ドラゴンマーク≫私も、逢えてよかった

 どこまでも広がる、空。どこまで続くんだろうと、考えることもない。知らなくても、
それは充分に綺麗だから。
 誰もいない屋上で、何を想うでもなく。雲一つない澄んだ空を、少女は見上げていた。
ときおり柔らかな風に吹かれた髪が宙を踊るけれど、それを気に留めることもない。気に
するくらいなら、初めから切るなり縛るなり編むなりしている。あらゆる事象に興味を抱
けない少女は、自分自身のことにさえ虚ろだった。
 不自由であることは、認識していた。自由と呼べる時間は、指折って数えるくらい。だ
からこうしてわざわざ朝早く登校し、始業までのそれをわずかなりとも確保するのは、少
女にとって唯一の贅沢といえた。
 でもそんな生活を、改善しようとは思わなかった。自由の少ない日々を嘆くこともなく。
もっと自由にありたいと願うこともなく。かといってその日常に満足しているわけでもな
く。ただそこから先を、考えはしないだけ。何もかもが、他人事のようで。
 けれど同じようでいて毎日違う、春色に染まる空。それを心地好いと感じる感性は、ま
だ残っていた。だから彼女は、ここにいる。

1.

「ふぅん」
 隠し撮りらしい写真を片手に、優奈は目を細めた。学校名は初耳、あるという地区どこ
ろか県にすら行ったこともないのに、制服にだけは見覚えがあるのは何故だろう?
 数瞬頭を悩ませたが、それ以上考える意義を、彼女は見出さなかった。どうせ理事長は、
私が「知っている」ことを理由として私を選んだわけではないのだから。つまりは無理に
思い出さなくとも、任務に支障はないはずなのだ。きっと。
 写真の娘は、データによれば1年生。優奈より2つ下、ということは従姉妹と同い年く
らいか。見るからにタイプは違いそうだけど。
「で、彼女はどんなチカラの持ち主なんです?」
「さぁ?」
 用務員ルックに身を包んだ理事長は、悪びれずに肩をすくめる。何が楽しいのか優奈に
はさっぱりわからないが、この人は大概理事長らしい格好をしていない。理事長室にいる
ことすら、滅多にない。他人の趣味にケチをつけるわけではないけれど、不思議な人だ。
「理事長先生〜?」
 優奈の冷たい視線にも、たじろいだりはしない。さすがは年の功、というか。この祖父
ありてあの孫あり、というか。あんまり関わり合いたくない顔を思い出して、優奈は小さ
く溜息をついた。悪気がないだけ、まだマシだと思うことにする。そうとでも思わないと
やってられない、というのもあるけれど。
 情報を小出しにして楽しむ人ではないから、どうつついてもこれ以上の話は聞けそうに
ない。そう判断して、優奈は早々に退散することにした。レポート用紙2枚だけの資料を
鞄に突っ込み、写真はひとまず胸ポケットに入れて……
「……これは?」
 ぽつねんと置かれた、グレー基調の小さなスーツケース1つ。サイズからして、親子セッ
トで売っているものの子の方だろうか。
「用意してもらったものだよ。必要かもしれないと思ってね」
「必要……ねぇ……」
 中身を一瞥して、優奈は唸った。予想通り、かの学園の制服である。綺麗に折り畳まれ
たブレザーの冬服が、都合2着。こんなモノを仕入れるコネを持っているとは、理事長の
肩書きは伊達じゃないらしい。別に羨ましいとは思わないけれど。
 ともあれ。なければないでやりようはあるにせよ、あるなら選択肢が増えるわけで、悪
いことではない。そう頭を切り替えてチェックしてみると、サイズはどちらもM。優奈な
ら問題なく着られる。
   問題は、あと一人ね……。
 一人で赴くという選択肢は、優奈にとっては最初からなかった。かといって普段の「仕
事」とは性質が違うから、大勢であればいいというものでもない。話し合いが目的で、相
手は一人。優奈の他に、せいぜい一人か二人くらいが無難なところだろう。
 しかしその人選は、意外と難しかった。この人となら、と安心できる仕事仲間が浮かば
ないのだ。理事長が優奈だけを呼んだのも、そのあたりに起因するのかもしれない。もと
もと今回のような特殊な仕事を想定して集められたメンバーではないから、仕方ないとい
えば仕方ないのではあるが。
 さてどうしたものかと、悩むこと数分。ふと、一人の顔が浮かんだ。
 ぽん、と手を叩いて、さっそく携帯電話を取り出す。首尾よく捕まえられたら、もう一
人にも声をかけなければ。優奈より遥かに優れた化粧テクを持つ、愛すべき従姉妹に。
   発想の転換って、重要よね。
 それが消去法であったことは、この際さておくとしよう。

 最初は、辛いと思った。イヤだとも思った。でも今は違う。大変だとは感じても、辞め
ようなんて思いもしない。変われば変わったものだ。
   不思議なもんね。
 洗いたてのシーツを物干し竿に投げかけつつ、椿はくすりと笑う。あまりの天気の良さ
に、つい一昨日もこうして干した部屋着や枕カバーまで洗濯機に放り込んでしまった。い
つからこんなにマメになったんだろうか。しかも今日は休暇日だというのに。
   自分の分も、せめてこの半分でいいからマメに洗えばいいのにさ。
 今度はちょっぴり、苦笑が混じった。毎日洗濯しているにもかかわらず、自分の分は夏
場でもないと週に一度が基本だったりする。このあたりは学生時代と、まるで変わってい
ない。そう考えると、今でもきっと「家事が好きになった」というわけではないのだろう。
 でも、仕事だからというだけでもない。それならもっともっと、やる気は摩滅していた
はずだ。少なくとも、休日は自分のことしかしないくらいには。
「さて、っと……」
 最後のタオルを干し終えて、空を見上げる。大半を青が埋めるそれは、どこまでも途切
れることなく広がっているよう。その上から差す陽射しは、朝だけあって随分と柔かい。
最高気温が20度を超える日も増えてはきているものの、それでも照りつけるというほど夏
を感じさせるには、まだ一月は要するだろうか。
   よし。
 決めた。今から散歩に出て、帰りにお買い物して3時のおやつに間に合うように、何か
作ろう。今日は土曜だから、学校は半日だけ。1時をすぎる頃には、お腹を空かせて帰っ
てくるはずだ。ご飯は佳子さんのお仕事だから、そっちは任せるけど。
 椿は空になったバスケットを拾って、鼻歌交じりに歩き出した。この前はチーズケーキ
だったし、今日は和風におはぎでも作ろうか。それともレモン汁でも混ぜて、メレンゲパ
イ焼くのがいいか。もしくは……。
 食べてもらっていないレパートリーは、まだ両手に余るくらいある。そして、どれでも
美味しいと笑ってもらえる自信があった。お嬢様育ちの割に、偏食とは縁遠い人だし。
 でもだからこそ、一番好みに合うものを食べてほしいのだ。
「そろそろ授業、始まったかな……」
 階下へ向かう扉を開いたところで、一度だけ立ち止まって。何とはなしに、遠く学校の
ある方へ目を向けてみた。毎日同じ時を告げるチャペルの鐘だけは、ここからでも朧げな
がら見えるのだ。もっとも音までは聞こえないし、鐘が揺れているかの判別もまず無理な
のだけど。
 一日に3度だけ鳴る古びた鐘は、今日も変わることなくぶらさがっている。学び舎に集
う、乙女たちのために。
 それが揺れているかどうかは、やっぱりわからなかった。

