ドラゴンマーク≫星舞う夜に

 この屋敷に来て、そろそろ3年。バイトの割によく続いてるわ。
 寝起きでまだすっきりしない中、私はなんとなくそう思いながら、着替えを終えた。時
間まで、あと30分。顔を洗って髪を梳いてお化粧して、と考えると少し足りない。こうい
うときは、寝ぐせのつきやすい髪質がイヤになる。切ると似合わないから、楽になるとは
わかっていてもショートにはしないのだけど。
「お嬢様、朝でございます」
 とりあえず化粧は口紅を差すだけにしておいて、ドアをノックする。お嬢様を学校に送
り出せば、朝ご飯も込みでだけど1時間のフリータイムだ。
 中からの返事はない。いつものことなので、気にせず鍵を使って開ける。こう部屋が広
いと、よほど敏感でなければ普通のノックの音では目覚めない。私だったらどんなにどん
どん叩かれても起きない自信があった。こんな豪邸に住むことは、奇蹟でも起きない限り
ないだろうけど。
 でも今日は、いつもとちょっとだけ違った。
「……お嬢様?」
 ベッドの上にぺたんと座り込んでいるお嬢様は、寝惚けてるんだろうか。目は開いてい
るのだけど、反応はなかった。
「悪い夢でも見たんですかぁ?」
 内側のカーテンを目一杯開きながら、聞いてみる。射し込んでくる朝陽がまぶしい。
「夢……かな」
 ゆっくり、少しだけ首を傾げて、お嬢様は呟いた。「……よく、憶えてない」
 ありがちな話だ。と、私は思った。見ていた夢を起きたら忘れてしまっていることなん
て、珍しくとも何ともない。
「なら、気にしない方がいいですよー。憶えてないなら、憶えなくていいってことなんで
すから、きっと」
 言ってから、気休めに聞こえるかなと、少し不安だった。私は本気でそう信じているの
だけど、学生時代はクラスメートによく『あんたは気楽でいいわね』と言われたものだ。
どうやら私の言葉には重みが全然ないらしいから。
 でもお嬢様は、やっぱりゆっくり私の方へ目を向けて。
「そうね。ありがとう、椿」
 少しだけ微笑んで、そう言ってくれる。この人は万事につけこういう人だ。だからこそ、
私はこの仕事を続けている。もしそうでなかったら、とっくに辞めていたに違いない。醜
い嫉妬だとはわかっていても、この娘は私にないものをたくさんたくさん持っていたから。
働き始めてすぐの頃は、何度飛び出そうと考えたことか。
 でも今は、ここにいて本当によかったと思っている。
「さ、そろそろ支度を始めないと遅刻しますよ」
 ハンガーごと制服を出しつつ、私は話題を切り替えた。夢の件は、お嬢様が思い出した
ときに続きを聞いてあげよう、と自分の中でケリをつけて。
 お嬢様も今あえて追求するつもりはないらしく、頷いて着替え始める。脱ぎ終えたのを
見て私はブラウスを渡そうとし  
 ふと、目が止まった。
「ここ、どうかされたんですか?」
 胸骨の上の方、2本の鎖骨との交点より少し下のあたりに、痣らしいものが浮かんでい
た。昨日背中を流していたときには気づかなかったから、何かあったとすればお風呂のあ
とから今までの間なのだけど。
 お嬢様はといえば、私に指摘されて初めて気づいたようで。
「……竜?」
 じっくり一呼吸分それを見つめてから、答えた。疑問形で。
 竜。言われて私は、もう一度まじまじと覗きこんだ。でもどこをどう見たらこれが竜に
見えるのか、さっぱりわからない。楔形文字とか、そういうものなのだろうか。お嬢様に
そっち方面の知識があるなんて、今の今まで聞いたことどころか素振りさえなかったけど。
もっともお嬢様自身、確信もっているわけではなさそうだから、根拠あってのことではな
いのかもしれない。
 お嬢様がくしゃみをしたので、慌てて持ったままの服を渡した。5月になったとはいえ、
下着だけではさすがに寒い。
「何かぶつけたんですか、それ?」
「そんなことない……と、思う」
 イマイチ自信なさげな否定。こんな痣になるくらいな勢いだったらかなり痛いはずだか
ら、憶えてないなら違う、のだろうけど。お嬢様の着ていた寝間着を拾いあげてみても、
