここが引き際と見極める。
「ご興味がわきましたら、いつでもお声がけください。この作戦については、作戦実行中も全ての情報を融通するようにしてありますので」
「ああ、それはどうも」
 相変わらずの気のない返事にも丁寧に頭を下げると、女は先ほど現れた白い巨大な綿菓子の元へと足を進める。この部屋に出入り口の扉は、ない。あえて言うならば、その綿菓子が出入り口――領域を操る入生田のオルクスシンドロームの能力だ。
「お前さんとは考え方が根本から違うんだなぁ……俺は」
 女の気配が消えるか消えないかのところで、入生田はぼそりとつぶやく。それでも義理と感じたのか、封筒の中からA4用紙の束を取り出してパラパラとめくり眺めはじめた。フロッピーの中身の内、目録を打ち出したものらしく、そこにはUGNチルドレンの“名前”と“年齢・性別”と“シンドローム”が記号のように並べ立てられている。
 代わり映えしない記号の羅列。興味なさげにめくる指が、ふと一箇所で、止まった――本来は漢字が並ぶべき部分に、本当の“記号”を見つけたからだ。
『“0620”“9歳・男”“ソラリス×ソラリス”』
「ほほう……これはこれは……」
 UGチルドレンが、いくら親から縁薄い生活を送る者が少なくないとはいえ、名前ぐらいはちゃんとつけられている。だがここにあるのは無機質な数字だ。そのことが何を示すか、確認するように彼は口にする。
「つまりこの少年は戸籍がない……と、いうことか。ふむふむ」
 それはつまり“なんとでも出来るなぁ”という、研究者としての残酷な見解と、“もしかして人工的に作り出された存在か”という、入生田成瀬らしい純粋な興味を示している。
 別のページを見てみたが、名前が数字でしかないのは“0620”のみだ。ただのひとつということは、ますます入生田の興味をそそった。投げ出されていたフロッピーディスクをパソコンに押し込むと、より詳しいデータを手に入れようと試みる。
「ソラリスのピュアブリード、か。能力的には平々凡々としたもんだなぁ……」
 いや寧ろ、エージェントとして仕事をしている平均的なチルドレンに比べれば、能力は確実に劣っている。なにしろ発現エフェクトは≪癒しの水≫≪ヨモツヘグリ≫の回復系ふたつ。このまま年齢を重ねて訓練したところで、よほど驚異的な成長をしない限りは、せいぜいがバックヤードでのフォロー要員がいいところだ。
 ――つまり今回の“賢者の石プロジェクト”で生き残る可能性は、ほぼ、ゼロ。
 まぁ、あれしきのことで死んでしまうようであれば、彼のお眼鏡に適うわけもなく、興味などはあっさり失せる。逆に生き残ってしまえば、それはそれで……お気に入りになるのは確実だが。
「ふんふん」
 “0620”の所属しているのは東北の最大都市・杜王市にあるチルドレン訓練施設。今のこの場所からは遠いが“別の端末”が、その近辺にいるはずだ。
 偶然、というものがあるのだとしたら。プロジェクト実施までの1週間までの間に、会うことがあるかもしれない。
 一応は添えられた小さな顔写真を見て、その特徴を記憶しておく。長めの前髪からは、年齢よりは若干大人びたライトブラウン色の瞳が覗く。それはどこか虚無的で作り物めいた雰囲気を漂わせていた。
 表の世界での学会では実現不可ということになっているが、UGN及びFHでは人間の複製体作成ノウハウは蓄積されており、実際に作られていたりもする。だがまったくのイチからオリジナルの人間を生成する技術までは確立されてはいない。もちろんこの少年にオリジナルが存在していればただそれだけの話なのだが、自分に先んじてUGNが人造人間(ホムンクルス)を作り上げたのであれば、また別の興味も、沸く。
「……さてさて」
 ノートパソコンの電源を落とすと、入生田はくわえた煙草を灰皿に押し付けた。吸殻をリサイクルしたものだから、殆ど吸えていない……新しいものを買ってこなければ。
 少しだけ自分の情報網を辿り、調べるぐらいはしてもいいかもしれないなぁ……そんな事を考えながら、入生田成瀬はニコチン補給のため席を立った。

 彼が“少しだけ”撫でるように探った情報の中では、“0620”という少年の過去は見出すことが出来なかった。
 ……全て抹消済みなのか。
 ……始めからそんなものは存在しないだけなのか。
 だがより詳しく調べる前に、別のもっと興味をそそる研究テーマが出てきたため、“この”入生田成瀬はそれ以上行動を起こすことは、なかった。