 予鈴が鳴った。
 いつものように屋上での時間を過ごしていた少女は、余韻が消えるまで確認して腰を上
げた。本鈴まであと5分、これ以上ゆっくりはできない。
 屋上は基本的に出入り禁止で、立ち入るには許可が必要だ。特に鍵などはかけられてい
ないが、小中高一貫教育のお嬢様学校だけあって、そういった規則を破る生徒はまずいな
い。だからここに出入りするようになって、屋上はおろか階段やその付近でさえ、この時
間帯に人と出逢ったことはなかった。
「ごきげんよう」
 けれど、今日は違った。幾段か下に教師の姿を見つけ、少女は機械的に頭を下げる。彼
が担当する世界史は2年からの分野であったから、授業でお目にかかったことはない。廊
下で見かけたことがあるだけで、当然名前も知らなかった。もっともたとえ担任であった
としても、少女の応対は変わらないのだけれど。
 それを受ける側は、対照的に表情豊かであった。
「ごきげんよう」
 口の端を持ち上げて、いかにも何か企んでいます、といった素振り。小学生向けの舞台
なら、及第点を与えられる出来であったろう。
 しかし残念なことに、相手の洞察力はこのとき小学生未満だった。正確に言えば、無意
識レベルにおいてすら、その意を解そうとしていなかった。
「待ちたまえ」
 そのまま通り過ぎようとする少女に、憮然とした顔でストップをかける。不本意ではあっ
たが、そのまま行かせてしまったのでは始まらない。今日は、特別な日なのだ。
 何でしょうか、と振り返るその顔には、校則違反の罪の意識は欠け片も見当たらなかっ
た。教師に対する敬意どころか、関心そのものがない。せいぜい路傍の石にすぎぬ、とい
うところか。
 面白みのない女だと、心の内で悪態をつく。たとえ嫌悪であれ侮蔑であれ、何かしらの
表情を浮かべるのであれば、まだ可愛げがあろうというものを。
 まあいい、であれば興味を抱かせるまでのこと。
「君は胸の痣について、知りたくはないかね?」
 思わせぶりな前振りは無駄と見て、ストレートに本題を切り出す。
 その判断は、正しかった。

 正しくなかったのは、ウェイトレスの判断だった。だがこれは、彼女を責めるのも酷と
いうものであろう。見目麗しいスレンダーな女子高生が、まさか育ち盛りのやんちゃ坊主
さえ及ばない速さで皿を空にしていくとは、予想する方が至難に過ぎると言えた。
 もちろんそれだけ味に優れているという事実は、誇ってよいものだったが。
「せっかく持ってきたんだし、着て生徒のふりして侵入するのが一番手っ取り早いわよね」
 焼けたタンを電光石火の速度で口に運びつつ、優奈が同意を求める。少し前までは説明
通りに薬味を巻いていたのだが、今はもうそのままだ。薬味にはタンの臭みを消すのにニ
ンニクを混ぜてあったから、このペースでは街を歩けないほど染みついてしまう。これか
ら温室育ちらしいお嬢様に逢うというのに、ニンニク臭ぷんぷんではさすがにまずかろう。
 言うまでもなく、そのニンニクの混合比こそがウェイトレスの失敗だった。わかってい
れば、ニンニク量を減らしていただろう。多少味が落ちると知っていても。
 しかし巻く手間がなくなると、その分ペースは速まるわけで。
「そうですよね、ゆん姉さまっ」
 握り拳作って首を縦に振るのは、優奈の従姉妹。うんうんと頷く彼女を横目に、最後の
1枚を網に乗せる。ついでにもう一皿、追加注文。ウェイトレスの顔が一瞬引きつったの
が見えたけど、気にしない。
「千里くんはどう思う?」
 向かいに座る少年は、眉をひそめた。こちらは優奈の仕事仲間で、1つ年下の2年生。
やや小柄で、背は優奈よりほんの少し高いくらい。若干痩せぎみだけど、痩せすぎという
ほどではない程度の細身。
 だからもちろん、女物のMだって着られなくはない。
「知ってますか? あの学園は明治以来の伝統あるお嬢様学校で、今でも『ごきげんよう』
なんて挨拶がまかり通ってる女の園……らしいですよ」
 少しだけ身を乗り出して、囁く。自他共に認めるマニア少年でも、周囲の目を気にする
程度のモラルはあった。そして優奈が言わんとすることを悟れるくらいに、鋭くも。
「詳しいのね」
「えぇ、何度もクリアしましたからね。フルコンプはまだですが」
 なるほどそういうことかと、優奈は頷いた。どこかで見たことがあると思ったら、ある
ゲームの制服に酷似していたのだ。優奈自身は買っていないが、行きつけのゲームショッ
プにポスターが貼ってあった気がする。「オレはやりすぎだと思うんスけどね」とは、ア
ルバイト店員の友人の言だ。
 これから訪れる学園は、そのゲームの舞台の参考になったという噂が、まことしやかに
流れている。それも制服のデザインだけでなしに、慣習や建造物の構造まで幅広く。さら
にはゲームだからと誇張された要素のほとんどが、実は「お嬢様校らしからぬ」要素であ
るとかないとか。
 あくまで千里がネットで拾い集めた話で、信憑性に疑問なしとは言い切れないのだが。
「だから、見た目だけ真似てもボロが出かねませんよ」
 タンを食べる合間に相槌を打ちつつ聞いていた優奈は、千里がまとめに入ったのを見計
らって、腕組みした。先ほど追加した皿が空になったから、というのもある。
「つまりお嬢様らしい態度を取ればいいんでしょ? 彼女を連れ出すまでバレなきゃいい
んだもん、どうにかなるわよ」
 のんびり校門で待ち構えるとか、入念に下調べするとか。そういうのは、優奈の性に合
わない。相手が中にいて、入る手段があるのだから、それでよいではないか。
「それだけやり込んでれば、千里くんはボロ出さないわよね?」
「フォローはしてくださいよ? さすがに声出したらバレますからね」
 そうくるだろうなとは思っていたから、千里も慌てなかった。そういう意図がなければ、
はるばる電車で3時間以上もかかるこんなところまで、優奈が仕事仲間でない従姉妹を連
れてくる理由はないのだから。
 もっとも千里としても、せっかくの機会を有効利用することにやぶさかではなかった。
招待状がなければ文化祭のときですら敷地内に入れない学園を、この目で直接見られるの
なら。8月に控えている某巨大イベントで出す本のネタ素材として、申し分ないどころか
おつりまで来そうだ。
 その代償がクラシカルな制服を着るくらいであれば、妥協範囲と思えた。どうせここに
は、知人は目前の二人しかいないのだし。
「じゃあ決まりね」
 頷いて、優奈は従姉妹に目を向けた。「お願いね、るんちゃん」
「任せてください、ゆん姉さまっ」
 びしっと親指を立てて、満面の笑みで宣言する。
「どこからどうみても完璧な女の子にしてみせます!」

