その日は雨が降りそうで降らず、傘を持たずに出歩けば降るような、曖昧な天気であった。ちょっとそこまでだからお願い、と母親に頼まれて買い物に行かされた右京は、マーフィーの法則よろしく土砂降りの雨にひっかかっていた。スーパーの名前が書かれた袋を手に下げ、右京は降り続く雨を見上げる。
(やけに雨の音が耳に響くな…)
そうだ、前にもこんなことがあったような気がする。ただ、雨の音だけが聞こえる。手足の感覚はおろか、聴覚もすでに失せている筈なのに、だ。赤くぼやけた視界に映るのは、鈍い光を放つ鉄の翼をまとった少女。
       ごめんな 何も返せなくて
 自分のものではない声に、右京は我に返った。目の前から少女は消え、見上げていた空はすでに雨がやみ、光が差している。
「…とうとう白昼夢まで見るようになったかな」
独りごちて、苦笑する。スーパーの袋を持ち直して、家へと足を向けた。

 田嶋右京。155cmの小柄な15歳。天神学園の高校1年生である。そのジャニーズ系のマスクとさわやかな笑顔は、そんな男の子が好みな学園のおねえさま方を魅了していた。
例えば。
「あ、右京くんっ!」
「こんにちは、先輩」
走り寄ってくる2年生の女子に、右京は微笑んで会釈する。
「右京くんに渡したいものがあるの」
「え、僕にですか?」
差し出されたのは数学のテスト問題だった。
「この前話してたものよ」
「本当ですか!?わあ、有難うございます、先輩」
光り輝く背景を背負って(*先輩の主観映像)嬉しそうに笑う右京に、先輩は理性で鼻血が出そうなのを抑えた。
「いいのよ、右京くんのためだもの。また何かあったら言ってね、力になるから」
頬を染めて走り去る先輩。にこにこと手を振る右京の首に友人が腕をまわす。
「こーのホスト体質めっ。今日は何を貢がれたんだー?」
「数学の田辺の去年の試験問題」
ひらひらと先ほど受け取ったプリントを揺らす。
「田辺は毎年ほとんど同じテストをやるんだ。さっきのは去年田辺の授業受けた先輩」
「へーえ。後でコピーさしてくれな。しっかし、『僕にですか?』だってよ。まーかわいらしい」
首にまわされた腕をほどきつつ、右京はしれっと答えた。
「ニーズに応えてるだけさ」
友人もそんな右京に慣れたもので、「よく言うぜ」とからからと笑った。
 こんなことは日常茶飯事なわけなのだが、年下(同じ年齢だが)系が好みでない人間も、彼の運動する姿にノックアウトされることもある。小柄なのに意外と力持ちで、運動着からのぞく二の腕や太ももはよく見れば引き締まっており、サッカーでパスをしているだけでも彼の動きには鋭さがあるのだ。
 右京は、敵をつくらない主義である。徹底的に「いい人」であろうとするのだ。その素地は彼の家柄にある。右京の家は名のある空手の道場で、右京はその跡取りである。それゆえ空手界の要人との交流をはじめ、様々な要人と接するにあたりどこに出ても恥ずかしくないよう礼儀作法を徹底的に仕込まれたのだ。そして、格式ばった場で獲得していった社交の技術は、右京の祖父へも応用されていった。
 右京は物心つく前から空手を始めていた。跡取りならば当然のことなのだが、やりたくて始めたものではないのだから厳しい練習が嫌になることもしばしばであった。しかし、右京の祖父  鷹雄は指導の手を緩めなかった。そんな祖父を上手くやり過ごすために、祖父の前では「いい子」であるようになった。その発展形が「いい人」である。学校の成績も、礼儀作法も、料理から鍵開けの技術まで、それは全て右京にとって「世渡り」のためのものである。
 右京は「いい人」であることを貫いて何か企んでいるわけではない。「いい人」であることは半ば意地のようなものだ。笑顔の裏側を知る友人達も、そんな右京のやや屈折したスタンスを受け入れて付き合っている。
 以上のような人物であるため、あまり悩みは友人に話さない。特に、最近彼を悩ましているようなものは。
 悪夢と夢遊病。右京は先日、この2つのせいで自分の部屋の壁を正拳突き一発でひびを入れてしまった。悪夢にうなされ、そのまま布団から抜け出し、何かと戦うように暴れだすのである。睡眠の質は良くない上に、目覚めると自分の体は回し蹴りの体勢で止まっていたりする。こんなことを友人に話せるわけがない。言えば、病院へ行けと言われるのがオチだ。