ほつれていたりボタンが取れていたりということもなく、何かがぶつかったような痕跡は
見当たらなかった。とすると、痣ではないのだろうか。ひょっとしたら念入りに洗えば落
ちるかもしれない。
 上を着たお嬢様を見て、私はひとまず安心した。ボタンさえちゃんと止めていれば、そ
れは完全に隠れたからだ。第2ボタンあたりまで外さない限り、目立たないだろう。ブラ
ウスだけだと透けてしまうけど、今の時期はこの上にブレザーだから、よほど目ざとくな
ければ気づくまい。リボン状の可愛いネクタイも邪魔してくれる。
 お嬢様は突然自分のカラダに湧いたそれにもあまり興味がないらしく、話はそのまま流
れた。女の子なんだからもう少し気にしても、と思うのだけど。それでいてこのスタイル
を維持できるんだから、神さまって不公平だわ。
 そんな八つ当たりを胸に秘めつつ、着替えを終えたお嬢様を三面鏡の前に座らせた。こ
のさらさらでいじりがいのある黒くて長い髪を、さて今日はどんな風にセットしよう……。

 結局それはボディソープで洗った程度では落ちず、釈然とはしないけど痣という以外に
適切な呼び名を見つけることができなかった。本当に痣なら、そのうち治って消えるだろ
うからいいのだけど。
「森……ですか?」
 湯上がりで綺麗な桜色に肌を染めたお嬢様は、表現に迷いつつ頷く。
「だと思うけど、そこまで生い茂ってはなかったかも」
 見渡す限り樹と草が広がる大地。木造の家がまばらに建つ集落。月と星の明かり以外は
目につかない夜空。
 そんな風景、まだどこかにあるのだろうか。昨夜見た夢は、そういうところだったとい
う。それ以上のことは、まだよく思い出せないらしいけど。
「このあたりには、ないかな?」
 ない、と言いかけて。ふとそうと見えなくもない場所を、思い出した。
 昔は切り開いて何かを建てようという話だったけど、バブルが弾けたせいで取りやめに
なった小高い丘。当時は男の子の遊び場として、木登りだのかくれんぼだのとよく利用さ
れたけど、今はテレビゲームに奪われてあまり人を見ない敷地。家はないけど、このあた
りでお嬢様の言う風景に近いのはそこくらいだろう。
 違うとは思うけど、と前置きして簡単に説明すると、お嬢様は少しだけ考えて。
「案内して、くれる?」
「い、今からですか?」
 私の言葉に、こくんと頷く。夜の9時を回っていて、外はもう暗い。学校は車で送り迎
え、日中でも滅多に許されないお嬢様の外出は、この時間ではどう説得しても認められな
いだろう。だからこれからとなると、奥様にも内緒でこっそりということになる。バレた
らクビだけではすまないかもしれない。
 さすがに即答はしかねた。断ったところでお嬢様は私のことを絶対に恨んだりしない自
信があったし、見つかったときのことを考えたら、ここで引き留めるのがお嬢様にとって
もベストなはずだから。
 でも私を見上げるお嬢様と視線が合ってしまったら、断れなかった。私が憶えている限
りで、それは初めての我が儘だったから。これまでずっと、奥様の言うなりにお人形さん
のような生活を繰り返すだけだったお嬢様の、初めての意思表示。それを奥様でもボディ
ガードでもなく、何の権力もない私に打ち明けてくれたのだ。
 応えて、あげたい。
「今すぐは、ダメです」
 まだ奥様も起きている時間だし、屋敷の守衛たちの監視も厳しい。見つからずに外へ出
るなら、最低でも日付が変わるくらいまでは待たないといけない。私は案内することを約
束した上で、うまくいく確率の高そうな案を出した。
 それに頷いて、お嬢様は私の手をとり  
「椿でよかった。ありがとう」
 出逢ってから今までで一番、活き活きした笑み。
 ずるいな、と思った。こんなに喜ばれたら、こんな表情を見てしまったら、もうどんな
お願いでも聞いてしまいそうだ。私は計算したってできないのに、どうしてこの娘は何も
考えずにやれちゃうんだろう。
 ……考えたこともなかったけど、私って立派な親バカになる素質充分なのかもしれない。