2.

   ここは、どこなんだろう。
 まだどこかくらくらする頭に手を当て、記憶を辿る。屋敷を出た後、商店街が開くまで
の時間潰しも兼ねて、公園に向かったのまでは憶えている。それから  ?
 曖昧だ。どうにも、自分が意識を失ったのがどこだかが出てこない。公園に着けたのか
さえも、定かではなかった。どこかで誰かに、薬品らしい何かを嗅がされたのは確かなの
だけど。
 ゆっくりと頭を振り、一つ深呼吸。落ち着け、まだ私は生きてる  多分。
 自分に言い聞かせて、椿は己のいる場所をぐるりと見回した。畳を川の字に5枚ばかり
並べたくらいの、細長の殺風景な部屋。家具どころか窓もないせいか、広く感じられはす
るが、実際にはおそらく6畳もないだろう。見覚えは、もちろんない。
 闇に目が慣れてくると、向いの壁に何かがあるのがわかった。あれは  ノブだ。どう
やらあそこが扉で、この部屋の入り口らしい。鍵はかかっているだろうけど、耳を当てれ
ば外の様子が少しくらいはわかるかもしれない。
 そう判断して向かおうとし、ようやく気づいた。足と壁とをつなぐ、鉄の鎖に。
「あらら」
 軽口を叩こうとしたが、うまくいかなかった。声が震えている。と思ったら足も震えて
いるらしく、床と鎖とがかちかち音を立てていた。畳やカーペットなどという気の利いた
ものは、この部屋には敷かれていない。
   でも、気づくだけまだ冷静よね。
 無理に笑う。そう強がってでもいないと、恐怖に負けてしまいそうだったから。
「だいたい、なんで私が攫われなきゃなんないのよ」
 貧乏だし、美人でもないし、スタイルだってとりたててよくはないし。どうせ狙うなら
もっとこう、お金持ちで綺麗でぼんきゅっぼんな娘とか……
 本人ですら理不尽とも身勝手とも思える、そんな気持ちが招き寄せたのは  
   お嬢様。
 数十人もの使用人を抱える旧華族の長女で、ミスコンで上位取れるほどではないけど可
愛くて、背こそ低いけどグラビア飾れるくらいスタイル抜群で。どう考えたって私なんか
より向こう狙うでしょ、って感じの。
 犯人の目的が身代金であれば、同じ屋根の下に住む身として誤解された可能性は充分に
ある。それに気づかれたら、次狙われるのは……。
 ぎり、と奥歯が呻いた。

 それは正解ではなかった。彼らは最初から彼女を狙ったのだし、その目的も身代金では
なかったから。
 だが、不正解とも言いがたい。彼女を狙ったのはその先を見越してのことで、それ自体
は手段ではあっても目的ではなかったから。
「君が引き受けてくれるなら、彼女には何もしない。すぐに解放するよ」
 スクリーンに映る女性は俯せ状態だったが、それが誰なのかはすぐにわかった。
「もちろん、君には充分な報酬を約束しよう。君にとっても、悪い話ではないと思うよ。
手に入れたクロノジェムを独り占めして構わない、という条件はね」
 要するに、椿を助けたければ言うことを聞け、ということらしい。それくらいは、聞き
取れた。もともと理解力がないわけではないから。ただ単に、理解しようと思わないだけ
のことで。
 でも全てを解するには、まだそもそもの情報が足りない。
「その『くろのじぇむ』って、何なんですか?」
 少しだけ首を傾げて、細い人差し指と中指を頬に当てて。少女は夕食の献立を問うのと
何ら変わりのない口調で、尋ねた。
「何かと言われると、答えるのは難しいなぁ」
 こざっぱりした服がよく似合う、年若い青年は髪を掻いた。だが口元は決して困っては
いない。むしろ何が楽しいのか、にやにやと笑っている。おおよそ向けられた人の大半が
不快を感じるであろう、どこか遊ばれている印象を抱かせる笑み。
 それは、もちろん意図的なものだった。しかしそれがもたらす効果は、残念ながら期待
に遠く及ばなかった。少女の注意力は、青年個人には一切向けられていなかったから。次
の言葉を待って、ただ彼を見つめるだけだ。熱のない、空虚な瞳で。
「……これのことなんだけどね」
 軽く溜息をついて、青年はポケットからそれを取り出した。こう反応が乏しいと、面白
みに欠けていけない。噛みついてくるくらいイキのいい方が、交渉相手として楽しくてよ
いのだが。
 テーブルの上に置かれた球状の物体は、握り込めば隠せてしまうくらいの小さな宝珠だっ
た。青といえば青、けれど青と言い切ってしまうには語弊を感じる、微妙な色合い。光の
具合次第では、もっと別の色にも見えるかもしれない。あるいは宝石そのものが光ってい
るようにさえ、見えなくもない。なんとも不思議な物体だった。
 その輝きは、少女の右の中指にある指輪に埋めこまれているそれと、酷似していた。
「一つでは、足りないけど」
 組んだ両手の上に顎を乗せ、微笑む。
「これをたくさん集めれば  」