雨宿りをしている時に聞いた声は、その悪夢にいつも出てくる男のものだった。
(こんな曖昧な天気のせいかな。この天気のように現実と夢の境が曖昧になった、とか)
 最近見る夢は、夢というにはあまりに生々しく現実味を帯びている。夢の舞台はいつも、人の住める場所が減り、狭い所に人々が肩を寄せ合いながら大地が枯れていくのをただ待つ『イングズ』という名の世界。右京は夢の中、その世界で「リガル」という男の行動をずっと見ている。
 リガルは口が悪く、ケンカっ早く、酒も女も好き、だけどもおせっかいという男だった。
行動も思考回路も、全てが右京と正反対で、なおかつ右京の癇に障る部類の人間。嫌いな男の珍道中をえんえんと見させられるだけでも苦痛だというのに、リガルの心の声や、戦って負う傷の痛みを共有しているのだ。これを悪夢と言わずにいられようか。
(変な痣もできるしな…俺、呪われてんのかな?)
悪夢と夢遊病が始まった時、右手首に洗っても落ちない妙な模様が出てきたのだ。線が不規則に延びているような模様なのだが、右京は直感的にそれを「竜」だと思った。しかし、その模様が竜だろうがなんだろうが、祖父に見られればうるさい。今はなんとかスポーツ用のリストバンドで隠しているが、家でも見られないよう気をつけるのは大変だった。
「…ただいま。母さん、チラシの牛乳は売り切れだった」
「おかえり右京。他のメーカーのを買ってきたの?」
一応、と答えて右京は母親にスーパーの袋を渡す。
「雨、突然すごかったわねえ。冷えたでしょう?」
「ん、大丈夫。じゃあ、俺部屋にあがるから」
右京は昼寝しようと思ったが、思い留まる。眠ればまた夢を見る。部屋を破壊するのもごめんだ。
(…どうしろってんだよ)

 雀のさえずりが聞こえる。窓を見れば、カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。
「……………」
寝ぼけた目のまま時計を手に取ると、きっちり朝稽古が始まる15分前であった。
 右京は正直まだ寝ていたかった。昨日の夜は、夢も見ないほど体を疲れさせるために筋トレやら1人組み手やらを延々とやり、倒れ込むように寝ついたのは深夜の3時半。昨日ほど幼い頃から鍛えられた体と体力を恨んだ日はない。
 気力で朝稽古を乗り切り、「1年4組」というプレートのついた教室にふらふらと入る。
「おはよう、一縷野くん」
「あ、おはよ」
先に来ていた隣の席の一縷野望は答えてから欠伸をする。そして、眠そうに机に突っ伏した。
 チャイムが鳴り、ホームルームの時間が来た。右京は連日の悪夢による寝不足で、すでにその時間から眠気に耐え切れずに船を漕いでいる。

       私に降る雨だって暖かいわ
雨の中、鈍い色の金髪の少女は言った。手のひらにあたる雨粒を幸せそうに見つめている。
       すべては生きるために与えられるの

ねえ、リガル?

無邪気に笑っていた少女は、変わってしまった。変わらされた。
「あいつは、誰よりもこの世界を愛していた!誰もが未来をあきらめている中で、あいつだけは純粋にこの世界を愛していたんだ…っ!」

なのに、なんでだよ。

「なんで、そんなあいつの手でこの星を滅ぼさせようとするんだ…!!」
リガルは、鈍い光を放つ鉄の翼をまとい、生気を失った瞳の少女の隣にいる黒衣の女に向かって叫んだ。
少女は何の表情もない顔でリガルに手を向ける。そこから、一筋の大きな光が放たれた。
もう避けられない。死を悟ったとき、リガルは泣いていた。そして、自分に向かう光の向こうの少女を見つめた。
       ごめんな 何も返せなくて

 白い光が右京を包んだ。衝撃が体に走る。
          っ!?」
目を開け、まず気付いたのは自分が椅子からずり落ちていたこと。
「…田嶋くん?どうしたの、大丈夫?」
この声は、1時間目の英語の教師だ。そういえば、ホームルームが終了した記憶がない。
(…寝てたのか)
居眠りしていた上に椅子から落ちた恥ずかしさを顔に出さないようにしながら、右京は教師に謝る。
「珍しいわね、田嶋くんが居眠りするなんて。体の調子が悪いの?」
「実は、朝から調子が悪くて」
「そう、なら保健室に行きなさい」
「はい、すみません」
いいのよ、と教師は笑う。寝不足で本当に調子の悪い右京は、ふらふらと教室を出て行った。
その背中を、望はちらっと見つめた。