産む予定どころか、相手だってまだいないけど。

 月明かりのおかげで、足もとだけはどうにか不自由しない。
 私たちは樹を伝って密かに屋敷を出ることに成功した。慣れない木登り  降りだけど
  でお嬢様が服の端っこを引っかけて少し破いてしまった他は、トラブルもなし。あと
は帰ってくるまでバレないことを祈るのみだわ。
 早足で40分くらい歩いて着いた現場は、さすがに人っ子一人いなく、静かなものだった。
明かりは街の方に見えるだけで、このあたりには街灯すらない。いきおい、歩くスピード
も遅くなってしまう。
「夜って、暗いのね」
「……夜ですから」
 だのに、お嬢様は不思議そうな顔をしている。
「夢で見た夜は、明るかったんですか?」
 確かヨーロッパの方で、白夜が見られる地域があったはずだ。そこの夢なら、もしかし
たら明るい夜なのかもしれない。私は行ったことがないから、どう明るいのかは知らない
けど。
 でもお嬢様は、少し考えてから首を横に振った。
「ううん、暗いの。暗いけど、平気だったの」
 猫みたいに夜目が効いたってことだろうか。返答に困ったけど、お嬢様もさして期待し
てるわけでもないらしく。私はゆっくり歩くお嬢様の2歩ほど後ろの位置をキープしつつ、
あくびを噛み殺した。明日は寝不足で辛そうだ。
 あやふやな夢の記憶と一致する場所はないようで、お嬢様はあたりを見回しては別の方
角に向かう。木に登れば街明かりが見えるから、帰るときに迷いはしないだろうけど……。
 30分以上歩き続け、そろそろ諦めた方がと言いかけたそのとき。
 お嬢様が、唐突に立ち止まった。
「お嬢様……?」
 何かあったのかとお嬢様の視線の先を追うと、そこには木にもたれ掛かって座る女性が
いた。私より少し年下っぽい、月明かりででもわかる美人。人のことは言えないけど、こ
んなところに一人でいるにはずいぶん似つかわしくない。
「どうかなさいましたか?」
 手を伸ばせば届きかねない位置まで近づいて、お嬢様が声をかける。慌てて私はそのす
ぐ隣まで小走りに駆け寄った。いくらなんでも無防備すぎる。もし犯罪者だったりしたら、
何をしてくるかわからない。
 その娘はお嬢様の方に目を向けて、
「どうもしねぇよ」
 綺麗な外見とは裏腹な物言い。
「どうもしねぇが、腹は減ってるな」
 ぎろりとした、眼。
 この人は危険だ。私の理性はそう警告している。でも、足は動いてくれなかった。
「だから  」
 ゆらっと立ち上がる彼女は、私と背丈もほとんど変わらないのに。
「おめぇを、喰らうとしようか」
   怖い。
 お嬢様を守らないと、と思うのだけど、声も出ない。ただの綺麗な女の子にしか見えな
いのに、何がこんなに怖いのだろう。この娘はお嬢様を喰らうと言った。どうやって?
 自分が混乱しているのは、わかった。どうしたらいいのかは、わからない。でも。
「わたしって、美味しいんですか?」
 軽く首を傾げて、いつもと同じ口調で問う、お嬢様。
「おうよ。ケショーとかいう変な匂いもしねぇしな。ちと細っこいが、肉づきは悪くねぇ」
 言われて、自分の姿を一通り見回す。
「もっと太った方がいいですか?」
 すると伸ばしかけた手を止めて、その娘は腕組みして唸った。それから不躾にじろじろ
お嬢様を見て、首を振る。
「いや、おめぇはそれ以上太るんじゃねぇ。太ったらまずそうだ」
「あら、じゃあ今がちょうどいいんですね。お誉めいただいてありがとうございます」
 ほんとに嬉しそうに笑って、深々頭を下げる。つられてその娘も頭を下げかけ  
「いやなに……。……じゃねーっての!」
 叫ぶなり、お嬢様の目前まで詰め寄る。
「そーじゃねーだろっ。ワシはお前を喰らうと言っとるんだぞ。『きゃ〜助けて〜』だの
『命ばかりはお助けを〜』だの、言うことがあるだろうがっ」
 派手なオーバーアクション。……まだ足は動かない。動かないけど、なんだか最初見た
ときよりは怖くなくなってきた。そんな気がするのは、騙されているんだろうか。