   世界を、取り戻せる。
 でも、今は。
 ゴメンねと心の内に呟いて、目を閉じる。途端、掌に乗せたクロノジェムが微塵に砕け
散った。封じ込められていた、時さえ歪めるエネルギーが奔流となって溢れ  目に見え
ぬそれが晴れたとき、優奈の姿は一変していた。
 腰までだった天然の茶髪は、色素を失って踝まで届く銀色に。どことなく古めかしいデ
ザインの制服は、アラビアを思わせるノースリーブのセパレートに。そしてゆっくりと開
いた目の奥は、茶から青い瞳へと。それは優奈の中に眠るもう一人の  本来いるべき世
界を失った  優奈。かつての世界でユーナイアと呼ばれた、月の神の使徒たる姿であっ
た。
 このことを知るのは、同じ境遇の仲間だけ。喜んで今の服と同じものを仕立て上げそう
な従姉妹にさえ、話していない。その従姉妹と「お仕事」の段に至って別行動を選んだの
は、あるいはこういった事態をどこかで予測していたからだろうか。
   未来を視るのは、シエン様の役どころではないのだけど。
 思わず洩れかけた苦笑を、きゅっと引き締めて。
「近くにいてね、と……」
 改めて祈りをこめ、小さく呟く。優奈の世界でユーナイアが動ける時間は、決して長く
ない。
 そばであたりを見張る千里にも聞きとれない声で、ユーナイアはこの世界にない言葉を
紡いでゆく。彼女が本来いた世界でのみ、使われる音。それは彼女が信ずる神の力を、こ
の世に具現化させる調べ。
 祝詞の終焉にあわせ、ほんの一瞬だけ、左のブレスレットのうちの一つが煌めいた。正
確には、そこにはまっている青い宝石が。
   よし。
 左手にある上履きと、その所有者である少女をつなぐ糸。それが、今のユーナイアには
はっきりと感じとれた。神は彼女の祈りを、聞き届けてくれたのだ。
 そしてそれは同時に、少女が生きていることをも意味する。最悪の結果にだけは、今の
ところ陥っていないようだ。あとはユーナイアたちが着くまで、犯人が変な気を起こさな
いでいてくれることを願うのみ。直線距離で2キロとない、おそらく1時間もかからない
はずだ。
 まだ誘拐と、決まったわけではないけれど。
「連絡もなしに休まれたことは、今まで一度もなかったのですけれど」
 不思議そうな顔で答えてくれた、少女のクラスメイトを信じるなら。ただのサボタージュ
でない可能性の方が、ずっと高いはずではあるのだ。
「それにしても」
 たった一つを除けば完全に学園に溶け込んでいる千里が、首を捻る。着こなしも仕草も
完璧であったが、変声期をすぎてしまった声だけは画竜点睛を欠いていた。ユーナイアし
か見ていないこの状況で、女性らしさを演じる必要は全くないという客観的事実は置いて
おくとして。
「誘拐だとしたら、手際よすぎですよ。犯罪組織が絡んでたら、どうします?」
「ただの犯罪組織なら、警察に任せましょ」
 小さく肩をすくめて、ユーナイア。そう、普通の組織ならいい。警察でもどうにかなる
だろうし、一介の市民が正義の味方づらするのもお門違いだから。
 だがもしユーナイアたちと同様に、その身に世界を取り戻す野望を秘めた己を宿してい
るならば  。脳裏に幾人かの顔がよぎる。取り戻す世界こそ違えど、互いに同じ目的を
持ち、協力しあう仲間たち。彼らのような力を持つ相手が犯人、ないし犯人に荷担してい
るのであれば、これは一筋縄ではいかないどころの話ではない。ユーナイアの行使する術
のように、この世界の物理法則に従わないものだってある。何も知らない警察には、いさ
さか荷が重いはずだ。
 ではユーナイアたちなら重くないのか、というと、もちろんそうとは言い切れない。相
手の実力どころかその数すら、今の段階ではまるで掴めていないのだ。手に余るようなら、
そのときは  
   どーにかなるでしょ。
 今追っている少女もまた、その身にもう一人の自分を住まわせているはずだから。

 けれど少女は、内なる自分に問いかける術さえ知らなかった。
 右手をそっと、胸上に重ねる。その中指に光る指輪には、小さな宝石が鎮座していた。
かつて砕けてカットし直した、クロノジェムの欠け片。今はもう、装飾としての価値しか
持たないけれど。
 掌の下、ブレザーとブラウスを経た内側には、痣らしきものがある。もう一人の自分と
の、唯一の接点。握り拳より一回り半小さい、少女にとってはどこか竜を思わせる謎の紋
様。
 青年は、少女の返答を待っていた。決して否とは言わないものだと、信じきった笑みを
浮かべて。
 考える必要はない。少なくとも少女に拒否する意思は、毛頭なかった。人質を取られて
いる以上、そもそも選択の余地はないのだ。それが自分一人だけの問題であったなら。
「もちろん成功すれば、クロノジェムの他にも報酬は払うよ」
 即答しない少女を促すように、青年は甘く囁く。
「現金で困るなら、現物支給でも構わない。それともあとに残らないように、フランス料
理のフルコースなんてどうかな?」
 ディナーに誘うのと変わりない口調は、ある意味少女に近しいものではあった。ただそ
もそもの前提が異なっていたため、それは右から左へと抜けるのみ。何しろ彼女の懸念は、
報酬の大小あるいはその種別などではないのだから。
 もう一人の自分の世界を取り戻すために、異世界へ赴く。それは、何も問題はない。そ
んな突拍子もない話に疑問一つ憶えないことの方は、問題であったかもしれないにせよ。
 異世界において、高度な文明技術の産物を手に入れること。こちらが難問であった。綿
埃と違って、掃けば集まるものではない。それを駆使するは、かつて『自分』の世界を滅
する元となった機械の同類。これに打ち勝って、力づくで奪わねばならぬという。負けれ
ば『自分』とともに戦場に身を置いた仲間たちと、同じ道を辿ることになろう。
 死それ自体は、恐くはなかった。だが死ぬことによって『自分』に協力できなくなるか
もしれないという危惧が、少女を躊躇わせる。手伝うと、約束したのだ。かつて月夜の晩
に、自らの意思で。
 守りたいものは、変わらない。あのときも、今も。
   ああ、そうだった。
 わたしにも『わたし』にも、自分より大切なものがある。その想いの伸びる方向が同じ
だったから  それだけが理由ではないとはいえ  わたしは『わたし』を受け入れられ
たのだ。同じ身体に在る他人ではなく、『自分』として。
 だから。わたしや『わたし』の身のために「大切なもの」を失うことをこそ、『わたし』
は責めるに違いなかった。死を乗り越え、時空を渡ってまで求めた、世界と未来の救出に
失敗することよりも。
 度し難いな、と思う。自分が賢いと思ったことはないけれど、こんなに馬鹿だと思った
こともなかった。世界すら異なるところで育ってさえ、わたしはわたしらしい。
 だとしたら。わたしもいつか思うのかしら。世界を、未来を、護りたいと。
 受諾の意を示すまで、時間にすれば2分にも満たなかった。けれどそのわずかな時間は、
これまで自分という存在に接した中で、一番深い時間だった。残念ながら『自分』と言葉
を交わすまでには至らなかったが、それももう不要なのかもしれない。だって、わたしは
『わたし』だから。
 そう、呼びかけるだけでいいのだ。
   一緒に、取り戻そうね。
 世界と未来と、そしてそれより大切なものを。