 5日後、杜王市某所――
 ようやく桜の花も5分咲きになり始めた北の地で、偶然は舞い降りていた。

 入生田成瀬がいつものルートではなく、杜王市中央公園内を横切ってスーパーへと買出しに出たのは、ただの気まぐれだ。あえて理由をつけるとしたら、いつもの道で前を行く親子連れの子供が駄々をこねて泣き喚く様がうっとおしかったからである。
 少し遠回りになるため、いつもより早足で歩きながら前を行く小柄な背中を追い越した彼は、少年の隣を通る瞬間に「ん?」と、首をかしげた。10歳前後のその少年の顔を、つい最近どこかで見かけた覚えがあったからだ。“どれ”の記憶だったか、通り過ぎて3歩歩いたところで思い出す。だから足を止めて振り返ると、穏やかにその少年に笑いかけた。
「ああ、こんにちは」
 呼びかける名も知らないため、ただの挨拶だけになる。一方、薄汚れた白衣姿の見知らぬ男に突然話しかけられた少年は、眉を潜めると用心深い声音で返す。
「どなたですか?」
 声変わりはしていないけれどしっかりと落ち着いた、綺麗な音質。不信感がありありと浮かぶ視線で少年は入生田を見かえしてくる。
「憶えていないかな? 俺は、キミの授業を担当したこともあったのだが」
 もちろん嘘だ、しかしそんなことは関係ない。入生田は≪錯覚の香り≫≪帰還の声≫≪竹馬の友≫≪抗いがたき言葉≫と、相手に嘘を信じ込ませるソラリスエフェクトを起動しつつ、その台詞を吐いた。能力の低い子供のオーヴァードなど、起源種入生田の圧倒的な能力の前にはひとたまりもない。嘘を押し付けられている、という不快さを感じさせる隙もなく警戒心を消し去った。
「そうでしたね。ごめんなさい、僕……」
 淡々と、哀しいことのはずなのに、淡々と……なにも宿さぬがらんどうの瞳で、少年は続けた。
「忘れていることが余りに多くて、それで憶えていなかったんですね」
 ――その台詞は、少しだけ入生田の好奇心を、そそった。

「なるほど。名前すらも忘れてしまっているわけだね?」
 入生田の声に、少年はこくりと素直に頷いた。手には入生田が奢ってやった緑茶の缶がある。
 すっかり入生田を信頼している少年は、今まで自分の身に降りかかっている事象をひとつひとつ話していった。表情は確かに乏しいが止まることのない言葉が、普段抑えられていた彼の情念を解き放った様子をありありと示す。入生田はよけいな事をはさむ事なく、その全てに耳を傾けてしっかり受け止めてやっていた。
 さもありなん。少年の話を聞いていれば、とてもとても自分を解き放てる場は、ない。
 この少年は、2、3年ほど前に何らかの事情でオーヴァードとして覚醒し、それ以前の記憶を無くしているらしい。現在、UGN某支部支部長の御子神とかいう女が、実質彼の身元保証人らしいが、その女も自身の育成段階での傷を色々とかかえているようで、それを全て目の前の少年にぶつけている状態らしい。
「それでいて、たまに御子神さんから呼ばれる“ヨウ”というのが、キミの本当の名前ではない、と」
「はい。そう尋ねると、あの人はひどく不機嫌になりますから」
 あんたはヨウ兄さんなんかじゃない、って殴られることもあります、殺されるまではいきませんけどね……。
 齢9歳にして、既に達観の域に達しつつあるのか、そう語る少年の中には女に対する怒りや憎しみという感情は見出せなかった。
 それでも……歌が上手いことから、名前がないのを気の毒に思ったチルドレン仲間が、いつしか「うた」と呼んでくれるようになった、と話す様は年相応の子供の無邪気さがあった。
 戯れに促して歌わせれば、少年は入生田の前で伸びやかなメゾソプラノを披露した。音楽の事はなにもわからない入生田であるが、彼の歌からはひとりで紡ぐにはどこか欠けた未完成さを感じ、そしてこの歌を完成させる存在こそが、少年にとっては重要な意味を持つのだろうと、直感した。
 最近の入生田の持論は、オーウァードとジャームの差は、どれだけの人と縁を結べているかの違いだというもので……そういう意味でも、この少年は興味深いサンプルかもしれない。
「……なるほど。キミも苦労しているようだねぇ」
 歌を褒め、通り一遍の慰め言葉を吐きながら、入生田は懐からピルケースを取り出して少年に手渡した。中には1錠のカプセルが入っている――レネゲイト侵食を大きく進めるのと引き換えに、生命力の増強をする≪ヴァイタルアップ≫と同等の効果を発揮する薬だが、当然そんなことは言わない。
 ……こんなこともあろうかと、普段から持ち歩いていたものだ。
「なんですか、これは?」
 透明な青のケースを透かしながら、怪訝そうに問いかける少年。
 透明な、青。
 深い海底の水圧を思わせるそれは、なにも憶えていないはずの少年に“死の恐怖”を呼び、ぞくりと悪寒で背を震わせる。
「キミもUGチルドレンであるからして、これから、自分の力では対処しきれない事態に巻き込まれることがあるかもしれない」
 ――それは確実にこの少年に訪れる。
「その時、この薬を飲みなさい。きっと力になるはずだから」
 ――運がよければ、だが。
 少年はピルケースと誠実な素振りの入生田の顔を見比べた後で、少しだけ微笑み頭を下げた。
「ありがとうございます」
 と、囁く唇からは八重歯であろうか、ちらりと唇の端に牙のようなものが見え隠れして、整った顔立ちに子供らしい愛嬌を添えているのが印象に残る。
「では、縁があればまた会おう。いや、会えるだろう、なぁ」
 腰掛けていたベンチを立ち、入生田はスーパーの方へと歩き出す。
付け足した台詞は、願望。
 このカプセルを口にして、かつその状況で生き残ることがあれば、自分はこの少年に深い縁(えにし)を結ぶことを欲するはずだから、と。
「はい、さようなら。入生田先生」
 瞳に安寧の笑みを刻んで、少年はもう一度頭を下げて入生田の姿を見送った。
 