 お嬢様はぱちくりと3度目を瞬いた後、彼女を真似た。すごくわざとらしく、でもお嬢
様自身はきっとすごく真面目に。
「こうですか?」
 ぽかんと口を開けてそれを見ていた彼女は、はっと我に返って、
「だーっ! そうじゃねぇ。そうじゃなくて、何でおめぇは怖がらねぇんだっ。ワシに喰
われたらおめぇは死ぬんだぞ。ちったぁ恐がりやがれっ。死ぬのが怖くねぇのか!」
 怒鳴ると凄味あるのだけど、いかんせん相手はお嬢様。
「死ぬのって、怖いことなんでしょうか?」
 真顔で問い返す。
 それに何か言い返そうとして、でもその娘は突然お嬢様から目をそらした。いや、そら
したっていう表現はよくない。右手にある茂みを睨みつけたって方が正しかった。思わず
つられて私もお嬢様もそっちを向くけど、暗くて何も見えない。
 ただ、声だけは聞こえてきた。
「女だ」「女だ」「3人いるぞ」「いるぞ」「うまそうだ」「喰ってしまえ」
 複数。男の人っぽい声だと思った直後、それらは飛び出してきた。土気色の、前も後ろ
も顔になってる、頭が4つ。首から下は、ない。翼が生えてたりするわけでもないのに、
なぜか浮いている。どうやって飛んでいるのかさっぱり不明だ。
 さっきまでとは全く違う恐怖感で、私はへたり込んでしまった。いっそ気絶してしまえ
れば見ずにもすんだのに、目だけは現実を追っているのが恨めしい。
「けっ」
 飛んでくるその頭たちの一つを、女の子は無造作に掴んだ。
「こいつは、ワシが喰らうって決めたんだ」
 途端、イヤな匂いが充満した。化学の実験で硫酸を使ったときのような、鼻をつく刺激
臭。
 彼女の手の先で、頭が溶けていた。
「てめぇらには、指一本やらねぇよ」
 ほんの一言、それを言い放つ時間だけで、頭は溶けきってしまった。最期に身の毛もよ
だつ悲鳴を残して。
 それを見た他の頭たちは、慌てて彼女から距離を取った。
「強い」「強いぞ」「探せ」「見つけろ」
 頭たちは今まで向けてたのと反対側の顔を、一斉に私たちに向ける。反対側といっても、
顔の造りとかはほとんど同じだ。ただ、瞳の色だけは明らかに違っていた。さっきまでの
側は濃紺がかった黒だけど、こちら側は赤みがかっている。
 その一つと目が合い  
 気がつくと月も星も見えない、完全な暗闇の中に、私は一人でいた。やがてそこにもう
一人の私が現れる。続いて、お嬢様が現れた。途端に闇が晴れて、お嬢様の部屋の様子が
鮮明になる。これは、昨日の光景だ。昨日の私が、昨日のお嬢様と話をしている。それを、
やや後ろから眺めている今の私。
 少しして、それは一昨日のものに変わる。その次は、少し飛んで5日前。どれもこれも、
私の過去の記憶だ。もしかしてこれが、死の直前に見る「走馬灯のように」ってヤツだろ
うか。マンガなんかだと子供の頃から今現在に向かって見るというけど、私が今見てるの
は逆。今現在から、どんどん過去に遡っている。変な感じだけど、なぜだか恐くはなかっ
た。そういえばこんなこともあった、という懐かしい思いの方が強い。
   お嬢様は、どんな光景を見ているんだろう。

 いつまで、遡るのかしら。
 目の前のわたしは、もう小学校に入る前まで若返っていた。それより前はわたしの記憶
があやふやなせいか、見える風景もあやふやで、進むのも早い。やがてわたしは自分で歩
くこともできない赤ん坊になり、とうとう消えてしまった。
 でも、終わらない。
 わたしは、あらためて産まれた。そこはお母さまが入院していた病院、じゃない。どこ
か見知らぬ場所。そこからはさっきと同じく、展開が早い。わたしが憶えていないからだ
ろう。今までとは逆、産まれてから順々に風景が変わっていく。
 見渡す限り樹と草が広がる大地。木造の家がまばらに建つ集落。月と星の明かり以外は
目につかない夜空。
 目の前のわたしは、日本ではないどこかの民族衣装らしい服を着ている。これは、10歳
のときだ。女神に選ばれしものとして、初めて先輩の方々と混じり、巫女としての修行を