「あ」
 自分でも間の抜けた声だと、言ってから気づく。それでは遅いのだが。
「どうかしたんですか?」
「……消えちゃった」
 後ろから隣りに出て問いかける千里に、ユーナイアは簡潔に答えた。今の今までしっか
り知覚できていた糸が、ぷっつり途絶えてしまったのだ。何の前触れもなしに。
「あそこにいたのは、確実なのよ。ついさっきまではね」
 そう言って、杖の先を2階建の建物に向ける。「でも今は、わからない」
 こんな風に切れたことは、これまで一度もなかった。だからユーナイアにとっても、いっ
たい何が起きたのかさっぱり把握できなかった。本来ならもっと違う消え方をするのだか
ら、この術は。こんな消滅の仕方は、例えばそう、世界そのものからその存在が消えてし
まったとか  
   世界?
 ないでもない可能性が、頭をよぎった。
「仕方ない、忍び込みましょ」
 もしもこの世界を離れ、別の世界へ向かったのなら。そこには、彼女らにとって不倶戴
天の敵がいるはずだ。かつて自分たちの世界を滅ぼすきっかけとなった、黒衣黒髪の美女
が。アンドロイドであるが故に個体差こそあるが、いずれも優れた戦闘能力を有している。
だからこそユーナイアたちはチームを組んで戦うし、またその仲間として迎え入れるべく、
少女を訪ねる予定であったのだ。
 彼女がユーナイアたちではない仲間を見つけて、ともに向かったのであればいい。が、
そうでないとしたら……
「少なくても、何か面倒なことに巻き込まれてるのは確かだから」
 推測が正しければ、これはもう警察の手におえる範疇ではない。外れてくれることを祈
りつつ、ユーナイアは一見普通の研究所を睨みつけた。
「時間の余裕は、なさそうですね」
 ふぅ、と一つ溜息をついて、千里もクロノジェムを取り出した。貴重な品であるから、
可能であれば使いたくはなかったのだが、どうやらそういうわけにもいかないようだ。も
う一人の千里であるチサトと違って、千里はただの  いや立派なマニアではあるが  
一高校生に過ぎない。荒事は苦手だし、彼の愛するアニメやゲームの登場人物のような、
特別な力があるわけでもなかった。
 なにより、千里として動けば万が一警察のご厄介になったときに大変だ。見知らぬ町を
歩く程度ならいざ知らず、女装のまま連行されるのはまっぴら御免こうむりたい。オタク
と呼ばれるのは一向に構わないが、変態と後ろ指差されるのはさすがにイヤだ。
 チサトと化した千里は、今まで隣りにあったユーナイアの顔を見上げて。
「じゃ、いこっか」
 ユーナイアよりよほどお気楽に、にっと笑ってその肩を軽く叩いた。

3.

 黒く長い髪は、少女と同じくらいか。背丈が頭一つ以上違うから、もう少し長いかもし
れない。舞踏会向けにしか見えないドレスは、こちらも黒。そのいでたちは、かつて『自
分』の世界を破滅に追いやったそれと、よく似ていた。
「時間犯罪者感知。排除する」
 少女と変わらないほど無表情に、抑揚のない声で。振り返って告げるその女性は、初め
から戦うことを想定して造られた機械人形  ディーヴァ。喧嘩らしい喧嘩一つせず育っ
た少女を仕留め損なうことなど、よもやないはずだった。
 けれどその一撃は、皮膚の一枚も裂くことは叶わなかった。内に宿すいま一人の記憶と
想いとをその身に同化させた少女は、もうただの高校生ではない。立派な戦士であり、そ
して黄昏の女神を祭る最後の巫女だった。いくら骨をも断つ武器であっても、無造作に振
るうだけでは捉えきれない。
 続く一斬りも、少女を傷つけるには至らない。そこでようやく、ディーヴァの目の色が
変わった。片手間で殺せるほど甘くはないと、屠るために全力を傾けるに値する敵だと、
認識したらしい。
 偉いな、と思う。彼女たちディーヴァと呼ばれる存在は、一所懸命なのだ。自分の使命
を果たすことに。それがたとえ製作者によって定められた、至高の命題だとしても。
 今度は猛禽類を思わせる鋭い爪が、首筋をかすめる。わずかでも身体をよじるのが遅れ
ていれば、髪の毛数本ではすまなかったに違いない。今だけは、わたしも一所懸命だ。今
はまだ、死にたくないから。死んでしまったら、きっともう護れないから。
   本当に?
 違う。確かに死んだら、護れないだろう。でも死んだら、護らなくてよいのだ。椿が捕
まったのは、わたしのせいで。わたしが『わたし』とこうして異世界へ行けるから、彼は
椿を狙った。こうして女神の加護を受けて戦えるから、わたしに目をつけた。わたしと椿
が無関係だったら  
 左腕が、血に染まった。でも、これはわざと。縦横無尽に鋭利な髪が踊っていては、近
づく隙もない。だからあえて腕に受け、その動きを止めたのだ。より踏み込むことで、一
番斬れる場所を避けて。それでもなお予想より痛かったのは、誤算だったけれど。
 その一瞬をついて、間合いを詰める。
   前も、そうだった。
 わたしの我が儘で連れ出して、危険な目にあわせたんだ。あのときは『わたし』のおか
げで、大事には至らなかった。けれどわたしが言い出さなければ、そもそも始まりさえし
なかった。
 びくん、とディーヴァの身体が震えた。この地でも女神の加護は届くらしい。
   迷惑、よね。
 反撃の一突きは、すれすれで躱せたはずだった。自分の血に足を取られなければ。
 針のような爪の先が、右の肩を刺した。しかし、浅い。痛みこそすれ、腕が動かなくな
るほどではない。腕力で渡り合うわけでもないから、まだ充分に戦える。
 でも。
   辛いな。
 髪に斬られた腕より、爪に刺された肩より。これから先、ずっと椿に迷惑をかけ続けて
しまう未来が。
 それは、まだ予感という段階ではあったけれど。