 ――入生田成瀬が、ライトブラウン瞳の少年に会うのは、後にも先にもこれが1回きりと、なった。

 少年が入生田成瀬に出会った2日後――
 日本各地のUGチルドレンの訓練施設にて信頼されていた教官は、隠し持っていた牙を剥き出しにし、チルドレンへの残酷なる実験を開始した。

 午前の健康診断、その後データ収集のために薬物を投与された後「今日は特別プログラムがあります」と言われて、一番大きな訓練ルームに全員で集められた。
 少年……“0620”という数字が名の少年を含め、所属チルドレンの全員がその流れを疑うこともなく大人しく従っていた。
 しかし。
 集められた後、唐突に異変は訪れる。
 自分たちと10も年が変わらぬ教官が「殺しあえ」と、叫んだ瞬間、辺りにいた子供たちがそれぞれに自分の持つ能力を最大限に組み合わせて、互いに殲滅行動を取り出したのだ。
 午前中に投与された薬剤は、ソラリスエフェクトを応用した、洗脳効果のある薬剤だったのだ。
 その中で唯一“0620”は、その薬剤への抵抗に成功していた。
 ……今思えばそれは、これからの“覚醒”の兆候だったのかもしれない。
 しかし現段階では、周りの暴力的な殺し合いを止める力などなく、相手からの攻撃をなすすべもなく受け止めて、リザレクトという不死の呪いで生きながらえることしか出来ていない。
(……確か、能力を使いすぎたら、リザレクトも出来なくなるはず)
 ここ数日、二段ベッドの上に寝ていた子の獣のように刺々しい爪に引っかかれながら、“0620”は、施設で習った座学の内容を反芻していた。能力を使う度に体内のレネゲイトウイルスが体の中で増殖をしていき、やがて臨界点を突破すると≪リザレクト≫という、死からの復帰が出来なくなる。ただしウイルスの恩恵も高くなり、死ににくくなるのも事実だが。
 彼の周りのチルドレンたちは、それぞれに自身の能力を組み合わせながら、多彩な攻撃で互いに殺しあっている。そこにはレネゲイトをコントロールする――人としての自分にしがみつくという理性は、ひとかけも、ない。
 そうさせているのが壇上で冷徹にデータを測定している教官だと気づいていても、抗う術を持たないのが現実だ。
 所詮“0620”とてまだ9歳の子供だ、冷静に考えようとはしているが、自らを侵食していくウイルスの恐怖と、繰り返される死の痛みとで、精神が壊れる寸前まで追い込まれつつある。
 いっそ、壊れてしまった方が楽なのだが、出来ないのは――約束があるから。