始めた日。年に一度だけ早く帰ってきてくれるお父さまと、誕生日のお祝いにと料亭で食
事した日。同じ日、同じときの、けれど場所の異なる二つの記憶が、どうしてかわたしに
はあるみたい。
 わたしじゃない、でももう一人のわたしは、14のとき戦場に出た。この日は、一学期の
期末試験の最終日。戦いが始まるまでの恐怖と、試験終了記念で椿に一口だけもらったお
酒の味、どっちもちゃんと思い出せる。
 化け物と対峙してしまうと、恐さを噛み締める余裕もなく。終わってみれば、軽い打ち
身一つですんでいた。素質があるねと誉められて、曖昧に笑って逃げた。喜んでいいとは、
思えなかったから。
 誰にも相談できなかった悩みは、わたしとわたしだけが知っている。
 それから2年、もう一人のわたしがわたしを追い越して、16になった頃。祈れば常に身
近に感じた女神は、その日から突然掴めなくなった。全く前兆なしに訪れた未知の異変に、
できたのはただ戸惑うことだけ。わたしだけでなく、巫女全員が。
 そしてその夜、あいもかわらず月に数度やってくる化け物に、わたしたちは負けた。女
神の加護があればこそ戦えたのであって、それがなければわたしを含めたほとんどはただ
の非力な女に過ぎなかったから。
 それまでわたしたちの補佐でしかなかった村の男たちは、役に立てないわたしたちを、
身を挺して庇ってくれた。彼らを犠牲にして、わたしたちは村人を先導して逃げた……み
たい。最後まで反対したわたしが憶えているのは、いつも厳しかった、でも本当は優しい
先生が歯噛みした顔と、お腹のあたりに生じた鈍い痛み。目が覚めたら来たことのない場
所で、その間のことは話に聞いただけ。
 それからはもう、逃げるだけの日々。聖地と謳われるところ目指して、わたしたちはた
だ逃げた。途中同じように逃亡を続ける他の村の方たちと幾度となく合流し、その都度女
神を感じとれない無力な巫女が数名増え、夜にはまた幾人もの犠牲者を出しながら。
 辿りついた聖地には、10人で両手を伸ばして囲んでやっと届くくらいの、大きな黒い宝
石が鎮座していた。近づくだけで女神の息吹を感じる、真珠の原石らしきもの。さすがは
聖地と誰もが誉め称え、霊珠と崇め。それを中心に村を築き直すと、全員一致で決定した。
 わたしたち巫女は、その一部を削り出して身につけることになった。そうすればここか
ら離れても、女神を感じられるから。そうしないと、あの化け物に立ち向かう術がなかっ
たから。
 わたしはそのときになって、ようやくそれまでの悩みをふっきれた。人間ではないとは
いえ、生きるものの命そのものを根源から奪い去る力。女神に授かったそれを行使する自
分を受け入れるのが、恐かった。初めて戦場に立ったときから、ずっと。
 でも今は、それより怖いものがある。力を揮えず、希望を砕いたのに、それでも守ろう
としてくれた人たちを、失うこと。
   もう誰も、なくしたくない。
 わたしが頑張ることで、一人でも多くを守れるのなら、何を躊躇おう。戦うことで救わ
れる人がいるのなら、わたしは女神に感謝しよう。そのための力を授けてくれたことを。
 頼まれてでも何でもなく、わたしは初めて自らの意思で、戦う道を選んだ。
 それから幾度かは、守りきれた。けれどここに至るまでの犠牲は大きすぎて、対照的に
増え続けた化け物には、数でさえ及ばない。怪我で戦いに出られる巫女もわずかになり、
いよいよ次の逃亡先を求めざるをえなかった。
 それは、空。
 わたしたちが祈る夜の女神の姉妹神、昼の女神に祈りを捧げ、風を操る力を授かった巫
女。彼女らの力を結集し、霊珠を中心に聖地一帯を大地から切り離して浮かばせる。最初
はみんな無謀だと思ったけれど、聖地でさえ守れないわたしたちに、それより安全な場所
はありえなかった。
 かの地でもっとも女神の加護が濃いと謳われる聖地と、巫女だけでないたくさんの祈り
とが調和したせいか。奇蹟的にも、試みは成功した。