 悪い予感というものは、なぜか良く当たるもので。
 窓もない一室に監禁されていた女性を助け、囚われている獣たちを解放すると暴れるチ
サトをなだめ。辿りついた地下室では  
「彼女がしくじったら、また代わりを探すだけのことさ」
 にこやかに笑う青年が、偉そうな椅子に偉そうな態度でふんぞり返っていた。その左右
は、ボディガードらしい男二人。一人はあからさまに銃刀法に引っかかりそうな、大型の
ライフルを抱えている。いま一人は、スーツの上からでもわかるほど鍛え上げられた体躯
の、おそらくは格闘家。
 ユーナイアの右手後方には、水面をそのまま90度傾けたような楕円が浮かんでいる。強
い時空の力を感じさせるそれは、きっと異世界への扉。
「生きて帰ってくれば、僕らはディーヴァに有用な技術を手に入れられる可能性が高い。
彼女はクロノジェムを手に入れる。どちらにも損のない、いい取り引きじゃないか」
 本気でそう思っているのだ、この男は。
 ぷちんと何かが切れる音を、ユーナイアは確かに聞いた。
「僕らの研究が進めば、ディーヴァをより倒し易くなる。それはつまるところ、今消滅の
危機に瀕している数多の世界と、既に滅亡してしまった君たちの世界、どちらをも救うこ
とに……」
「他人の痛みをわかろうとしない人間に、救えるものがあるとは思えない」
 杖を持ち直し、語りに割り込む。言外に潜む棘に気づいたのか、ボディガードたちがじ
わりと二人の間に寄った。
「あなたは他人を将棋の駒くらいにしか考えてない」
 しかしユーナイアは、構わず杖を青年に突きつけた。まだ届く距離ではないけれど。
 それでも、青年は怯まない。
「何か悪いかい? 僕は自分でできる最良の手段を行使しているだけさ」
「そう  」
 すっと目を細める。何を言っても無駄だ。この男とでは、価値観が違いすぎる。
「なら私は私のできる最良の手段で、あなたに利用される人を救ってみせる」
 その宣言が意味するものを解さなかったのも、やはり青年ただ一人であった。

 ディーヴァは血を流さない。銀色の作動液が人と同じように流れはするけれど、それは
かすかに薬品らしく匂うだけ。だからこの充満する濃密な香りは、全て少女に起因する。
   ふぅ。
 綺麗に開いた傷口を見て、溜息一つ。どうやらこの匂いは、好きになれそうもない。
 ディーヴァの機能は、完全に停止したらしく。つい先ほどまで猛威を奮っていた豊かな
髪も、研ぎ澄まされた爪も、もう動く気配はない。かつて『自分』の世界を滅ぼしに来た
個体とはいくらか違うけれど、手強いという意味では同格だった。今しばらく粘られてい
たら、先に倒れていたのは少女の方だったかもしれない。何しろ今回は、ともに戦う巫女
はいなかったから。
 世界を取り戻すのに、あの青年は一つでは足りないと言っていた。
   何回、繰り返せばいいのかしら。
 何回、繰り返すことができるだろう。先にそちらを考慮するべきだった。今が何時だか
はわからないけれど、少なくとも一つ以上、授業は終わっているだろう。何も連絡してい
ないから、無断遅刻もしくは欠席。当然、家にも連絡が行く。今でさえ外出できる時間は
限られているのにこれでは、ますます厳しくなるのは疑いない。動けなくなれば  また、
椿に迷惑がかかるかも。
 それは、避けたい。でもどうすれば避けられるかは、わからなかった。
 もう一度だけ、小さく溜息をついて。少女は傷口に、破いた服を巻きつけた。今はとに
かく、できることをやるべきだから。いつかある次の戦いに支障をきたさないために、せ
めて止血くらいは。それと、忘れちゃいけないクロノジェムの回収も。
 訪れたときと同じ、熱さは全く感じない光が少女を迎えに来たのは、それからまもなく
だった。

 光が溢れたとき、立っていたのは3人だけだった。ユーナイアとチサト、そして格闘家。
ガンマンは既に気を失っており、彼らのボスたる青年は身の危険に気づいて早々に撤退し
ている。
 にもかかわらず、ユーナイアたちは未だ劣勢だった。どちらも純然たる殴り合いは専門
外で、その方面に突出した格闘家を相手にすること自体がそもそも間違いなのだ。ガンマ
ンを殴り倒したとはいえ、ユーナイアの杖は本来神に祈る儀礼用である。
   わかってたら、連れてきたのに。
 いつもなら前線を支えてくれる仲間は、いない。信頼する一人、翼ある騎士は相談相手
としては不向きであったし、いま一人のサムライは仲間として『ではなく』口説き落とし
にかかりそうだったから。そう判断して、いろんな方面に知識豊富でかつ比較的常識人の
千里を誘ったのだが、こうして戦いになることまではさすがに計算に入っていなかった。
今さら言っても詮なき事だと、わかってはいるのだが。
 格闘家一人でさえ手を焼いているところに、青年の『研究の成果』が加勢した。見た目
は虎とライオンの合の子のような、だがその実ディーヴァたちの進んだ技術の一部を施さ
れた、忠実かつ有能な番犬。その巨大な体躯が繰り出す太い爪と牙は驚異であり、ユーナ
イアたちはいずれか一方に攻撃を集中して先に倒すという基本すらできない状況にいる。
 光が満ち、そして引いていったのは、そんなときだった。
   無事だったみたいね。
 この光が異世界とをつなぐ掛け橋であることを、ユーナイアは知っている。こちらから
アクションを行っていない以上、これが帰還を意味するということも。どうやら完全に無
駄足になることだけは、避けられたようだ。もっとも、ここで負けなければの話だけど。
 一歩下がって、獣の爪を受け流す。少しでも気を緩めたら、杖ごと持っていかれそうな
くらい重い一撃。こんなのが何匹もいたら、確かにディーヴァも困るかもしれないなと、
思わざるをえない。手段こそ受け入れられないものであったが、ディーヴァを倒すという
目的自体は、ユーナイアもかの青年と同じだったから。
 光が完全に消えると、それまで揺蕩っていた「門」もまたなくなっていた。少女を迎え
るという、最後の役割を終えて。
 獣から注意をそらさないよう気をつけつつ、ユーナイアはちらりとそちらへ目をやった。
理事長には失敗してもよいとの許可はもらっている。ともに戦う仲間として相応しくなけ
れば、誘わずに帰ってもよいのだ。その判断も、ユーナイア……いや、優奈に任されてい
る。ダメだと思ったら、チサトを引っ掴んで逃げ出したって構わない。シエン様は旅人の
守護神。その力を借りれば、空間を渡ることさえできるのだから。
 が。
「ユーナ、右っ」
 チサトの指示に、咄嗟に反応する。直後、ユーナイアがいた空間を爪が貫いた。
   危ない、危ない。
 心の中で舌を出す。ほんの一瞬ながら、戦いのさなかにいたことを忘れてしまったよう
だ。ちょっと遅れていたら、串刺しだったかもしれない。
 ユーナイアに隙を作らせた当の本人は、それに気づくこともなく。
「ごきげんよう。お初にお目にかかります」
 ご丁寧にもユーナイアたちに頭を下げるのだった。手を伸ばせば届きかねない近場で、
真剣にどつきあいしているというのに。
 思わず脱力しかけたところを狙われずにすんだのは、僥倖と言ってよかった。