 ――決して思い出せやしない、約束だけど。

 殺し合いが始まってからさほど時間は経っていないというのに、既に≪リザレクト≫不能な敗者たちが目の前に肉の塊の山を築きつつある。“0620”は、せいぜいが傷つきし仲間の手当てと≪リザレクト≫ぐらいしか実行していないので、ウイルス侵食の進みが鈍いが、肉の塊の仲間入りするのも時間の問題ではあること、気がついている。
「ん……はぁはぁ……ヨモツ、ヘグリ……」
 仲間の死を減らしたい少年は、蘇生の呪詛をつぶやき続ける。たとえそれが、自らの死を早めるだけだとしても――侵食率が臨界点を突破すれば、この少年はそこで“死”ぬ。
 けれど。
 蘇生を繰り返す内に、それが本当に愚かな行為であると少年は気づく。
 救いを受けた仲間たちは、よりウイルスの侵食を進めて……そう、より人から遠ざかって息を吹き返す。
 ……そして彼らは“0620”を襲う。
 ……もう、戻ることなんて、出来ないのだ。
「……ころ、す。つきさして、ころ、す」
 手にキラキラと輝く刀を持つ少女が、“0620”を壁へと追い詰める。それは彼の事を「うた」と名づけてくれた、一番の友達だった。彼女の瞳はけばけばしく血走り、もうあの時の優しさは、ない。
――
 “0620”は、ポケットに隠し持っていた小さなプラスティックの塊を握り締めた。
 入生田という男は、もしもの時にこのカプセルを飲めと言っていた。今から思うと、どうしてあの時にあの男を信じたのか、もはやきっかけすら思い出せないのだが……この状況を打破出来る可能性は、薬を飲むことぐらいしか思いつけなくなっていた。
「入生田……先生」
 きゅっと瞳をつむる。
 自分には何もなくて、何も浮かばない。助けたいはずの仲間の顔もこんなにそばにいるのに、憶えていることがどうしてか出来なくて……重ねた思い出が抜け落ちていく。名を呼んだ入生田の顔も、茫洋として思い出せない。
 所詮自分はこうなのだ、と、哀しい諦めの声が響く。
 なにかと引き換えに、思いとどめるという行為をなくしたのだ、と。

“だからそんなからっぽの存在は、ここで死ねば、いい”
“いやだ

 即座に強い否定が心に響く。自分でも戸惑いながら、死への拒絶が強く痛いほどに心を焼くのを、自覚。

 それは、ひとつの渇望へと収束する――“歌をまだ、僕は一緒にうたってない”

 迷いを捨てて、少年は海色のピルケースを開くと、真っ赤な色のカプセルを飲み下した。喉を伝ったカプセルが即砕ける感触。それはまるで体内に取り込まれることを渇望していたの如く。
 同時に少年の体内の細胞を一気に塗り替えるように、レネゲイトウイルスが急激に活性化し、体内で“ヴァン”と無機質な機械音のような警告音(アラート)が、1回。

…………
 ――2度目の契約だ、生き残りたいか?
 はい。
 ――生き残ることは出来るだろうが、その先はお前次第だ。
 壊れる、壊されていく……違う、これは僕か望んだ、コト。
 ――本当の力の使用を許可する。さぁ、解き放て。
…………