 空を舞う島にまでは、さすがの化け物も現れなかった。最初のうちは念のためしばらく
見回りを続けていたけれど、30日をすぎても影すら見当たらず、わたしたちはそう結論づ
けるに至った。わたしが産まれたときには既に始まっていた戦いの歴史は、やっと終結し
た。誰しもそう思って、そしてある意味間違ってもいなかった。
 けれど空に生活の場を移してわずか半年。ずっと同じ高度を飛空していた島は、ひとた
びがくんと揺れると、突然に不安定な軌道を描き始めた。わたしはそのときちょうど一緒
に話をしていた歳の近い巫女と顔を見合わせ、すぐに根幹の霊珠の間へと走った。
 待っていたのは、惨状だった。その日制御を担当していた二人の巫女は、血溜まりに伏
してぴくりともしない。鼻をつく匂い立ち籠める中で、見たこともない装置に手を翳す一
人の女性。黒衣を纏った、美しくも無機質な印象を与える彼女が、巫女たちに手を下した
のは明白だった。人ならざる鋭さを持つ爪と、奇妙に編んだ髪の先からは、まだ乾いてい
ない血が滴っているのが見てとれたから。
 その装置が何なのかはわからない。ただその女性が島の制御を奪い、何かをしようとし
ているのはわかった。巫女の仇討ち、そして島を、島に生きる全てを守るために、わたし
たちは戦った。
 それには、勝った。けれど不思議な装置によって歪められた制御は、誰の力をもってし
ても回復できなかった。島は不規則な飛行をわずかに続けた後、どこにそれだけ力があっ
たのかと思うほどの速度で  墜ちた。
 怒り。憎しみ。絶望。無力感。精神を苛むたくさんの負の感情と、身体を苛む急速な落
下が招く圧力に、わたしは顔を歪め  

 目を開けると、そこは小高い丘だった。そう認識した途端、もう一人のわたしの感覚が
すうっと消えていく。
   今のは、夢?
 判断しかねていたわたしの耳を、嬉しそうな、けれど気味の悪い声が震わせた。
「見つけた」「見つけたぞ」「これか」
 頭だけでふわふわ浮いているそれが、口を開く。するとどういう仕組みになっているの
か、中から氷柱らしいものが上がってきて。次の瞬間、ものすごい勢いで飛び出した。
「がぁっ」
 それに貫かれた女性が、苦悶の表情を浮かべる。
「痛かろう」「辛かろう」「母者の恨み」
 今度は隣の顔が、炎の柱を吐きつけた。かすめもしないのにちりちり感じるくらい、熱
い炎。身に受けたら全身火傷、もしかしたら即死するかもしれない。
 それを正面から浴びても、女性は生きていた。頭たちにとっては当然のことなのか、驚
いている様子はまるで見られない。
「貴様を殺してから喰ろうてやるわ」「我は身体ぞ」「儂は腕をば喰らうてくれる」
 頭たちは、わたしを食べたいらしい。わたしが食べられたら  椿は?
 目の前で繰り広げられている不可思議な光景に、椿は何の反応も示していない。まだ記
憶の旅の途中かしら。
   守らないと。
 わたしじゃない、もう一人のわたしは、村人全員を守るために戦った。わたしには、そ
んなにたくさん守りたい人はいない。わたしが今守りたいのは、たった一人。それでもも
う一人のわたしは、もう一人のわたしが祈り続けた女神は、わたしに力を貸してくれる?
   きっと、届く。思いの丈が偽りでなければ、応えてくれる。
 答えたのがもう一人のわたしなのか、それともわたしの願望が生んだ幻なのか、区別は
できないけれど。
 どうしてか熱をもっている胸の痣に手を重ねて、わたしは祈った。もう一人のわたしが
儀式で用いる言葉とともに、あれが夢でないと信じて。
   我に、力を。
 何かが割れる音がして、月明かりに慣れた目には眩しい光があたりを照らす。光源は、
わたしの痣だ。どうして光るのかはわからないけれど、光が招いたものはわかった。もう
一人のわたしの記憶。経験。そして、心。
「何奴」「人の娘ではないのか」「構わぬ喰ろうてしまえ」
 頭の一つが、わたしに向かってきた。いつものわたしだったら、きっと何もできない。
 でも今は、戦う術を知っているもう一人のわたしがいる。