4.

「……初めまして」
 腰を落ちつけて挨拶できたのは、それから20分近く後のことである。どうにか格闘家と
獣を退け、警報機の鳴り響く中を走り抜けて、今は人気のない公園だ。優奈も千里も、既
に本来の姿に戻っている。もっとも着替える時間も場所もなかったから、まだ千里は千里
「嬢」だったが。
   えぇと。
 三つ指ついてお辞儀などという、ゲームやアニメでしか見られないと思っていたものを
至極自然にされて、優奈は戸惑っていた。こんなときにどう返せばいいのかなんて、見当
もつかない。自分がご主人様なら偉そうな態度とっていればよいのだろうけど、そうでは
ないし。詳しそうな千里はといえば、服装と元来人見知りする性格とが邪魔しているのか、
会話に混ざるつもりは毛頭ないようだ。
 ここはさらっと流して、さっさと本題に入ろう。
「実はね  」
 やや強引に、優奈は話を切り出した。
 自分たちもまた、失ってしまった世界を取り戻そうとしている。同じ目的を持つもの同
士で協力しあっていて、千里の他にも何人も仲間がいるのだと。
 説明しながら、優奈は自分の行動に今ひとつ納得しかねていた。優奈  ユーナイアは
もともと、神の力を借りて仲間を援護する後方支援担当である。だから「後ろに下がって
いろ」と指示されることはよくあったし、またそれが当たり前だとも思っていた。得意と
する分野を活かすことが、結局は一番みんなのためになるのだから。
 なのに今日は何を間違ったのか、「危ないから離れていて」と言ったのは自分である。
戦況の天秤は敵方に大きく傾いていて、幸運の女神が不平等に微笑みかけてくれなかった
ら、倒れていたのは優奈たちであったろうに。「助けて」でも「手伝って」でもいいから、
要請すべきだったのだ。優奈自身あのときそう思ったし、今でもそう思う。たった一人で
ディーヴァを倒して帰還するだけの力を秘めている以上、戦力として期待していいのは確
かなのだから。
 けれどその一言を、優奈は最後まで拒否してしまった。
「私たちの拠点は遠いから。ここからだと通える距離じゃないし、転校ってことになると
思うけどね。その気があるなら、全面的にサポートするわよ」
 優奈もまだ高校生だから、多くは理事長を頼ることになるだろう。でもできることがあ
れば、やってあげたい。自分でも意外ながら、それは本音だった。そんなに面倒見のいい
性格してたっけ? 少なくとも、無制限にお人好しではないはずだけど。
 変だな、と思いつつ。優奈は考え込んでしまった少女を見て、一度言葉を切った。

   転校……か。
 それは、一向に構わない。小中合わせて9年あまり通った学園にも、未練はなかった。
家出という言葉さえ今の今まで無縁でいたけれど、これからも無縁であることと同じでは
ないから。
 転校となれば、一人暮らし。一人暮らしなら、学校までの送迎もない。少しくらい遅く
帰っても、誰も咎めない。それは『わたし』にとっても、望ましい方向だろう。椿とも、
遠く離れて生活することになる。そうしたらもう、迷惑をかけずにすむかもしれない。
   椿のいない生活は、想像もできないけれど。
 そう思うと、随分と依存していたんだと今さら気づいた。きっとこれは、寂しいという
感情なのだろう。胸の奥でちくりと蠢くそれを、少女はそう判断した。でもそれは、先に
感じた痛みとは比較にならない。だってこれは、自分一人が我慢すればいいことだから。
 さて椿を救ってくれた彼女には、何を返せるのだろう。お誘いに応じることが、彼女に
報いる最良の方法なのか。接点を持つことが、迷惑をかける因になりはしないか。
「あなたはあなたがしたいように、すればいいわ」
 茶髪の美人さんは、そう笑う。
   したい、こと。
 小刻みに3度瞬きして。少しだけ、首を傾げた。そんなこと、いつ考えたきりだか思い
出せもしない。つい先日、夜中に無断外出したことだけは、憶えているけれど。
 でもそれで、椿を危険な目にあわせてしまった。
「わたしがご迷惑おかけしても、でしょうか」
 今ある望みは二つだけ。一つは椿の安全。これは遠く離れることで、おそらくは確保さ
れる。いま一つはクロノジェムを集める手段の模索。こちらは青年が行方知れずであり、
彼女を頼る以外の道を見つける方法はさっぱり不明だ。仮に青年と再び接触できたとして
も、それは椿の身に危険が及ぶ可能性を否定できない以上、もはや忌避すべき選択だった。
 かといって椿の恩人に、不当な負担を求めたくはなかった。今でさえ過多で、何も返せ
はしないのだから。
「当たり前でしょ」
 でもそれは、即答だった。
「だいたい、迷惑って何?」
「お困りになったり、ご不快になったりされることですけれど」
「ない」
 今度も、即答。
「あなたがいなくて困ることはあっても、いて困ることはない。いてくれたら私は嬉しい
から、不快にはならない。ほら、何も迷惑なことなんてないじゃない」
 その断定を、覆せるだけの材料はなかった。全てを引っくるめて、この人はわたしを迎
えてくれるつもりみたい。その気持ちに、わたしは応えられるのかしら。彼女が迷惑だと
認識する限界を越えず、「『わたし』の力」に対する期待を裏切らないことが。
 わからない、けれど。そうあろうと努力するのは、最低限の礼儀だと思う。そうして初
めて、差し伸べられた手を掴む権利がある気がした。
 またその手を拒むのは、かえって失礼であろうとも。
「あなたとなら、仲良くやっていけるって感じたの。放課後一緒に桜並木道を散歩したり、
寄り道して喫茶店で紅茶飲んだり。そんなお友達に、なれる気がする。なれたらいいな、
って思う。  て、もうただの願望ね」
 だってこの人は、わたしを求めてくれている。
「あなたは、どう? 私はあなたのお友達には、なれないかしら」
 真っ直ぐ向けてくる、明るい琥珀色の瞳を見つめ返して。
 ゆっくり首を振った後、丁重に頭を下げた。
 不束者ですが、よろしくお願いいたします  と。