 少年の瞳が……彼は忘れているけれど、双子の妹によく似たライトブラウンの瞳が血の紅へと変わる。それは、二度と戻らない、不可逆の変化。
 大量の血が肺を駆けのぼり食道を逆流。
 ウイルスを含んだ、血。熱い、当り前。だってこれは人を形作るモノ。ひと? いや、違う、モノだ。僕は、モノ。そしてこいつも……モノ。
「……――
 少年は見る、自身に瓜二つな姿見の子供が、ゆらりと傍らに立つのを。そして“それ”が、自分の命令を待っているのも、誰に教えられたわけでもないのに、知っている。
 薬を飲んでからの時間は僅か一瞬。
 エフェクト能力でスピードを強化された目の前の少女が“0620”の胸に刀をつきたてた。血人形“従者”で庇わせる余裕もなく、少年はその刀をあっさり受け入れる。
 先ほどまでの彼ならば、涅槃の世界へと堕ちていた。しかし、今は、違う。入生田が与えた薬の力は、彼に無限にすら思える生命力を与えている。
「……痛いけど、こんなんじゃあ、まだ死なない、よ?」
 平坦な唇からくすくすと葉が擦れるような笑み声は、いつもより感情という肉を感じさせる。紅の瞳の少年は突き立てられ刀身をつかみ、自分の体により深く食い込ませながら、少女の体を招き寄せた。
「くっ?」
 僅かに戸惑いを浮かべた少女の腕を刀傷で血まみれの指でつかむと、少年の唇から八重歯というには長く鋭すぎる牙を見せて、にたりと笑んだ。
「捕まえた……」
 その声と同時に真っ赤な血の霧がゆらめき、少年の姿を儚く煙らせる。
 ――体内、精製。
 人を癒す力しか持たなかったはずの少年は、この短い時間でどんなに肉体を鍛えても決して阻むことが出来ない毒を作り出す術を手にした。
“殺す必要が、あるから”
 血まみれの指を通じて目の前の少女の肌へ、紅の霧という形で発現させた“毒”を塗りこむ。
「……や……え……ぅぅ」
 こらえきれない痛みに少女は刀を取り落とすと、地べたへとへたりこんだ。がくがくと震える体を抱きしめて、血走りし瞳で助けを求めるように少年にすがる。
「さようなら。キミを殺さないと僕は生き残れないようだから、殺す、ね」
 少年が無慈悲な宣言をすると、少女は見開いた瞳から一粒の涙をこぼし……動かなくなった。
 ……つい数時間前までのココロの繋がりは、露と消えた。
「さて、と」
 少年は背後の血人形が、震えまた同じ血人形を吐き出すのを尻目に、目の前の惨状を見据え、沈思黙考。
 動かないのが11名。残っているのは教官を合わせて10名。教官はほぼ無傷で、あとは≪リザレクト≫ないしは、少年の≪ヨモツヘグリ≫での復活のため、生命力は芳しく低い――彼らは自分でも、壊せる。だが複数には使えないので、今戦いに飛び込むのは……オイシクない。
 攻撃からの防御は、この血人形を盾にすれば凌げる。一番いいのは、殺しあいさせて敵対者の数は減らす事だ、出来れば0まで。
 ジャームとさして変わらぬ程の浸食を示しながら、少年は残酷なまでな冷静さで場の状況を見極めていた。その冷静さこそが、まさしく人から離れ還れない域への到達を示しているのだが。
「あいつ、どうしようかな」
 壇上で外部と通信を取り続ける無傷の教官に対する対処法――瞳を閉じて暫し、新たに目覚めた能力の検索を行えば、血人形が自爆をすることで多大なダメージを与えることが出来ると“知っていたことに”気づく
「じゃあ、盾にならないぐらい弱ったら使えばいい、と」
 更に数を増やし3体になった自分の映し身に目を向けて、少年はそこで思考を止めた。元仲間たちが、自分に歯向かってきたからだ。
 よける術を持たない少年は、迷うことなく従者を盾にするとその攻撃をしのいだ。そして反撃は≪茨の輪≫という、毒だけ。けれど、復活直後で生命力が低い者しかいないこの場では、絶大なる力を発揮するのだ。
「……従者? どういうこと」
 壇上の教官がいきなり出現した従者3体に難色を示し、指示をを仰ぐため報告をした。

 ――同時刻。FHの“賢者の石精製プロジェクト”作戦指示室。

 作戦指示室内は浮き足立っていた。関西のある施設にてプロジェクトが成功を収めたからだ。ひとりのチルドレンの体内に“賢者の石”の精製を認めたのだ。
 他の施設の実験も、東北の1施設を除いて全て完了していたため、本作戦責任者の“ファナティック・アルケミスト”は、既に関西に向けて出発しており、ここには留守番の職員が2名ほど詰めているだけであった。
『ソラリスのピュアブリードの少年が、ブラム=ストーカーとしての能力を覚醒させた様子です。如何いたしましょうか』
 少し焦ったような女の声。東北へ送られたこのエージェントは予定時刻に作戦が終了せず、自分の今後の処遇について密かな不安を抱いていたのだ。
「実験を続行せよ」
『了解……ッ? クロスブリードで4体目の従者?! いったいどこまで侵食が進んでいるの? 危険と判断し対象者“0620”を処分します』
「その少年は“賢者の石”が精製されなければ、始末してもよい」
 この場に“ファナティック・アルケミスト”ないしは入生田成瀬がいれば、連れ帰れと指示を出したであろうが、もはや最後の実験場での結果にさほど興味がない職員は、適当とも言える指示を投げた。
『りょうか……』
 通信が途中で途絶える、怪訝に思った職員が呼びかけたが返事はない、ただ通信機を通じて最大音量の悲鳴が、部屋を満たしただけだった。