 『まぁたかよっ!?なんなんだよ、くそっ』
保健室のベッドにもぐりこんだ途端、突然頭の中でリガルの声が響く。しかも、今まで以上に直接響いてくる。
「!?」
『あのへっぽこ魔道士の呪いがまだ続いてるってのか?魔法はろくすっぽ使えねえへっぽこのくせに呪いだけはしつけぇな、あの野郎っ…』
右京の頭の中でなおもしゃべり続けるリガルに、たまらず右京は心の中で叫ぶ。
(うるさい!寝不足の頭に響くだろうが!)
『ああ!?いきなり生意気だな、この世界での俺様の魂の拠り所は』
「…は?」
思わず声に出して、慌てる。しかし、保健室の先生が来る気配はなかった。
『お前は、この世界での俺らしい。違う世界の同じ魂ってやつだな。あー、口で説明すんの面倒くせえ。記憶共有できるらしいから、それ見ろ』
 すぐにリガルの記憶が流れてきた。
       イングズを、あの少女を取り戻したいか
ドラコニスと名乗る存在が、魂だけになったリガルに問いかける。
「取り戻せるならな。俺はあいつに何もしてやれなかったから」
       ならば、その術をやろう。まず、お前を他の平行世界に連れて行く。
「平行世界?」
       世界は様々な可能性を持つ。木がその枝を様々の方向へ伸ばすように、世界も様々な可能性のもと平行して存在する。
「で、他の世界に行ってどうするんだ?」
       1つの世界の歴史しか認めない者たちがいる。お前も見た、あの黒衣の女…ディーヴァだ。同じ魂を持つ者の体を借り、「竜の傭兵」として他の平行世界を消そうとするディーヴァと戦え。そして、奴等の体から出るクロノジェムを集めろ。そうすれば、時を戻せる。
「そうすれば、イングズを、あいつを取り戻せる…。どうせ死んだ身だ、やるぜ」
リガルの意識はドラコニスに連れられて、時の狭間を飛んだ。
『ま、そんなわけで来たのがお前の体だったわけ。しっかし、なんでこんなチビだかな。やっと元の身長に戻ったと思ったらこれかよ』
そういえばは、魔道士から恨みをかって子供の姿にされる呪いをかけられてたな。右京が数日前に見た夢を思い出していると、リガルはうんうんと(右京の頭の中で)頷いた。
『本当の俺は背も高くてフェイスもボディもビューティフルだってのによ、なーんでこんなベビーフェイスのチビだかなー』
(文句があるなら出て行け)
『あー、そりゃあ無理だ。イングズを取り戻すまで俺は自分の意思じゃ離れられねぇからな』
偉そうに言うリガルに右京はキレそうになるが、こらえる。
(…お前に協力するしかないってのか)
『おうよ』
リガルは(右京の頭の中で)ふんぞりかえった。
(…わかったよ、協力してやる。お前がいなくならないと、夢遊病は無くなりそうにないからな)
リガルは何の含みもなく微笑むと、右京の意識の奥へと沈んだ。
右京はため息をついた。夢遊病も困りものだが、素直にリガルに協力しようという気になった自分に苦笑する。
(分かるんだよな、あいつの気持ちが)
死に際に、鈍い色の金髪の少女を見て涙を流した時の、リガルの気持ちが痛いほど分かってしまったから。
 右京は掛け布団をかぶりなおす。今は、なんだか安らかに眠れそうだった。

 リガルが右京に憑いてから、その存在を認めたからだろうか、右京が悪夢でうなされる事も布団を抜け出して暴れだす事も減った。しかし…
『おい右京。牛乳一杯だけか?そんなんじゃ背ぇ伸びねえぞ』
毎朝毎朝、リガルが「食えにぼし、飲め牛乳、伸ばせ身長」とやかましく言うオマケがついてきた。
 右京はその後、天神学園の「竜の傭兵」達に出会う。それは教師であったり、クラスメイトであったり、道場の練習試合で出会った同学年の女の子であったり。

 余談だが、「竜の傭兵」でもらう給料は、もっぱら壊した部屋の修理に使われている。


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