「いただきまぁす」
 大きな口で噛みつこうとしたそれを、『わたし』は横方向から軽く押して進行方向をず
らしつつ  女神に授かった力を、解放する。
 耳ざわりな悲鳴が、上がった。
「ばぁかぁなぁ。お前は、お前はぁ」
 狼狽えているのが、露骨にわかる。『わたし』が反撃するとは、予想だにしなかったに
違いない。
 距離を取ろうとするそれに追いついて、もう一度『力』を解き放つ。2回目には耐え切
れなかったのか、気味の悪い悲鳴を上げたかと思うと、それは空気に溶けるみたいに消え
てしまった。
「あぁにじゃあぁぁぁ」
 残ったうちの片方が、叫びながら口を開く。中から今度は氷柱でも火柱でもなく、細い
針みたいな髪がどっと溢れてきた。これは  もう一人のわたしは、憶えている。やっと
得た安住の地を滅亡に導いた、黒衣の女性が得意とした技。鞭みたいにしなやかで、でも
髪なのに硬くて突き刺さる、紛れもない凶器だ。この頭たちは、『わたし』の記憶の中に
あるものを再現する力を持っているみたい。
 黒衣の女性は強かった。でも  みんなで力を合わせたとはいえ、もう一人のわたしは
彼女に勝ったんだ。
『わたし』は鋭く突き出されるそれを、掴んだ。そのまま勢いを利用して、地面に叩きつ
ける。純粋に膂力では及ばないけれど、だからこそもう一人のわたしは相手の力を利用す
る術を学んだ。女神の加護が及ばなくても、守れるように。女神の加護が届くなら、存分
に活かせるように。
 呻く頭に触れて『わたし』が祈ると、頭はびくんと一瞬震えた後、やっぱりすうっと消
えてしまった。
「ひぃぃぃぃ」
 最後に残った頭は、逃げ出そうとして、でも果たせなかった。
「おいこら、どこに行こうってんだ」
 どくどく血を流しているにもかかわらず、彼女は笑っていた。
「ワシにこんな傷を負わせといて、逃げられるとでも思ったか?」
 頭を掴んだ手に、力がこもるのが見えた。すると最初と同じように、嫌な匂いが充満し
て  頭は、溶けてしまった。

   まったく、とんだ邪魔が入りやがった。
 ワシは右腕に刺さったままの氷柱を引き抜いて、ぽいっと捨てた。傷ができたのは忌々
しいが、奴らは全部ぶっちめたし、もういい。それよりも、あの美味そうな女をぱくっと
喰らってやるとしよう。
 と、振り向いたら、
「ご無事ですか?」
 女はいつの間にか、すぐそばにいやがった。
   た、ただの女だと思って油断したか?
「傷口、開いてますね。これで足りるかな……」
   そういえばさっきの頭野郎、この女が2つ潰したんだったな……。
「わたしにはこれくらいしかできませんから、あとは早めにお医者さんに診てもらってく
ださいね」
   まぁこのワシが後れを取ることもあるまいが、一応お医者さんに……
「……医者?」
 何でこのワシが医者なんぞに。
 頷く女に、ワシは言ってやった。
「けっ。医者ごときに頼らなくても、ワシは平気なのよ。おめぇら人間とは違ってなぁ」
 けけけ。恐がりやがれ。ワシはおめぇら人間を喰らう化生よ。
 だがこの女は、どこか変だ。
「まぁ、すごいんですね」
 ……本気で感心してやがる。
「だぁー! だからそーじゃねーだろ……」
 ワシは言いかけて、女の左肩から先がまる見えなのに気づいた。腕は肉づきが足りなく
ていまいち美味そうじゃない。……いやそうじゃなくて。
 指差そうと伸ばした腕に、何か巻きついていた。
「ん?」
 見比べてみると、どうやら女の服の切れ端らしい。そういや目の前で何か細々やってや
がったようだったが、これか。
 ……この女、実はただの阿呆じゃねーのか?
 ワシを退治しようという気概のある人間は何人も喰らったが、こんなヤツは初めてだ。
「おめぇなー。ワシのことより、自分のことを心配しやがれっ」
 少しは怯えてくれないと、喰らう楽しみが増えん。泣き喚いて命乞いする輩をぺろりと
喰らうのが楽しいのに、なんでこいつはこうも面白くない反応を返しやがるのか。見た目
はそうでもないが、もしかしてとんでもない阿呆なのか?