 お見合いじゃあるまいし、その挨拶はどうなのか。
 そんなツッコミを入れそうになって、ようやく優奈は気づいた。私はこの娘に構いたい
のだと。お嬢様っぽいのにお嬢様っぽくなくて、どこかズレてるのにどうしてか全然不快
じゃなくて。一見どこにでもいそうで、だけどどこにもいなさそうな、どこがって指摘で
きないけど不思議な少女に。
 その瞳に映る自分が、完璧でありますように。いやそれは高望みであるにしても、せめ
て頼れるセンパイでありますように。どこかでそんな風に思っている自分は、新鮮だった。
   案外、見栄っぱりだったんだ。
 少なくとも目の前の少女には、弱みを見せたくないらしい。
「行きましょうか」
 一瞬よぎったツッコミは、口に出さずに。
 先に立ち上がって、優奈は無傷の右手を伸ばした。もちろん、掌を上にして。
「はい、優奈さま」
 手を重ねる少女を、そっと立たせる。慣れているらしく、優奈にはまるで重さを感じさ
せなかった。やっぱりこの娘は、生粋のお嬢様らしい。
 でも。
「さま、はやめてくれる?」
 それだけは譲れなかった。彼女にとって上級生をさま付けで呼ぶのは、至極当たり前の
ことなのだろうけど。優奈からすれば、むしろどこかよそよそしさを感じてしまう。従姉
妹に「ゆん姉さま」と呼ばれるのは、何故か全然気にならないのだが。
 数度、瞬きして。
「はい、優奈さん」
 つられてしまいそうなくらい、心地好く微笑む。
 思わずきゅっと抱きしめたくなる衝動をこらえるのに、優奈はほんのちょっとだけ苦労
した。

5.

 奥様はやり手だった。それだけは、認めざるをえない。何しろ月曜日にはもう、お嬢様
は転校扱いで学園から籍を失っていたのだから。
 そしてそのときには、お嬢様という存在が最初からなかったかのように、全てが片付い
ていた。少なくとも、表面上は。後継ぎにはお嬢様の妹さんが生まれながらにしてそうで
あったかのごとく収まり、ボディガードも相応の人数が振られた。いい面でも悪い面でも、
「旧華族の御令嬢」としての素養は妹さんの方が上だったから、それで問題はないように
見えた。家出なのか誘拐なのかさえわからなかったが、奥様は完璧なまでに「お嬢様がい
なかった世界」を構築してしまったのだ。
 私はといえば、お嬢様の代わりに妹さんのお世話をすることには、ならなかった。もと
もと妹さんには専属のメイドがいたし、私のせいでお嬢様がいなくなった可能性が、ない
とは言い切れない状況でもあったから。同じことが起きたら困る、と思われたのかもしれ
ない。それでも出て行けとは言われないし、今まで通りお仕事させてもらえるのだから、
奥様の度量が深いのも確かだった。
 新しく始まった日常は、ほとんど全員にとって、今までと変わらない。変わったのは私
と、お嬢様専属の運転手だった氷川さんだけ。
「椿さん、お手紙届いてますよ」
 それは、水曜日のことだった。お嬢様のお世話がなくなり、朝の時間をもてあましてい
たので、暇つぶしがてら庭の掃き掃除をしていたところだ。
 私は礼を言って受け取り、その場でひっくり返してみた。私宛ての手紙など、年に数度
あるかないかであったから。だが予想に反して、裏面には何も書いていなかった。という
ことは、家族からではないらしい。
 訝しんで表面を見ると、確かに宛名には私の名前が書かれている。間違いでもないよう
だ。これはいったい誰からかと、悩んだのはほんの一瞬。
「ありがとう!」
 もう一度叫ぶように言い残して、私は急いで部屋へ向かった。どこか丸みのある、だけ
ど綺麗な字体は、とても見慣れたものだったから。

 それは便箋一枚の、短い短い手紙だった。
 今までありがとう。迷惑かけてごめんなさい。ごきげんよう。要約すれば、ただそれだ
け。
 最後に、「あなたに逢えてよかった」と。
「……馬鹿」
 面と向かってでも、そうでない場所ででも。一度も思ったことすらない罵倒を、椿は遠
慮せずに口にした。
「ほんっとに、馬鹿なんだから……」
 お礼の言葉なんていらない。謝罪の言葉なんていらない。だのに、一番必要な本人だけ
がいない。それを馬鹿という以外の形容を、椿は知らなかった。3年も一緒にいたのに、
大事なところを何もわかってくれていなかったのだ。
 手の中で、便箋が弱々しい悲鳴を上げた。折るな濡らすなとわめくそれは、けれど椿の
耳には届かない。
「何が迷惑だってのよ、馬鹿馬鹿しい」
 謝るつもりがあるなら、帰ってきて直接言えと。そうしたらもう二度と離さないから。
 でもそれは、不可能なのだ。お嬢様は攫われたのではないから。自分の意思で、椿の元
を、家族の元を、離れたのだから。可愛い妹分だと思っていた彼女は、いつの間にか自分
で自分の道を選ぶ大人になっていたのだから。
 それがわかるだけに、いっそう悔しかった。わからなければ、なりふり構わず追いかけ
ていけるのに。
 だから、泣いた。思いっきり、泣いた。今日だけは、泣いてもいいはずだった。
 でも、いつまでも泣いてはいられない。お嬢様は大人になった。送り出す側が無様に泣
き喚き続けていては、合わせる顔がない。だってこれは、永遠の別れではないのだ。また
いつか逢えるのだ。ひさしぶりねと、笑って言える大人になったら。そうしたら堂々と、
逢いに行っていいはずだ。
 そのとき伝える言葉は、決まっている。

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