「………………」
 都内某所の一室で、入生田成瀬は煙草をふかす。
傍らにはインスタントのコーヒー、耳には競馬場で中年の男がよく耳にしているようなイヤホンがへばりついており、そこからは“賢者の石精製プロジェクト”作戦指示室の通信内容が、クリアな音質で流れ込んでいる。

『や……やめて……もぉ、殺して……もぉ……生き返らせないで……毒は、いや』

 脈絡のない台詞から事態を想像するだに、≪ヨモツヘグリ≫と≪茨の輪≫あたりをセットして浴びせられている様子だ。理性があればあるほどに、自身がジャームへと変わり果てる様を自覚せざるを得ない、一種の拷問であろう。
 使用者は“0620”という、己を示すのは数字という、少年。
 ……作戦本部は先ほどから終始無言である。

『毒、い、らない……もう……あたしを……壊さない……でぇ……んああああっっ』

 もう何度目かの布が擦れる音。女が痙攣し、果てた印だ。それは対峙者が飽きるまで繰り返される、死のロンド。
「くっ……くく」
 今まで無言だった入生田は、傍受し始めて声を漏らす。零れ落ちるのは悦に入った笑声。強い歓喜が刻まれた唇でコーヒーを煽った。
 彼にとっては“賢者の石”精製よりもずっと、こちらの結果の方が興味を惹いている。
 少年は“生き残る”事を選択し、自分の渡した薬を口にした。結果、見られたのは新たなシンドロームの発症と、多数のエフェクト能力の発現。
 ――本来はありえない速度での、成長、だ。
 自らが仕込んだささやかな仕掛けが、ここまでの成果を生み出したのだ、これを喜ばずしてどうしろと?
 女の声が完全に途絶えた。通信が切れた様子見取り、入生田はイヤホンを外すと満足げに呟いた。
「期待通り……いや、期待以上だよ」
 と。

 ……。
 実験終了後、入生田は“0620”をFHで回収できたか確認をした。返ってきた返事は「突入したUGNに捕獲され、ジャームとして処分された」という、ありきたりで色気がないものであった、が。その通り一遍の返答が、逆にあの少年がUGNの手により隠匿されている……と彼に確信させた。
 だが以降、少年はぷつりとその痕跡を消してしまった。

 ――縁。
 多数の“入生田”の内、いつでも必ずひとりの意識には“あの少年”の事を引っ掛けて、それでも会えないまま、時間は経過していった。

 200×年、冬。都内某所――
 入生田成瀬は悠然とした笑みで4名の若者たちと対峙していた。

 2人はUGチルドレン。
 1人はイリーガル。
 最後の1人はUGNの若き研究者――それは入生田が再会を待ち焦がれた、あの少年が成長した姿で、久遠寺遥歌と名乗った。
 まるで鮭が生まれた川を求めるように、紅い瞳の青年は入生田の元に立ち、自身の存在に対する問いかけを投げかけてきたのだ。
 ……喜びが、零れそうになる喜びが、あの日の邂逅を思い起こさせる。
 あの時から更に沢山のモノを亡くした少年は、今は自らが複製体ではないかと苦悩しているらしい。取り返した大切なモノが目の前できらめいているというのに、それらはなにも見えてはいない様子だ。
 その愚かさが愛おしい――だから入生田はさらに深みへと誘うように、言葉を与えた。
 それでも今回は、敵対の運命(さだめ)らしい。せっかくの再会だというのに、無粋な。運命から抵抗を試みるため、入生田はあの日と同じ≪錯覚の香り≫≪帰還の声≫≪竹馬の友≫≪抗いがたき言葉≫で、遥歌を洗脳し説得する。
「……あなたの甘言を聞いている場合ではありません……からね」
 それに対して、遥歌は自らの人差し指に歯をたてると零れた血を啜り、昏いブラッディ・レッドの瞳で見返してくる。
 レネゲイトの侵食がブレてあがる、気配。
 入生田の放ったエフェクトに一度は堕ちたものの、自身の中で中和する薬品を精製しクリアにしたらしい。その≪中和剤≫は、今目覚めたばかりの能力だと見て取れた。面白いことに必要に応じて成長するという性質は、未だに有効のようだ。
「ほほう。それでは……」
 入生田は椅子を引いて立ち上がると、挑むような瞳で問いかける。
「どうしてくれるのかな?」
 と。

――縁を”
“自分から結びたいと渇望し続けた縁を、今度はそちらから”


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