 ワシがすごんでみせると、女は自分の姿を見直し、
「はぁ。片側だけ袖なしだとみっともないですね」
 言うなり、右側の袖も破いて  
「これでどうですか? あ、じゃあこれも使ってくださいね」
 破いたそれを、まだ血が止まっていないワシの左腿に巻き始めやがった。
 ワシは真剣に考えた。威嚇しても気づかねぇ、言葉で言ってもわからねぇ。腕の一本く
らい溶かしてやりゃあ少しは恐がるか? ……いや、こいつには何を言っても、何をやっ
ても無駄な気がする。
「はい、できました。動きにくくないですか?」
   こいつは、真性の阿呆だ。
「けっ。やめだやめだ! 阿呆を喰らったら阿呆がウツるっ」
 阿呆は消化も悪い。こんなの喰らって腹でも壊したらかなわん。
「おめぇがもっと賢くなったら、そのときにはワシが必ず喰らってやる。憶えてやがれ」
 言い捨てて、ワシはさっさとこいつに背を向けて歩き出した。のんびりしていたらまた
変なことを聞かされて、調子を狂わされかねん。
   人間ごときにひっかき回されるなんざ、まっぴら御免だ。

 ゆったりした振動。昔パパにおぶってもらったときは、もっと揺れが安定していて寝や
すかったな。
 寝起きでまだすっきりしない中、私はなんとなくそう思いながら、ゆっくり目を開けた。
周りは暗くて、どうやら夜らしい。今どのあたりだろう……。
 見回そうと首をもたげて……
「お、お嬢様っ?」
 私をおぶって歩いてるのは、父ではなかった。認識した途端、現実が舞い戻ってくる。
父におぶってもらったのはもう15年ほど昔、わたしがまだ小学校に入る前の頃だ。今の私
はもう背も人並みだし、体重は……秘密だけど、でもどっちもお嬢様より上。おまけにお
嬢様の非力さは折り紙つきだ。
「降ろしてください、もう大丈夫ですからっ」
 慌てて急に身体を動かしてしまう。私をおぶっていたのではまっすぐ歩くのさえままな
らないお嬢様が、それに耐えられるはずもない。という事実に気づいたのは、二人して道
端に転んでからのことだった。
「も、申し訳ありません。お怪我ありませんか?」
 起こそうと手を引き、つい力加減を間違えてお嬢様のバランスを崩してしまい、そのま
ま抱き合う格好になる。ええい、落ち着け、私。
 あたふたしている私に、お嬢様はくすりと笑って  
「よかったぁ」
 きゅっと軽く抱きついて、囁く。
「椿が無事で、安心した」
 私よりほんの少しだけ高い体温。これだけ近づかないと気づかない、淡いシャンプーの
香り。細いけど不健康そうには全然見えない、柔らかな腕。
   いつもと同じ、お嬢様だ。
 歳の割にある胸を通じてかすかに感じる心臓の鼓動で、私はようやく自分を取り戻せた。
「ご心配、おかけしました」
 ぽんぽんと肩を叩いて、私も抱き返す。お嬢様も怪我らしい怪我はないようだ。自分が
無傷なことより、よっぽど嬉しかった。
「さ、そろそろ帰って休みましょう」
 ひとしきり二人で無事を喜びあった後、私はお嬢様を促した。お嬢様は明日も普通に学
校だし、遅くなればなるほど奥様にバレる危険性も高まるし。
「今度、お祝いの乾杯しましょう」
 そう言うと、お嬢様はにっこり笑って頷いた。
 それから3日後、土曜の夜。自腹で買い込んだお菓子とジュースで、私たちはささやか
に生還を祝った。幸い誰にも見つからずに帰りつけ、被害らしい被害といえばお嬢様があ
の夜来ていった服を一着ダメにしてしまっただけ。次の日の仕事はさすがに眠くて辛かっ
たけど、どうにか居眠りせずにこなしきれた。
 でもそれだけの日数が経過しても、お嬢様の痣は薄くなる気配もなかった。
「困りましたね……。泰さんに診ていただきましょうか?」
 こうまでずっと残っていると、さすがに気にかかる。一見病気とかではなさそうだけど、
ちゃんと診てもらった方がいいかもしれない。そう思って屋敷に常駐している、専属の医
師の名前を出してみたけど、お嬢様は軽く横に首を振った。
「ううん、いいの。これのおかげで、前は助かったんだもの」
 今は服で隠れて半分ほどしか見えない痣に、右手を乗せる。その中指には、小さな青水
晶らしい宝石の埋まった指輪がはめられていた。前はもっと大きくてブローチにしてあっ
たのだけど、あの日割れてしまって。カットし直し、指輪に仕立てたものだ。細工師の腕
がいいのか、弱い光でも綺麗に反射する。
 言うなれば、まるで宝石そのものが光っているかのように。
「だからね。今度はわたしが、これに付き合ってあげるの」
 微笑むお嬢様の胸元が、宝石に呼応してやんわり光を帯びたように見えたのは……
   目の錯覚、よね。きっと。
 私はそう自分を納得させて、空になっているお嬢様のグラスにアイスティーを注いだ。

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